離婚した途端、元夫の幸運が尽きた
離婚届の隣に、結婚相談所から取り寄せた男たちのプロフィールが四通並んでいた。
秘書が置き間違えたのだと思い、どけようとした瞬間、相馬怜司がその上に手を置いた。
「先に見てみろ」
私は顔を上げた。
「どういう意味?」
怜司は一番上のプロフィールを開いた。
「三十二歳。大学病院勤務の外科医。初婚。条件も悪くない」
「気に入らなければ、あと三人いる」
私はしばらく彼の顔を見つめた。
「もしかして、私の再婚相手を探してるの?」
「そうだ」
怜司はためらいもせず答えると、すでに署名済みの離婚届の横へ万年筆を置いた。
「離婚したあとも生活は続く。候補は俺が一度確認してあるから、お前はこの中から選べばいい」
「気に入った相手がいたら秘書に伝えろ。そのあとはこっちで手配する」
言葉が出なかった。
八年間の結婚生活をいつ終わらせるか決めたのも彼だった。そして今度は、離婚したあと誰と人生を始めるかまで決めようとしている。
そのとき、ドアがノックされた。
「相馬社長、白石さんがお見えです」
秘書の言葉を聞いた怜司は、すぐに立ち上がった。
私は呼び止めず、八年間つけ続けてきた結婚指輪に目を落とした。細かな傷が増え、縁の光沢もすっかり薄れている。
昔、祖母に言われたことがある。
「誰かのために何でもしてあげているとね、その人はいつか、それが最初から自分のものだったと勘違いするようになるよ」
あの頃は、ただの年寄りの小言だと思っていた。
今なら、少しだけ意味が分かる。
1
ドアが開き、白石美緒が入ってきた。私より五歳年下で、淡い色のセットアップを着ている。
私の姿を見た瞬間だけ足が止まったものの、すぐに笑顔に戻った。
「紗月さんもいたんですね」
私は何も言わなかった。
美緒はそのまま怜司の隣まで歩いていった。続いて秘書が資料の束を抱えて入ってきたが、それを置いたのは私の机ではなかった。
「白石さん、本日の経営会議の資料です」
美緒が目を瞬いた。
「私に?」
「相馬社長からのご指示です」
美緒が怜司を見ると、彼は軽くうなずいただけだった。
これまで八年間、経営会議に出す資料の最終確認は私の仕事だった。私は怜司の妻であると同時に、相馬都市開発株式会社の執行役員兼プロジェクト統括責任者でもある。
ちなみに結婚後、戸籍上は相馬姓になったが、仕事ではずっと旧姓の「久世」を使い続けていた。
社員が六人しかいなかった頃から、資金繰り、案件管理、顧客対応、社内ルールまで、怜司と二人で一つずつ作ってきた。
けれど今日から、その場所に立つ人間は変わるらしい。
美緒が資料を数枚めくったところで、ふと思い出したように言った。
「怜司、午後の胃薬、まだ飲んでないよね?」
「ああ」
美緒は慌ててバッグを探ったものの、しばらくして困ったように笑った。
「ごめん、持ってくるの忘れたみたい」
怜司は何も言わず、彼女の耳にかかった髪を指先で払った。
あまりにも自然な仕草だった。
私は無意識に自分のバッグへ手を伸ばしていた。一番上には、いつも怜司のために持ち歩いている胃薬が入っている。
八年間、彼の薬を切らしたことはほとんどない。
取り出そうとしたところで、怜司が先に口を開いた。
「いい。秘書に新しいのを買わせる」
私の手が止まった。
「承知しました。すぐ手配します」
秘書が答える。
私は何も言わず、薬をバッグへ戻した。
私の用意した胃薬を怜司が受け取らなかったのは、八年間で初めてだった。
その直後、スマートフォンが震えた。
長年共有していたカレンダーから、私のアカウントが外されたという通知だった。続いて、自宅のスマートロックや緊急連絡先など、いくつかの共有設定が変更されたという通知が入る。
秘書がタブレットを持って近づいてきた。
「久世執行役員、共有設定の変更一覧だけご確認いただけますか」
画面には、これまで私が管理してきた項目が並んでいた。
共有カレンダー、自宅のスマートロック、かかりつけのクリニックに登録してある緊急連絡先、よく利用するホテルやレストランの予約情報。それから、私に割り当てられていた役員車と駐車許可証。
怜司の薬のアレルギーや健康診断の日程まで入っている。
そして最後に、新しい連絡担当者の名前があった。
白石美緒。
「どうして私の確認が必要なの?」
秘書は少し困った顔をした。
「久世執行役員のアカウントで共有している項目が残っていますので、解除対象だけご確認いただきたいとのことです」
私は怜司を見た。
「ただの手続きだ」
「確認しておいてくれ」
私はタブレットではなく、印刷されていた一覧表を手に取った。
秘書がほっと息をつく。
次の瞬間、私はその紙を真ん中から破った。
紙の裂ける音が、静かな部屋に響いた。
「紗月」
怜司が眉を寄せる。
「私の権限を外したいなら、好きにすればいい」
「でも、私が八年間かけて整えてきたものを、私自身の手で白石さんに引き継ぐつもりはない」
美緒の笑顔がわずかにこわばった。
「子供みたいなことをするな」
怜司の声が低くなる。
「あなたの生活から私が抜けるのは、私の問題よ」
「これから薬を覚えるのも、予定を管理するのも、どの店で何を避けるのか覚えるのも、あなたたち二人でやって」
「次の人の教育まで、私にやらせないで」
数秒の沈黙のあと、怜司は秘書へ視線を向けた。
「作り直せ。久世の権限解除だけでいい。新しい担当者の確認は必要ない」
「承知しました」
午後の経営会議が始まる時間になり、怜司と美緒が会議室へ向かった。私も席を立ったが、入り口で秘書に止められた。
「申し訳ありません、久世執行役員」
「相馬社長から、本日の会議には出席いただかなくていいと」
私は秘書の顔を見た。
彼女は申し訳なさそうに目を伏せるだけだった。
開いたドアの向こうから声が聞こえる。
