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ファノレプシス

作者: 糸井槌
掲載日:2026/04/04

 ぺたりぺたりと廊下を歩いて部屋へ向かう。ロックを外す音でようやく暴れ止んだ端末と、ノブを捻る音を聞いたその人が、少し距離をとるのがわかった。それは本当に一歩二歩くらいの違いなのに、私にははてしなく遠くなるようだった。やめて、帰らないで、帰らないでここにいて。喉が熱く膨れ上がって声が出ない。彼に会うために押すドアは絶望的に重い。もちろんそれも錯覚で、実際の世界でドアは滑らかに開かれる。葛藤を映すことなく世界に裸で突き出される。


 父が死んだのは朝にもならない時刻だったらしい。そして、犠牲者として、父の名が流れることもなかった。そこについて考えると夕暮れに落ちていく気持ちになってすぐにやめてしまう。 強い光が網膜に焼き付いて離れない。 目をつむればそこはまだごうごうと燃える海で、その熱さえ蘇る。


あの夜、蹲る人々の中をおおきなわたあめから排出されるように地上へ出たとき、外は朝がきたのかと錯覚するほどに明るく照らされていた。あれほど明るい夜を忘れることはないだろう。

アスファルトはどこまでも黒く濡れたように光り、空を覆い隠し建っているビルは不思議と安っぽく、なにもかもが小さく見えた。頭上の空はまだぽっかりと暗く、わずかな隙にすべてがつくりかわったように思える。遠く、崩れた建物の合間に巨大な黒い影が見え、朝焼けのように見えた光はすべて高く上がっている炎だと気が付いた。


もうずっと煮詰まっていた。どろどろに灰汁がでて、掬っても掬っても底がみえないような澱みにはまって、呼吸さえ億劫だった。もう無理だとなんども思った。震えながら握った自分の五指の感覚さえ遠く、胸の底に巣食った塊がただ気持ち悪くて倒れ込むように横になった床は空調のせいか酷く冷たい。体を動かす気にはならず、何かをしなければと思えば思うほどそれを現実に出来ていない事実ばかりがのしかかって、堕落していることを示すようできつく目を閉じた。ただただ逃げて、眠りたかった。それなのに。なんで。


         なんであなたたちはそうやって。 簡単に。


こんなにも。




は、 



喫煙室はひんやりとしていた。建物の隅に設置されたそこで、さっきから煙を吐いている。この建物は広く自然光を取り入れているのが売りらしく、そこここに不必要なガラスがきらめいていて、しかしそれは特に嫌なものではなかった。

うつくしいものはやっぱりどうしてもうつくしいな、と思いながら裏口から入り、廊下に敷き詰められた黒い絨毯の上を滑る日差しに目を細めた。晴天の今日は、北向きの小さな明かり取りからも初夏の、甘く湿気をはらみほんのわずかに膨らんだ晴天がみえている。差し込んだ日差しはすんと床に落ちて、続きの絨毯と、そこで舞う埃をちりちりと照らしている。なにか、とてもうつくしいものを目にしている気がして、壊さないように手だけを動かしてそこに留まっていた。


「あら、イワちゃん」


「なかちゃん」


 SMOKING ROOMと看板のつけられた扉を開けて入ってきた仲下が、目を見開いてから困ったように笑った。横いい、と聞かれたので硬いソファをずれて、空いた場所を示した。ありがと、と言って少し離れたところに腰を下ろした仲下がうつむいて火を灯すのを、気配に感じる。目線は依然として光の着地点にある。行動を想像として感じる。みていなくても何をしているのかわかるほどの時間を、微細な空気の粒に例えて脳裏で逆再生してみようとした。


 小さい頃に人前で吐いてからというもの、嘔吐するのが怖いと思っている。それでも、その感情はずっと隠してきた。それを知られることさえ怖かった。べつに、ほかの感情に関してもそうだ。自分のことを知られるのがただ怖くて、それなら他人の心配をしているほうがよほど気が楽だった。

日々を運ばれる中、あらゆるものを得る代わりにあらゆるものを忘れてきた。それは生き残ったものとして当然のことだ。事実、自分も毎日何かを天秤にかけては、上がった方を打ち捨ててきた。そのツケが回ってきたように今は思う。

