『風の精』を救いたい
「早く何とかしないと……」
電車のなか、俺の右手2メートルくらいのところにその少女は立っている。まず目につくのがシャギーのかかった腰まであるぼさぼさの黒い髪だ。まるで四方に吹き荒れる風を個体化したような荒ぶり方だが、そのふさふさの各々が若さの特権を誇るかのようにつやつやと輝いていた。ときどき鬱陶しそうに頭を振り、そのたびに髪が風の化身のように宙を舞う。
顔はこっからうまく見えない。が、可愛い系ではあるようだ。しかし黒々とした眼はきつく、狂犬病にかかったキツネのようなイメージがする。怒っているからなのかスタンダードな表情なのかは分からない。胸は小ぶりで、お尻は小さく、この無駄のない体型が彼女の狂ったキツネのような雰囲気をますますくっきりと形のあるものにしており……いやこれ以上の描写はやめよう。なぜって、なんだか変態じみている! とにかく俺は彼女には近寄りがたい雰囲気があると言いたかっただけだ。
もし彼女が、俺の疑似ストーカー行為に怒って「我は風人・死瑠風威の名において命じる、キモいからハワイまで吹っ飛べ!」とか命じたら、本当に精霊が出てきてハワイまで吹っ飛ばされそうだ。『風の精』と呼ぶのがぴったりの気がする。
実を言うと、高校にいくために乗車しているこの電車で、俺はたびたび『風の精』に会っている。しかし性格が本当にキツめかどうかを知る間柄ではないし、思いきって彼女に話しかけてそんな間柄にしていくほど青春向上スキルもないので、こうしてライト・ノベルならぬライト・ストーカーのような外見的な観察記録を吐き出しているわけだ。
といっても一目惚れとかそういうのではない。確かにお近づきになれたらいいなとは思っているが、見た目の好みだけで動くほど俺はスペイン=ラテン的、すなわち情熱的ではない。そうではなく、ひとことで今は緊急事態だ。なんとかして助けてやりたい。それが偽らざる本心だ。なぜ俺が今朝に限って、『風の精』の少女への関心を通常稼働時の十七倍に引き上げているのか。それには差し迫った理由がある。
俺の右手2メートルくらいのところにその少女は立っているのだが、彼女の格好は上は深い海の色をしたつまり紺色の制服に、下は紺色と緑色とが格子柄をつくったチェックスカートで、いやそのデザインはどうでも良くて、問題はそのスキマというか左のお尻のほうに貼りついた白いブツにある。
白い布のようなものだ。その中央には、なにかクマのようなキャラクターが描かれているようだ。マジシャンが吊るしたハンカチのようなしわくちゃの形になっているのでよく分からない。忌憚なく男の意見を言わせて頂ければ、これは女子高生のパンツと呼ばれる物体だと思われる。
それがなぜ? 『風の精』の膝上5センチくらいのわりと保守的なスカートの、左の尻のほうに外側から吊るされている。電車が揺れるたびに吊革につかまっていない彼女が揺れ、彼女が揺れるたびに白いパンツも振り子のように揺れる。
もちろん本人は気づいていない。俺がもう10分くらい観察しているのだから間違いない。乗車率7割くらいでけっこうキツキツの他の乗客も気づいてない? そんなはずはないと思うのだが、十数人の乗客の前で「パンツくっついてますよ」と言って、年頃の女の子に恥ずかしい思いをさせたくない優しい人々なのかもしれない。
しかし、このまま誰も指摘しなければ彼女はもっと恥ずかしい思いをするだろう。電車を降りて改札をくぐるまで尻にひっついたクマパンツが変態どもの眼に晒され、学校につくまで同じ学校の生徒から笑われ後ろ指をさされ、もしかしたら名前まで覚えられる。しまいには「クマパン子」とか「クマンバ」とあだ名を付けられ、いじめられるかもしれない。いやその可能性は大いにある。
中学・高校生という空間は、劣ったあだ名をつけられた者は3年間蔑まれ続ける。そのような言霊が支配する原始人空間なのだ。ここは俺がヒーローポイントの獲得に欲を出してもいい場面だと思う。俺が幼稚園のころ死んだ天国のおじいちゃんはきっと応援してくれる。