「白石さん、南浜再開発の資料、今後はお願いします」
「よろしく」
美緒が資料を抱えたまま中へ入っていく。
目の前でドアが閉まった。
少しして、秘書が追いかけてきた。
「もう一つ、お返しするものがあります」
差し出されたのは黒いキーケースだった。
私に割り当てられていた役員車のキーが入っている。その下には、新しく発行された駐車許可証のコピーがあった。
利用者――白石美緒。
私は二秒ほど見つめ、ケースを閉じた。
「相馬社長に伝えて」
「車はいらないって」
そのまま秘書へ返す。
スマートフォンが震えた。
怜司からだった。
【離婚届に署名したら、弁護士に渡しておいてくれ】
数秒後、もう一通。
【結婚相談所との顔合わせは明日の十九時にしてある】
【遅れるな】
2
私は行かなかった。
翌日の十九時を少し過ぎた頃、怜司から電話がかかってきた。画面を眺めてから、私は通話ボタンを押した。
「どうして行かなかった?」
「行きたくなかったから」
「紗月、今度は何に怒ってるんだ?」
私は答えなかった。
彼は本気で、自分が離婚後の生活まできちんと用意してやれば、それで責任を果たしているつもりなのだ。
怜司は少し黙ったあと言った。
「帰ってこい」
「話そう」
霞ヶ浜市郊外の自宅へ戻ると、リビングの明かりがついていた。テーブルには温かいお粥が置かれている。
怜司は椅子に座っていた。
「先に食べろ」
私は玄関から動かなかった。
「何?」
「胃が弱いだろ。空腹のままにするな」
私はお粥を見た。
「あなたが作ったの?」
怜司が一瞬止まる。
「ハウスキーパーに作らせた」
「そう」
やっぱりそうだった。
私の胃が弱いことは知っている。でも、どうして悪くなったのかまでは、たぶん考えたことがない。
怜司が一冊の書類をこちらへ押した。
株式譲渡契約書だった。
「これは?」
「会社を始めた頃に約束した十パーセントだ」
「今、正式に譲渡する」
八年前、相馬都市開発を立ち上げたとき、最初の資金の一部は私が出した。実績のない会社に銀行は十分な融資をしてくれず、私も自分の貯金を会社へ入れた。
そのとき怜司は、経営が安定したら自分の保有株式のうち、会社全体の十パーセントに相当する分を私へ渡すと約束した。
けれど会社が大きくなるにつれ、私たちは目の前の仕事に追われた。その話はいつしか後回しになり、私も催促しなかった。
まさか離婚を前にして、初めて正式な契約書を見ることになるとは思わなかった。
「どうして今?」
「元々、お前の分だ」
「会社がここまで来るまで一緒にやってきた。金のことでお前に損をさせるつもりはない」
私が何か言おうとしたとき、怜司のスマートフォンが鳴った。
白石美緒からだった。
「どうした?」
電話の向こうで何か言われたらしい。
怜司の表情が変わった。
「今どこにいる?」
すでに立ち上がり、上着を取っている。
「美緒、どうしたの?」
「胃が痛いらしい」
「見てくる」
私は目の前の株式譲渡契約書を見た。
そして、聞く必要などなかったはずのことを口にしてしまった。
「じゃあ、私は?」
怜司が動きを止めた。
「何が?」
「お前は今、何ともないだろ?」
目を閉じた。
聞いたことをすぐに後悔した。
ドアが閉まる。
お粥は少しずつ冷めていった。
私はしばらく一人で座ったあと、株式譲渡契約書の最後のページに署名した。
そしてもう一枚。
退職届と、執行役員の辞任届にも名前を書いた。
翌朝、私は会社へ行った。
私物だけを箱に入れ、会社のパソコンやデータには一切触れなかった。会議室の前を通ったとき、ドアが少し開いていた。
「今回の案、白石さんはよくまとめたね」
「相馬社長の人選は正しかったってことか」
足が止まった。
私はドアを開けた。
大型モニターに映っているのは、三か月以上かけて私が作った南浜再開発プロジェクトの企画書だった。
ただし、表紙の責任者名だけが変わっている。
白石美緒。
「紗月さん」
美緒がすぐに立ち上がった。
「この案件は、とりあえず私が引き継いだだけで――」
「説明はいらない」
私は資料を閉じた。
怜司を見る。
「南浜プロジェクトからも降りる」
「紗月、どういうつもりだ?」
私は社員証を机に置いた。
「そのままの意味」
「退職届と執行役員辞任届は提出した」
「今日から、相馬都市開発の仕事で私に連絡しないで」
会社を出る前に、弁護士からメッセージが届いた。
【久世様、ご依頼いただいた過去の精算状況を確認しました】
【今回譲渡される株式とは別に、未払いの成果報酬、役員報酬の一部、個人立替金など、未精算のものが複数残っています】
添付された明細を開く。
創業初期に私が立て替えた費用。
いくつかの大型案件で約束されていた成果報酬。
一時的に会社へ残したまま精算されていなかった報酬。
八年分を並べてみると、決して小さな金額ではなかった。
3
そのタイミングで、怜司から電話がかかってきた。
「どうして弁護士に過去の精算まで調べさせてる?」
「もう辞めるから」
「今まで計算しなかったものも、最後くらい整理しておこうと思って」
電話の向こうが静かになった。
「紗月、そこまでする必要があるのか?」
私は少し笑った。
「離婚を言い出したのは私じゃない」
「私は初めて、自分のものを自分のところへ戻してるだけ」
通話を切った。
会社を出ると、道路脇に黒いマイバッハが停まった。
後部座席の窓が下がる。
「乗れ」
私は動かなかった。
「さっき電話で話したでしょう?」
「精算の件はまだ終わってない」
「株式と未精算分について説明する。乗ってくれ」
それなら話を聞く理由はある。
私は後部座席へ乗った。
車が走り出すと、怜司は書類袋を差し出した。
中には株式譲渡の手続き書類と、経理が再確認した未払い分の一覧が入っていた。