自分を自分たらしめていた物々が、静かに死んでいく感触は存在をみとめるとたちまちに飲み込んでいく。いや、もう最初からうちがわにあってそう気づかず逃げているかもしれない。



 蛍光灯が低く唸るように鳴る。誰かが早足で進む足音が遠くに聞こえた。ぼんやりと、しかし急速に意識が浮上して、自分がまた回想にとらわれていたことを悟る。

座り込んだ人と視線を合わせるようにそっと屈む。裾が床についている気配を、あとで着替えたら済む話だと押し潰す。少し待っていると、膝に爪を立てていた手がおずおずと両肩に回ってきて、そのまま抱きしめられた。薄いカーディガンがこすれてしゅるしゅる音を立てる。その腕だけで、持ち主の考えていることがわかってしまったことが胸を刺す。

それほどまでに誰かと近くにいることが悲しかった。淋しい、怖い、逃げ出したい。それは人目に晒されるものの恐怖だ。ずっと知っていた。そのうえでずっと無視していた。わたしたちはこんなに近くにいるのに、この恐怖は自分だけのもので、きっと誰とも分かち合えない。


 潜水士のような大袈裟な格好で瓦礫の山を歩いた。

ここが深い水の底か大気圏外だとしたらそう不自然ではないのかもしれないが、生憎、とでもいうべきか。ここは姿形が変容こそしているものの一端の名前がついている街だった。雨が降っていることでようやく今が現実と地続きであることを認識する。そこに立っている自分がよく知った土地であるという確証を持ちたくて周りを見回すが、辺りにずっと昔からあるものなどないように思えた。


頭上の雲は厚くないのに、雨は止まなかった。薄いグレーのカーディガンに斑点模様ができていく様子を熱の溜まりつつある頭を軽くゆらしてから、ぼんやりと眺めていた。全身が雨を含んで染まってしまうまでどれくらいの時間が必要なのだろう。大きな公園の芝生に建てられたわたしたちのための仮住まいも、数日降り続く雨に濡れたそれらから距離をおいて見れば、水槽の中のミニチュアのように映った。そしてその中の一軒までの道のりをなぞるように歩く自分は、大雨から生き残っためだかのようなものだろうか、とひとり連想した。

 彼の家まで歩くだけの道々、鼻先には濡れたアスファルトの匂いがゆれていてうまく機能しないでいる。けむたい冷たさはより雨が強くなる予感か、ふと道端に目をやると割れた土から生け垣のツツジが伸びていた。一週間ほど前、日照りの続く日中に飢えて渇いたのだろう土肌がかすかに砂を押し上げている。


 訪ねた家の家主はまだ帰って来ない。

いつも個人的な理由から彼に会うときは前もって連絡をしていたが、今日は連絡を入れていなかった。そこに理由はない。火の粉が散ったように胸の下が痛む。カーディガンのポケットにしまった、水無しで飲める鎮痛剤をひとつ舌にのせる。速効性は低いが、これで暫くすれば痛みは緩和されているはずだ。

「平岩さん」

家主の声がして顔を上げると、少し驚いたような顔をした彼がビニール傘をさして立っていた。普段職場で見るよりも幾分かラフな格好をしている。ふにゃりと笑おうとして、それに失敗したような表情までを見てからまばたきをした。

「雨にあたるのはあまりよくないですよ」

「そうだとしても先のことです。なにか危険があるんですか?」

「いえ、ふつーに風邪ひくからです」

あーおれの声ってさあ締まりないってよくいわれるんですけどどうしようもないし言ってくる人に限っておんなじ人だからあなたがわかってんならもうそれをおれにいうなよーってそういうこと平岩さんはあんまり思わなそうっすよねすみません、とおそらく最後の言葉を言いたかっただけだろう話を玄関に投げ入れた。

「服貸しますから、それ脱いでさっさと風呂つかってください」

「いえ、大丈夫です」

「だめです、ほら」

蛇腹になった脱衣所の仕切りを開けると、また雑に促す。

いたわりと思いやることの配分なんて考えたこともないのかもしれないし、それならさっきの話もまったく無駄ではなかったのかと思った。いや、無駄話であることにはに変わりないのだけど。