とはいえ『風の精』を傷つけずに、彼女にパンツの存在に気づかせるのは至難の業だ。おそらくクマパンツは、少女の自宅でなにかの拍子で引っかかってしまったものだろう。直接「クマパンツ引っかかってますよ」と言わなくても、よほど頭が悪くない限り、それを連想させるだけで気づくはずだ。迷っている暇はない。さっそく決行した。俺は『風の精』の左うしろからさりげなく距離を詰めていき、人間ふたりぶん位の距離に立っている。
「パンッパンッ」
「パンパンパンパンッ ツッ」
俺は指をピストルの形にして、咳払いのような声を出してみた。『風の精』を見てみたが、とくに表情に変化がない。立ちながらなにかの小説を読み耽っている。かわりにピストルの射線上で座っている、前髪の後退したサラリーマンが腐った蛇の死体を見るような目で俺を見て、「ちっ」と舌打ちをした。他の観客もチラチラと嫌悪の視線を俺に投げる。
世界から見捨てられたようなすごく悲しい気持ちになったが、気を取り直して、俺は携帯電話を取りだした。
「あ、ケンジ? そういえば最近おじいちゃんの家のちかくの山にクマが出没してさ、なかなか降りて行かないで困ってたみたいでさ。そういうときは猟銃でパンパンパンパンツってやっちゃうしかないのかな? クマのパンをさ。まあ残酷だとは思うけど、放っておくとクマの被害が広がるだけだからその前にパンをつかうしかないかなって。うんうん。クマは手強いから、パンを二丁でパンツーが必要かもな。もちろんパンツーは最終手段だけどな。とても里の人には見せられないから。それはそうだな、アッハッハ」
無論、ひとり芝居だ。こんな内容空虚な会話で盛り上がることなどいくら男子高校生がアホな種族だといってもありえない。ななめ前にいる風の精の少女の様子を窺うと、相変わらず本を読んでいて、まったくこちらに振り返ろうともしなかった。なんて鈍感な女だ。なんか怒りが湧いてきた。
「おいきみ、電車で電話するのは止めたまえ」
いきなり、携帯を持ってる腕を掴まれた。右手に20台後半で身長の高いラガーマン風の容貌の精悍なサラリーマンが、俺の右手を掴んでいる。
「今の高校生が『友達以外はみな風景』という風潮なのは知っている。だがな、集団生活をしていれば必ず守らなければならない線というものはあるんだ。自分さえ良ければいいなんて、恥ずかしくないのか?」
お兄さんに説教されてしまった。俺はこのラガーマン風のお兄さんと目指す理想は同じのはずなのに……。なぜ勘違いされ、日陰を歩かなくてはならないのか。少し涙ぐんでしまう。
「分かればいいんだよ。気をつけてね」
やさしくそう言うと、ラガーマン風お兄さんはもとのギリシャ彫刻のようなキリッとした起立沈黙姿勢に戻った。
「次は~『○○台』『○○台』」
やばい。俺の学校のある駅だ。もう四の五の言ってはいられない。今すぐ早急に、『風の精』を救わねばならない。でもどうやって? もう公衆の面前で、直接パンツついてますよと言うしかないのだろうか。
ブドウ糖を消費してほんの数十秒で頭を高速回転し、本当に迷ったすえに、彼女に小さく声をかけることにした。彼女の左手後ろからそれとなく近寄り、あと50センチ、30センチ、そっと左肩に手を乗せ……ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイシューーーーッ――――――。
この時いきなり電車が猛烈に揺れた。すごく揺れて、俺は床に倒れた。うう……全身を床に打ちつけて凄く痛い。するとふわふわっ。なにか、左手に柔らかい物を強く握りしめている感触に気づく。目を開けてみると、それはクマ的キャラクターを大きくプリントした、白のパンツだった。
おおっ、ちょっとしたアクシデントのはずみで、目的のブツを回収してしまった。偶然という神の御加護で、とうとう俺は『風の精』を救ったのだ! 嬉しくて左手にパンツを握ったまま、そういえば『風の精』はどこだろうと膝を起こした。
振り返ると、そこには仁王立ちした『風の精』の姿があった。その眉間はいつもよりしわが寄っており、キツネというよりも血に飢えた狼のようであった。
「この変態が!私のパンツ返せ!そして死ね!」
『風の精』に思いっきり顔面を蹴られて、俺は左手にパンツを掴んだまま意識を消失した。
『風の精』は、こういう性格だった。