「十パーセント分の株式は、このまま名義書換の手続きを進める」
「それ以外の未精算分も経理に確認させている。支払うべきものは払う」
私は何枚かめくった。
「さっき電話してきたのは、私が余計なものまで取ると思ったから?」
怜司が眉を寄せる。
「そんなことは言ってない」
「ただ、急に弁護士を入れて八年前からの精算まで洗われるのが気に入らないだけだ」
「今までは、夫婦だから計算する必要がないと思ってた」
私は書類を閉じた。
「でも、もう夫婦じゃなくなる」
「だから今のうちにきれいにしたいだけ」
怜司はしばらく黙った。
「俺たち、本当にここまでしないと駄目なのか?」
私は窓の外を見た。
「離婚届を先に用意したのは、あなたでしょう?」
彼は何も言わなくなった。
しばらくして、私は車が弁護士事務所にも自宅にも向かっていないことに気づいた。
「どこへ行くの?」
「もう一件ある」
「何?」
「着けば分かる」
二十分ほどして、車は霞ヶ浜市中心部の高級ジュエリーショップ前で停まった。
「降りろ」
「何をするの?」
「サイズを確認したい」
嫌な予感がした。
それでも私は店へ入った。
スタッフは怜司を見るなり、すぐに近づいてきた。
「相馬様、お待ちしておりました。ご注文のリングが仕上がっております」
濃紺のベルベットケースが開く。
中にはダイヤモンドリングがあった。
スタッフは私と怜司を交互に見た。
「先ほど伺ったサイズですと、こちらのお客様とほぼ同じとのことでした。差し支えなければ、サイズ確認だけお願いできますでしょうか」
私は手を出さなかった。
「まさか、そのために私を連れてきたの?」
「美緒とお前は指のサイズがほとんど同じだ」
「一度つけてもらうのが一番早い」
私は怜司の顔を見た。
さっきまで八年間の結婚生活を清算する金額について話していた男が、今度は当然のように、次の女のための指輪を妻に試着させようとしている。
彼の中では、その二つに何の矛盾もないのだろう。
私は最後に手を出した。
リングは薬指にぴったりだった。
「サイズは問題なさそうですね」
スタッフが登録用紙を開く。
「刻印はいかがなさいますか?」
「M・Sで」
怜司が答えた。
私の指がわずかに止まった。
Mio Shiraishi。
白石美緒。
私はリングを外し、トレーへ戻した。
「これでいい?」
「ああ」
スタッフが空気を察したのか、それ以上は何も聞かなかった。
店を出る直前、彼女は私の薬指に目を留めた。
「お客様のリングも、よろしければクリーニングを承れますが」
八年使った結婚指輪は細かな傷だらけだった。
私が答える前に、怜司が言った。
「必要ない」
スタッフは静かに頭を下げた。
そのあと怜司は、同じビルの上階にある馴染みのレストランへ私を連れていった。
いつも使っていた窓際の席だった。
「本日も、以前久世様から伺っていたお好みでお作りしております」
料理が次々と並んでいく。
銀鱈の味噌焼き、茶碗蒸し、薄味の炊き合わせ、それから私が昔よく注文していた甘味。
「まだ覚えてたんだ」
私が言うと、スタッフが笑った。
「以前、久世様から相馬様のお苦手な食材や塩分について細かく伺っておりましたので、お二人のお好みは記録に残しております」
箸が止まった。
覚えていたのは怜司ではない。
昔の私が残した情報だった。
怜司が鞄からUSBメモリを出した。
「これを見てくれ」
「何?」
「婚約発表パーティーの進行案だ」
私は顔を上げた。
「離婚届が受理されたあと、美緒との婚約を正式に発表する予定だ」
「彼女はこういう場に慣れてない。今までこの手の段取りはお前がやってたから、最後に直してほしい」
USBメモリを見つめる。
「いいわ」
怜司の表情がわずかに緩んだ。
「百万円」
「何?」
「相馬社長」
私は彼の目を見た。
「私はもう退職したの」
「会社のイベント企画を依頼するなら、仕事として料金をいただきます」
怜司は数秒黙り、スマートフォンを手に取った。
「口座を秘書に送れ」
「百万円でいいんだな?」
「ええ」
私は正式に仕事として引き受けた。
ちょうどそのとき、先ほどのジュエリーショップのスタッフが包装済みのリングを持って現れた。
「相馬様、刻印が完了いたしました。こちらは白石様のご勤務先へお届けしましょうか?」
「ああ」
「もしサイズに違和感があれば、本人から連絡させる」
私はバッグを取って立ち上がった。
「食べないのか?」
「仕事の話は終わったから」
店を出たところでスマートフォンが震えた。
弁護士からの通知だった。
過去に未払いとなっていた成果報酬の第一回分が、指定口座へ振り込まれたという。
五百万円。
私は金額を確認して、画面を閉じた。
4
二日後、私は婚約発表パーティーの最終案を怜司へ送った。
メールの件名は簡潔にした。
【白石美緒様 婚約発表パーティー最終案】
添付ファイルの一つ目は進行案。
二つ目は、署名済みの離婚届の写しと、弁護士がまとめた財産分与の確認書。
本文には一文だけ書いた。
【依頼されたものは、すべて終わりました】
あとで秘書から聞いた話では、怜司は最初にパーティーの資料を開いたらしい。
招待客、席次、料理、メディア対応、両家の挨拶時間。美緒が緊張しそうな場面まで想定して、進行を調整しておいた。
「これだけの規模を短期間でまとめるのは、経験がないと難しいですね」
秘書がそう言っても、怜司は答えなかったという。
そして二つ目の添付ファイルを開いた直後、私へ電話をかけてきた。
「久世紗月」
声がいつもより低かった。
「どういう意味だ?」
「ファイル名を見れば分かるでしょう」
「パーティーの仕事は終わった」
「離婚届にも署名した。原本は弁護士が預かってる」
「明日、予定どおり提出する」
電話の向こうが静かになる。