仕切りを閉めさせないように彼は壁に手をついて立っている。

「閉めてもらえますか、今、肌に発疹が出ていてあまり見られたくないのですが」

柄にもないおんなを装って足元に目を向ける。自分でも気づかないうちにスカートの裾を掴んでいた。なぜなら醜悪なものをわざわざ人にさらして悦べる性質を持ち合わせていない。

「そうですか、でもおれは平岩さんの秘密にしたいこと、割と見たいです」

「いやです、それに本当に見苦しいので」

「冗談じゃないんで、ほんと。お願いします」

「……そっちばっかり」

言うつもりもなかった反撃が口からこぼれたことに、なにより自分が驚いた。決まりが悪くなって下唇を噛み、ゆっくり見上げた彼の口元が存外にまじめくさったふうに結ばれていた。

「あなたの秘密は見せてもらえないのに、ですか」

髪の先からしずくが落ちるのを不鮮明な像でとらえていると彼はながいため息を吐ききってから合図とでも言いたげに、小さく、いいよ、とうめいて伸ばされた片手にブラウスをたくし上げられた。

動こうとする前に片腕を取られ、止めることもできない。

「っあの……!」

患部に障るからと下着を着けていなかったことが恨めしい。乳房の下の神経に沿って、熟れたように赤い水膨れが列を成している。やっと離された手をきつく握って背を向け、身体を隠すようにしたけれど背中にも泥の上を蛇が這ったようなかたちに赤くなっているのは前から知っていた。痛い沈黙を経て、背後から声がする。

「さわってもいいですか」

「気持ちの良いものじゃないですしまず感染るかもしれません」

「あー、前に罹ったことあるんでもう大丈夫です」

反論よりも彼の手のほうがはやかった。熱をもった肌のせいで、普段はあたたかく感じるてのひらも冷たく思えた。は、と息継ぎのような呼吸をすれば、雨はもう降り掛かっていないのに水槽の中にいる感覚がした。

「病院行きました?」

「鎮痛剤は飲んでいるので支障は少ないです」

「でもそれじゃあ治りません。平岩さん、それはあなたが一番分かっているでしょう」

子供を諭すように言われ、口を噤むしかなかった。


「ね、一度診察してもらって、あとは休みを取りましょう。あれからもうじき一年になるのにあなたちっとも休まないんですから」

「………… はい」


ここでどう言っても、彼のことだから親しい上司あたりに根回しをして、そうやって外堀から埋め尽くしてわたしを休ませるだろうと直感していた。癪だからうなずくだけで返して、そうしてうつむいたまま先程のやり取りを思い巡らせる。

「悠木さんの秘密は」

「おれの秘密は、こっちです」


静かにそう言い、指で示した。彼の抱える秘密というものは、ひとつの木片だった。


自宅、といってもここはあてがわれた仮設の住居だけれど、ブラインドの降ろされた洋室にそれは無造作に置かれていた。遊んでいる最中に母親に呼ばれた子供が置き去りにしたおもちゃのような、潮の引いた海に打ち上げられた異物のような、なぜかさみしさを覚える置かれ方だった。


しゃがみ込んで触れて、質量を確かめるように持ち上げる。

「触らないほうがいいかもですよ」

首だけで振り返れば見下ろす昏い目とかち合った。

「これは」

「平岩さんとだけの秘密ですよ。バレたら士長に怒られるどころじゃないっすからね」

意識して彼のまなこを強く見て、そして手の上のものへと視線を戻した。

色に似たペンキで塗られた建造物の欠片、これは。

「……鳥居?」

「お、一発でよくわかりましたね。でっかいとこ壊れたじゃないですか、あの神社の」


そう微かに笑って、てのひらが塊をさりげなく奪い去っていく。この部屋に置かれていると不自然だった鳥居も、彼の手に収まると妙にしっくりと馴染んで見える。


「持ち帰ってきたのですか」


被害規模の大きい土地へ視察に行ってきたのは知っていた。自分も申請を出したのだが、どうせ誰かが丁寧にそれを阻止するだろうことも気が付いていた。妊娠する可能性のある、女性という枠に半ば無理矢理押し込められて、未だ生々しい傷跡を訪ねることは殆ど叶わず、当時も前線には立てなかった。