「本当にそこまでやるのか?」
私は思わず笑いそうになった。
「相馬怜司」
「離婚しようと言ったのはあなた」
「私の次の相手まで用意したのもあなた」
「言われたとおり署名したら、今度はどうして本気にしたって聞くの?」
怜司は答えなかった。
「俺はお前を放り出すつもりじゃない」
「離婚後のことまで考えてる」
「何がそんなに不満なんだ?」
私は窓辺に立ったまま、目を閉じた。
八年間、何度も喧嘩をした。
でも今になってみれば、話が噛み合っていなかった理由が分かる。
「あなた、本気で思ってるのね」
「私があなたなしじゃ生きていけないって」
彼は否定しなかった。
私は返事を待たずに電話を切った。
翌日、離婚届は正式に受理された。
戸籍上の姓も久世へ戻った。
私は以前住んでいた家へ荷物を取りに行った。
ハウスキーパーが私を見て、戸惑ったように立ち止まる。
「久世様……」
彼女もまだ呼び方に慣れていないらしい。
「荷物を取りに来ただけよ」
「本当に、お引っ越しされるんですか?」
「ええ」
「もう私の部屋を用意しておかなくていいから」
八年間暮らしたわりに、自分の荷物は多くなかった。
スーツケース一つと段ボール二箱でほとんど片づいた。
寝室の引き出しを開ける。
結婚指輪と、祖母から昔もらった古い翡翠のペンダントが入っていた。
私はペンダントだけを取った。
結婚指輪は置いていく。
玄関には予備の鍵、スマートロックのカード、古い駐車許可証を並べた。
最後にリビングを見回した。
ダイニングテーブル。
ソファ。
書斎のドア。
ずっとここで歳を取ると思っていた。
でも今見ると、ただの一軒の家だった。
外では車が待っていた。
運転手がドアを開ける。
「紗月様、千鶴様がお待ちです」
「行きましょう」
車は静かに走り出した。
その夜、怜司が帰宅した頃には、家の中に私の気配はほとんど残っていなかった。
玄関を開けた彼は、たぶんいつもの癖で私の名前を呼んだ。
「紗月?」
返事はない。
キッチンには夕食もない。
書斎には整理された会議資料もない。
クローゼットの半分は空になっている。
ハウスキーパーが小さな箱を渡した。
中には鍵とカード、それから八年間つけていた結婚指輪が入っていた。
同じ頃、私は祖母の家へ向かう車の中にいた。
千鶴からメッセージが届く。
【帰っておいで】
少しして、もう一通。
【これからは、自分のために力を使いなさい】
窓の外を流れていく街灯を眺めた。
八年前から、私は時間も力もほとんど怜司と会社に使ってきた。
これからの人生くらい、自分のために使いたかった。
5
久世家へ戻ったあと、私は祖母が経営してきた久世プロジェクトマネジメント株式会社を引き継いだ。
会社は決して巨大ではないが、創業から二十年以上が経っている。大型商業施設のプロジェクトマネジメント、リスク管理、施工コンサルティングなどで安定した取引先を持っていた。
千鶴が高齢になってからは保守的な経営を続けていたものの、二年前から東証グロース市場への上場準備も進めている。
私が戻ると、祖母は少しずつ経営権限を私へ移してくれた。
怜司と別れて七日目、業界ニュースがスマートフォンに届いた。
【相馬都市開発、南浜再開発プロジェクトの新責任者を発表】
写真には怜司と美緒が並んでいた。
SNSには二人がお似合いだという声もあれば、美緒が次の相馬夫人になるのではないかという書き込みもある。
中には、前の妻が気の毒だというコメントもあった。
アシスタントが遠慮がちに聞いた。
「久世社長、何か対応しますか?」
「何に?」
「相馬夫人について書かれているので」
私は資料を開いた。
「もう私じゃないわ」
その日の午後、美緒が突然会社へやってきた。
相馬都市開発のスタッフを二人連れている。
オフィスへ入るなり、美緒は周囲を見回した。
「相馬を辞めて、すぐ自分の会社を経営してるなんて驚きました」
私は椅子を勧めた。
彼女は座らない。
「正直、尊敬してます」
「八年間、仕事も人脈も全部相馬都市開発の中にあったのに、また一から始められるなんて」
私は資料を閉じた。
「褒めるために来たわけじゃないでしょう?」
美緒がバッグから招待状を取り出した。
「週末、南浜再開発プロジェクトの事業説明会があります」
「怜司から渡してほしいって」
「どうして私を?」
「以前の責任者ですから」
「関係者として、きちんと出席したほうがいいんじゃないですか?」
私は彼女をしばらく見た。
「白石さん」
「本当に自分のものを手に入れた人って、どんな人か分かる?」
笑顔が少し止まる。
「わざわざ前にそこにいた人のところまで来て、『これは今、私のものです』って見せつけたりしないの」
美緒の表情が固くなった。
「まだ怜司のことが忘れられないんですか?」
「八年一緒にいたのは知ってます」
「でも恋愛って、先に出会ったほうが勝ちじゃないでしょう?」
「そうね」
私が素直に答えると、美緒は少し驚いた。
「だから私はもう降りた」
「本当に奪い合うつもりだったら、あなたは今、あの席に座れてない」
美緒の顔色が変わる。
「どういう意味ですか?」
「私がいらないものを持っていったなら、わざわざ返ってきて見せなくていいってこと」
美緒はしばらく黙っていた。
「あとで後悔しないといいですね」
私は仕事へ視線を戻した。
「後悔してることなら一つだけある」
「一緒に歩ける人と、最後まで一緒に歩ける人は違うって、もっと早く気づけばよかった」
週末、南浜再開発プロジェクトの事業説明会が開かれた。
私は出席しなかった。
ただ、説明会には取引先や金融機関だけでなく、業界メディアも招かれていた。
その日の午後、ある記者とのやり取りを収めた映像が業界メディアに転載され、SNSでも急速に広がった。
「白石さん、南浜再開発の基本計画はご自身で策定されたものですか?」
美緒は笑顔で答えた。
「はい。最終案は私がまとめました」
「では、こちらのシステム上の作成履歴については、どう説明されますか?」
会場のスクリーンにプロジェクト管理システムの記録が表示された。
初期設計。
リスク管理。
コストモデル。
作成者はすべて、久世紗月。
白石美緒の名前が現れるのは、その後の修正履歴だった。
「それは初期案です」
「最終案は私が最適化しました」
記者はさらに続けた。
「現在問題になっているリスクの大半が、白石さんのアカウントで削除、あるいは変更された項目と一致していますが?」
美緒の表情が固まった。
動画を閉じた直後、怜司から電話が来た。
「南浜がこうなるって、分かってたのか?」
「ええ」
「どうして言わなかった?」
私は窓の外を見た。
「何を言えばよかったの?」
「美緒が私の企画を引き継いだこと?」
「それとも、彼女が削ったところが一番削っちゃいけない部分だったって?」
返事はなかった。
「紗月……」
「以前、問題が起きたら最初に私へ電話してたよね」
「今は隣に別の人がいるんでしょう」
「だったら何か起きるたびに、もう辞めた人間へ戻ってこないで」
怜司は長い間、黙っていた。
「本当に、もう何とも思わないのか?」
私は机の上の新しい契約書を見た。
「思ってたよ」
「だから離れたの」
通話を終えた直後、南浜プロジェクトの事業主から正式な連絡が入った。
【久世様、改めてプロジェクトのリスク管理および全体統括をお願いしたいと考えております】
私は少しだけ画面を見てから返信した。
【承知しました】
6
数日後、秘書がオフィスへ入ってきた。
「久世社長、相馬様がお見えです」
「待ってもらって」
二十分後、秘書がまた戻ってきた。
「まだお待ちです。仕事が終わるまで待つと」
最後の書類に署名してから、私はペンを置いた。
「入ってもらって」
怜司は紙袋を持って入ってきた。
数日見ない間に少し疲れた顔になっていた。
「仕事、終わったか?」
「用件は?」
彼は紙袋を机に置いた。
「途中で買った」
中には、昔好きだった店の栗羊羹が入っていた。
会社を立ち上げたばかりの頃、深夜まで働いていると、怜司が時々買ってきてくれたものだ。
「ありがとう」
私は箱を一度開け、すぐに閉じた。
「でも最近、甘いものはあまり食べなくなった」
「いつから?」
「あなたと別れてから」
怜司はしばらく何も言わなかった。
「紗月」
「今夜、食事しないか」
「最後にちゃんと話したい」
私はバッグを取った。
「離婚届まで受理されたのに、何回お別れすればいいの?」
「俺は……」
「何?」
「お前は怒ってるだけだと思ってた」
私は笑った。
「何をしても、最後には私が戻ってくると思ってた?」
怜司は否定しなかった。
以前なら、確かにそうだった。
オフィスを出たところで、エレベーターが開いた。
美緒が紙袋をいくつも持って立っていた。
私を見ると、そのまま自然に怜司の腕へ手を絡める。
「怜司、ドレスの直し終わったよ」
「リングの確認もあるから、早く行こう」
そう言って、私の反応をうかがう。
「じゃあ、待たせないほうがいいわね」
私はそのまま帰ろうとした。
「あ、紗月さん」
美緒に呼び止められる。
「婚約発表パーティーの進行で一か所だけ分からなくて」
「前はこういうの、全部紗月さんがやってたんですよね。少しだけ教えてもらえません?」
「いいわよ」
美緒の目が明るくなる。
私は名刺を取り出した。
「久世プロジェクトマネジメントのコンサルティングは、二十万円から」
「予約してくれれば、担当から見積もりを送ります」
笑顔が固まった。
「そういう意味じゃなくて、ちょっと聞きたかっただけです」
「質問も業務よ」
「前は無料だったけど」
「今は有料」
周囲にいた社員が笑いをこらえている。
美緒は怜司を見た。
「怜司……」
以前なら、彼女が少しでも困った顔をすれば怜司が助け舟を出した。
けれど今回は、彼はずっと私を見ていた。
「行こう」
「でも――」
「また今度だ」
怜司が先にエレベーターへ乗る。
美緒は仕方なく後を追った。
ドアが閉まる直前、彼女の顔から笑顔が消えた。
夜、祖母の家へ戻ると、千鶴が夕食を用意していた。
味噌汁を私の前へ置き、顔を見る。
「最近、よく眠れてるんじゃない?」
「どうして分かるの?」
「顔色」
私は味噌汁を一口飲んだ。
「確かに」
「ここ数日はあまり眠れない日がないし、胃も前ほど痛くない」
「午後になるとよく頭が痛かったけど、それも減った気がする」
千鶴の箸が少しだけ止まった。
「体が楽になったなら、それでいいよ」
私は深く考えなかった。
けれど祖母は庭の古い楓を見ながら、長いこと黙っていた。
7
翌朝、会社に着くと秘書が急いで入ってきた。
「久世社長」
「相馬様と白石さんの婚約発表パーティー、中止になったそうです」
「そう」
「理由、聞かないんですか?」
「私には関係ないから」
秘書は少し迷ったあと、スマートフォンを見せた。
「ただ、白石さんは朝から相馬都市開発へ行ったみたいです」
「かなり揉めているとか」
昼、取引先へ契約を結びに行くと、エントランスで怜司と美緒に出くわした。
美緒の目は真っ赤だった。
「内部資料を出したのは私じゃない」
「怜司、信じて」
私に気づいた瞬間、彼女の表情が変わった。
「この人じゃないの?」
「久世紗月が私を陥れようとしてるんじゃないの?」
周囲が静かになる。
私はそのまま通り過ぎようとしたが、美緒が前へ回り込んだ。
「私のことを一番嫌ってるのはあなたでしょう?」
「あの記録を外へ出せる人なんて、他に誰がいるんですか?」
「一つ忘れてない?」
美緒が黙る。
「最終責任者になったのはあなた」