それらを思い返していくと父親のことがよぎり、不意に針で刺すような痛みが胸の下に走るのを感じた。隠すように一瞬息を止めたことを、たぶん彼はみとめていない。少し目を閉じて痛みをやりすごす。


「一応服ごと洗浄しましたけど、隠し持ってきたんでまだあまり触らないほうがいいかもしれません」

「そうまでして、なんで」

「……何故でしょうね」

暗い声でそう答えたが、彼は落ち着いた表情だった。

なんで、と自分に問うみたいにもう一度口のはしっこだけで呟く。その表情で、少しだけ彼の気持ちに寄り添うことができた。

この欠片は普段隠された彼の弱さだ。

人をせせら嗤うように振舞って、誰にも見せてこなかった本当のひとりの時にこの欠片を拾ってきたことが、彼の弱さなのだと思った瞬間泣き出したくなる感情にのまれてしまうようで彼にしがみついた。

突然のことに動揺して疑問符混じりのひらがなをいくつかこぼしながら身を捩って離れようとする男から一度離れて、それからよれた衿元を力いっぱい掴んだ。底の知れない昏い目をじっと見る。切れますよ、と言われて唇を噛み締めていた事に気付いた。


「かった……」

「えー…… っと、平岩さん?」

「しんで、なくてよかった」

不安に微かに歯が鳴る。

寒くないのに指先が震えて、心臓がぎりぎり軋んで、耳鳴りがして、鼓動以外のすべてが遠い。

希望を欲しがるというのは酷く勇気が要る。もう疲れた。いいかげんに疲れてしまった。帰ってきてくれてうれしかった。いま触れている当たり前のあたたかさがこんなにもうれしい。これからも日々を過ごし祈って待つんだろう。

そういうのを繰り返して、いつかぜんぶ磨り減って消えてしまう気がする。


周りをビルに囲まれてその威光が消えかかっていたかつての神社よりも、今手にされている朽ち果てた欠片のほうが、わたしには良いものに見える。


そう正直に告げると、男が珍しく快活に笑った。

「あなたってホント変わってますよね」

「感じたことを言ったまでです」

「あーりがとうございまぁす」

ばかげたやりとりを終えた合図に顔を見合わせると、二人して小さく吹き出した。


薄い布団に二人で寝転がっている。洋室の隣の六畳の和室にこの布団はほとんどいつも敷かれていた。微かなウッドデッキにつながるその部屋には大きなガラス戸があり、外は雨でもそこから光が差していた。そこでわたしはまた、水槽の中のめだかの心地を思う。鑑賞されるためのいきものの気持ち。


ひらいわさん、と掠れた声で名前を呼ばれたから、わざとゆっくり寝返りをうった。

彼はこちらを見つめている。一対の目が窓の外の弱い光を集め、頼りなく光っていた。

鼻の先が触れ合うほどの近さで囁くように口を開く。互いが動くと鼻先や、たまに唇が触れ合ってくすぐったい。


「止みませんね、台風かな」


あたたかい手が緩慢に頭部をすべる。前髪が落ちて、直しても直してもすぐまた彼に落とされてしまう。


「あの」

「ごめんなさい、きょうは、帰らないで」


なまえをよぶすぐ後ろで、雨の音が聞こえる。静かな雨が降り続き、もうじきに暴風雨が街を掠めていく。静けさも、乱暴な力も、愛していた。


彼の唇が触れて離れる。それを繰り返して沈むことも今なら出来るだろう。


薄い膜の下でふたりの抱える弱さを雨が隠してくれるように願いながら、立ち尽くして見たツツジのひび割れた根を思いながら、ゆっくりと目を閉じた。

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文章が綺麗で引き込まれました。 過去に起こったのは災害か事故か、いずれにせよ自身の心にも身体にも傷を負う平岩さんと、そんな彼女にそっと寄り添う悠木さん。 絶妙な関係性が素敵ですね。 悠木さんは平岩さん…
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