「修正履歴に残っているアカウントもあなた」
「最終版を承認して提出したのもあなた」
「今さら問題が出たからって、どうして私のせいになるの?」
美緒の顔から血の気が引いた。
ちょうど取引先の担当役員が出てくる。
彼は怜司ではなく、真っすぐ私へ歩いてきた。
「久世社長、お待たせいたしました」
「会議室をご用意しております」
私は握手し、そのまま中へ入った。
一時間後、契約を終えて出てくると、廊下の向こうでまた言い争う声が聞こえた。
「どうして私の権限を止めたの?」
「オフィスまで返せって、どういうこと?」
「社内調査が終わるまで、全プロジェクトから外れてもらう」
「リスク管理上の措置だ」
「昔はそんなことしなかったじゃない」
美緒の目から涙が落ちる。
「前なら、私のこと信じてくれたでしょう?」
怜司は答えなかった。
彼女の手を自分の腕から外す。
「会社で騒ぐな」
初めて彼は、美緒をなだめなかった。
私が立ち去ろうとすると、美緒が突然こちらへ向かってきた。
手を伸ばした瞬間、私の秘書が間に入る。
美緒は自分でバランスを崩し、ヒールを滑らせて床に倒れた。
周囲ではすでに何人かがスマートフォンを向けている。
「どうしてこんなことするんですか……」
泣きそうな顔で私を見上げる。
「ここ、監視カメラがあるから」
「誰が誰に手を出したかは、泣いたほうが勝ちで決まらないわ」
美緒は何も言えなくなった。
駐車場まで戻ると、怜司から写真が届いた。
食卓に、塩焼きの鯖、だし巻き卵、煮物、味噌汁が並んでいる。
昔、私がよく作っていた料理だった。
私は返事をしなかった。
少しして二枚目。
料理はほとんど手つかず。
三枚目。
ごみ箱の横に古い胃薬の箱がある。
私が家を出る前、最後に買っておいたものだった。
しばらくして、一言だけ届いた。
【薬が切れた】
画面を閉じた。
返事はしなかった。
祖母の家へ戻ると、千鶴が庭で布団を干していた。
「今日は機嫌がいいね」
「そう見える?」
「前より顔が明るい」
私は笑った。
そういえば最近、頭痛もほとんどなかった。
8
数日後、会社を出たところで黒いマイバッハが停まった。
怜司が降りてくる。
「十分だけ話したい」
「時間ない」
横を通り過ぎようとすると、書類袋を差し出された。
中には財産分与の手続き書類、以前私に割り当てられていた車の名義変更書類、そして十パーセント分の株式譲渡が完了したことを示す書類が入っていた。
「住宅についても、財産分与分は手続きした」
「車もお前名義に変えてある」
「株式の配当については、今後は株主として正式に受け取れる」
私は受け取らなかった。
「これ、あなたがくれるものじゃないでしょう?」
怜司の手が少し止まった。
「ああ」
「元々、お前の分だ」
周囲には人が増えていた。
怜司が私の手首をつかむ。
「美緒との婚約は解消した」
私は足を止めた。
「リングも返した」
「ホテルもキャンセルした。招待も全部取り消した」
「遅いのは分かってる」
「でも、まだ間に合う」
私は静かに手を外した。
「間に合わない」
「どうして?」
「選ばなきゃいけない場面で、あなたは毎回あの人を選んだでしょう」
怜司は口を開いたが、言葉が出なかった。
そのとき、一台のタクシーが急停車した。
美緒が飛び出してくる。
怜司の前まで来ると、いきなり頬を叩いた。
「相馬怜司、何考えてるの?」
「婚約発表は中止、プロジェクトからも外されて、オフィスまで返せって?」
「この人のために、全部私から取り上げる気?」
「言いたいことはそれだけか?」
怜司は淡々としていた。
「あなた、私のこと面倒見るって言ったじゃない!」
「仕事では支えると言った」
「結婚すると約束した覚えはない」
美緒が固まった。
「じゃあ、今までの婚約は何だったの?」
怜司は返さなかった。
美緒が私を指さす。
「この人に何か言われたんでしょう?」
怜司の顔が冷たくなった。
「白石」
「謝れ」
「私が?」
「謝れ」
声は大きくなかった。
けれど美緒は何も言えなくなった。
「分かった」
彼女は笑った。
「相馬怜司、絶対後悔するから」
そのまま踵を返していった。
私も帰ろうとすると、怜司がまた追ってきた。
「これだけは持っていけ」
書類袋を差し出される。
「今度は自分が損するようなことをするな」
私は一度見てから、彼の手へ戻した。
「これから私が得をしようが損をしようが」
「もうあなたには関係ない」
夜、祖母の家へ戻る。
千鶴は私を見るなり言った。
「怜司が来たんだね」
「うん」
「焦り始めた?」
「後悔してるだけだと思う」
千鶴はゆっくり首を横に振った。
「それだけじゃないかもしれないよ」
「どういう意味?」
祖母は古い戸棚から木箱を取り出した。
中には、久世家に昔から残っているという古びた帳面が入っていた。
開かれた一頁に、古い字で書かれている。
――運移し。
「何、それ」
「久世の家に昔からある言い伝え」
「相性が極端に偏った二人が長い間一緒にいると、片方の運がもう片方へ流れることがあるって」
私は思わず笑った。
「おばあちゃん、本気で信じてるの?」
「信じろなんて言ってないよ」
千鶴は落ち着いていた。
「私があの結婚に反対してた理由の一つは、昔、家のことに詳しい人から似たようなことを言われたから」
「紗月が怜司と長く暮らせば、仕事運はあっちへ流れ、お前はどんどん疲れていくってね」
「そんなの、おかしいよ」
「怜司の会社が大きくなったのは、仕事をしたからでしょう」
「私の体調が悪かったのも、働きすぎただけかもしれない」
「そうかもしれないね」
祖母は否定しなかった。
「じゃあ、離れてからは?」
私は黙った。
「眠れるようになったでしょう」
「胃も前ほど痛まない」
「頭痛も減ったんじゃない?」
「それは……あの人のことを世話しなくてよくなったからかもしれない」
「かもしれない」
千鶴が笑った。
「じゃあ、おばあちゃんも分からないんじゃない」
「こんなもの、誰に分かるんだい」
祖母は帳面を閉じた。
「私が話したのはね」
「この先、もしあの人がうまくいかなくなっても、お前が自分を責めないようにするため」
千鶴は少し間を置いた。
「仮に本当に運を貸していたとしても、貸したのは運だけだよ」
「あの人がそのあと何を選んで、どうお前を扱ったかは、あの人自身の選択だ」
「それを運命のせいにしちゃいけない」
スマートフォンが立て続けに震えた。
秘書から三通。
【久世社長、相馬都市開発と主要取引先三社が契約見直しの協議に入りました】
【メインバンクも融資方針を再検討しているようです】
【南浜プロジェクトは正式に一時停止です】
私は画面を見たあと、祖母の顔を見た。
「偶然だよ」
千鶴はお茶を一口飲んだ。
「私も、偶然じゃないなんて言ってないよ」
9
翌朝、相馬都市開発が緊急記者会見を開いた。
私は会社の朝会中だったため、あとからネット配信を確認した。
「白石さんとの婚約解消は、久世さんが原因ですか?」
「白石さんは婚姻中からお二人の関係に介入していたのでしょうか?」
「久世さんが内部資料を流出させて白石さんへ報復したという情報もありますが?」
怜司は記者たちを見た。
「白石美緒との婚約は解消しました」
「それは私自身の判断です」
「また、久世紗月が会社資料を流出させた事実はありません」
少し間を置く。
「過去の一部プロジェクトについて、実際の担当者と社外向けの表記に不適切な差異がありました」
「経営側の責任です」
「久世紗月は、むしろ不当に扱われた側です」
会見後、相馬都市開発の公式サイトに訂正情報が掲載された。
過去のプロジェクト履歴。
技術成果。
開発への貢献記録。
正式な社内記録に基づき、私の名前が戻されていった。
「久世社長、業界メディアもかなり取り上げています」
秘書がタブレットを置く。
私は一度見て閉じた。
「最初から私がやった仕事だから」
午後、業界団体のレセプションに出席した。
怜司も来ていた。
イベントが終わる頃になって、彼が書類袋を持って近づいてくる。
「過去に未精算だった成果報酬や役員報酬、立替金をすべて確認した」
「経理と外部の会計士にもチェックさせた」
「不足があれば、弁護士を通して言ってくれ」
私は受け取らなかった。
「今これをするのは、私に許してほしいから?」
「それとも、自分が少し楽になりたいから?」
怜司の顔がこわばる。
「返すべきものを返したいだけだ」
「お金は返せるよ」
「じゃあ八年は?」
彼は答えられなかった。
会場の入り口が騒がしくなった。
マスクをした美緒が入ってくる。
怜司の腕をつかんだ。
「弁護士から来た通知、あなたの指示?」
「警察まで私のことを調べてるって、どういうこと?」
「こんなことしていいと思ってるの?」
周囲の視線が集まった。
怜司は彼女の手を外した。
「社内調査で確認された事実は、弁護士へ提出した」
「違法行為の疑いがあるなら、警察が調べるのは当然だ」
「この人のために、私を潰すつもり?」
「自分がやったことの責任を取れ」
「もう紗月にも、俺にも近づくな」
会場スタッフが美緒を外へ案内した。
私は最後まで見届けることなく帰った。
その夜、祖母から電話が来た。
「夕飯、食べにおいで」
久世家へ戻ると、門の外に見慣れたマイバッハが停まっていた。
怜司は庭に座っている。
千鶴が出したのは、湯呑みに入れた焙じ茶だけだった。
「帰ったの?」
「うん」
私はそのまま部屋へ戻ろうとした。
「紗月」
「今日はお前に会いに来たんじゃない」
「千鶴さんに話があった」
「じゃあ、二人で話して」
私は部屋へ入った。
戸は完全には閉めなかった。
庭から声が聞こえる。
「千鶴さん」
「俺にはもう、本当に何の可能性もないんでしょうか」
「私に聞くの?」
「紗月が熱を出しながら仕事してたとき、あなたはどこにいたの」
「一人で取引先に頭を下げて、夜中まで契約書を直してたとき、その仕事を何だと思ってた?」
「自分の会社がずっと順調だったのは、自分の判断が正しかったからだと思ってたんでしょう」
「でも、その裏で紗月がいくつ問題を止めてたか、考えたことはある?」
長い沈黙が続いた。
「今になって、あの子が元気になってから戻ってきた」
「遅いよ」
さらに時間が経ってから、千鶴が言った。
「もう来ないで」
「私は紗月を説得しない」
「あの子も、あなたに二度目の人生を与える義務はない」
私は窓から少しだけ外を見た。
怜司は帰った。
ただし車をすぐには出さず、誰かへ電話していた。
「白石美緒について社内調査で確認した資料は、全部弁護士へ渡してくれ」
「警察から照会があれば協力する」
「それから、過去数年に彼女が関与した案件も全部再調査してほしい」
「何をしていたのか、全部確認する」
10
翌朝、複数のメディアが、白石美緒が警察の捜査対象になっていると報じた。
営業秘密の無断持ち出し。
会社資産の不適切な処分。
業務書類の改ざんや偽造。
すでに任意の事情聴取も始まっているという。
さらに社内調査の過程で、一つの録音データの存在が明らかになった。
以前、美緒からプロジェクト責任者の記録を書き換えるよう求められた社員が、不審に思って会話を保存していたものだった。
その社員は社内調査が始まったあと、録音を会社側の弁護士へ提出した。
メディアには内容の一部が報じられた。
「久世紗月って扱いやすいの」
「傷つければ、自分からいなくなるから」
「怜司はいちいち確認しないし」
「最後には、いつも私の言うことを信じる」
同時に、私の退職前後のシステム記録も調査対象になった。
プロジェクト責任者の変更時刻。
ファイルのバージョン履歴。
社内アカウントの操作ログ。
それらが一つずつ照合されていった。
報道の論調は完全に変わった。
問題は単に美緒一人の不正ではなく、なぜ相馬都市開発の経営陣がこれほど長期間、実際の業務内容を把握できていなかったのかという点へ移っていった。
相馬都市開発では緊急取締役会が開かれた。
主要株主やメインバンクからの圧力もあり、怜司は代表取締役社長の職を解かれた。
その後、臨時株主総会も開かれ、取締役としての地位を含めた人事整理が行われた。
ある大株主は、会議室を出る前に怜司へこう言ったという。
「会社は昨日突然壊れたわけじゃない」
「見ないふりをしてきた問題が、今まとめて表に出ただけだ」
三か月後。
大型案件の中止、追加融資の凍結、短期債務の集中に耐えられなくなった相馬都市開発は、民事再生手続を申し立てた。
怜司は会社の急拡大期に一部融資について経営者保証を負っていたため、個人資産にも影響が及んだ。
自宅は処分された。
マイバッハも売却。
何年も使っていた高級腕時計まで換価対象になった。
相馬都市開発の旧本社ビルも、再生資金を確保するため売却対象になった。
私はそのニュースを見ても、特に何も感じなかった。
しばらくすると、ネット上に怜司の写真が出回るようになった。
以前はオーダースーツで本社へ出勤していた男が、今ではフードデリバリーの配達員をしている。
ヘルメットをかぶり、コンビニの値引き弁当を道端で食べている姿を撮られたこともあった。
本当に本人なのか疑う声もあったが、霞ヶ浜市の利用者から「実際に配達に来た」という書き込みも出た。
私はその話を聞いても、祖母の「運移し」を思い出しはしなかった。
相馬都市開発がここまで落ちた理由は、財務資料にも、プロジェクト記録にも、取締役会議事録にも残っている。
本当に運が移ったのかどうか。
もう、どちらでもよかった。
それから半年後。
久世プロジェクトマネジメント株式会社は、二年以上準備を続けてきた東京証券取引所グロース市場への新規上場を果たした。
半年で突然作った奇跡ではない。
祖母が二十年以上かけて築いた顧客基盤と組織があり、上場準備も私が戻る以前から進んでいた。
私は最後に足りなかった部分を整えただけだった。
上場を記念した記者会見の日。
新しい本社のフロアには取引先、投資家、メディア関係者が集まっていた。
秘書が近づいてくる。
「久世社長、ご注文のお昼が届きました」
「会議室に置いておいて」
秘書が入り口へ向かったところで、突然足を止めた。
私もそちらを見る。
配達員がヘルメットを外した。
相馬怜司だった。
半年ぶりに見る彼は、ずいぶん痩せていた。
冬の乾燥で手の甲がひび割れ、身につけているのはごく普通の防風ジャケットだった。
「お届け物です」
紙袋を差し出す。
周囲が少しずつ静かになった。
「え、あれ相馬都市開発の……」
「元社長?」
小さな声が聞こえる。
秘書が商品を受け取ろうとした。
私は席を立って近づいた。
怜司が顔を上げる。
目が赤くなった。
「紗月……」
私は彼のスマートフォンを見た。
配達アプリが何度も通知を出している。
予定時刻が迫っていた。
「相馬さん」
「配達、遅れますよ」
怜司がスマートフォンを握りしめた。
「今さら何を言っても遅いのは分かってる」
「でも、一度だけ言いたかった」
「後悔してる」
「毎日、後悔してる」
声が少しかすれていた。
「もう一度だけ、やり直せないか?」
私は彼を見た。
昔のことを思い出した。
熱があった日。
夜中まで仕事をしていた日。
初めて美緒が私たちの生活に入り込んできたと気づいた日。
私も何度も怜司の返事を待った。
これから私たちはどうするの、と。
そのたび彼は言った。
また今度話そう。
あとで考えよう。
「私も昔、あなたの『今度』を待ってた」
「今度はあなたの番なのかもしれない」
怜司の目が揺れた。
私は続けた。
「でも、私たちにはもう『今度』がない」
私は背を向けた。
後ろから名前を呼ばれたような気がしたが、振り返らなかった。
秘書が会議室のドアを閉める。
外の音が消えた。
テーブルには最後の書類が置かれていた。
「久世社長、もう一件あります」
「民事再生手続の中で売却対象になっていた旧相馬都市開発本社ビルですが、入札と契約手続がすべて完了しました」
「当社への引き渡しも正式に決まっています」
久世プロジェクトマネジメントは上場後の事業拡大に伴い、新しい本社拠点を探していた。
場所、規模、設備。
条件を比較した結果、最も合理的だったのが、かつての相馬都市開発本社だった。
「外壁サインの変更申請も必要です」
私はペンを取った。
「変えてください」
「新しい表記は?」
窓の外を見る。
遠くのビルでは、かつて掲げられていた「SOMA」の文字が、一つずつ撤去されていた。
タブレットに新しいサイン案が表示される。
KUZE PROJECT MANAGEMENT
私は書類の最後に、自分の名前を書いた。
その建物が昔、何と呼ばれていたのか。
もう一度確認する必要はなかった。
結局、本当に誰かの幸運が誰かへ移ることなどあるのか、私は最後まで知らなかった。
祖母が話した「運移し」が本当に存在するのかもしれない。
ただの古い言い伝えなのかもしれない。
分かっていることは一つだけだった。
相馬怜司と別れてから、私は眠れるようになった。胃の痛みも頭痛も減り、仕事も自分の速度で進められるようになった。
そして怜司が私を失った日に、本当に失ったものも、目に見えない幸運ではなかったのかもしれない。
八年間、失敗するはずだったものを先回りして直し、崩れるはずだった場所を黙って支えていた人間が、二度と戻らなくなった。
ただ、それだけだった。




