第1話《朝、そこにいる男》
光墨探偵事務所のドアを開けた瞬間、
耀はぴたりと足を止めた。
──また、いる。
応接ブース。
来客用のソファーに、だらしなく寝そべる男。
靴は脱ぎっぱなし。ジャケットは床。
ソファーの肘掛けには、昨日自分が見たはずの資料ファイル。
「……最悪」
思わず、声に出た。
耀は鞄を机に置き、
わざと強めの足音で近づく。
「有哉さん」
返事はない。
「……有哉さん!」
ソファーの男が、眉をひそめた。
「……あー……」
「起きてください!」
「……っ、朝から何だよ……」
目も開けずに文句を言う男を見て、
耀のこめかみがぴくりと跳ねる。
「ここ、職場なんですけど」
「知ってる……」
「知ってて寝てるんですか?」
「眠ぃからな……」
「意味が分かりません!」
耀は勢いよく言った。
「有哉さん、
あなた、ここの職員じゃないですよね?」
「……違ぇけど」
「違うのに、
毎日ここに来て、
寝て、
散らかして、
勝手に資料触って――」
「触ってねぇって」
「触ってます!」
即答だった。
「ファイルの順番、変わってました!」
有哉が、片目だけ開ける。
「……気のせいだろ」
「気のせいじゃありません!」
耀はもう、声を抑える気がなかった。
「ここは探偵事務所です!
休憩所じゃありません!」
「うるせぇな……」
有哉は上体を起こし、
だるそうに頭をかいた。
「じゃあ何だよ。
追い出したいのか」
「はい!」
被せ気味だった。
「正直、すごく迷惑です!」
有哉が、完全に目を開けて耀を睨む。
「……は?」
「日中ずっとここで寝てるし、
夜になったら出ていくし、
仕事してる様子もないし」
「……」
「どう見てもフリーターかなんかですよね?
だったら、
ちゃんとバイトでも何でも行ってきてください!」
一瞬、空気が止まる。
次の瞬間、
「……はぁ?」
低い声。
有哉は立ち上がり、
耀を見下ろした。
「何だその決めつけ」
「決めつけじゃありません」
耀も、一歩も引かない。
「ここは、父…光墨探の事務所です」
その名前を出した途端、
有哉の目が、わずかに細くなる。
「私は、正式に雇われた探偵助手です」
言葉は敬語。
でも、言い方は完全に喧嘩腰だった。
「関係のない人が、
ここにずっと居座るのはおかしいです!」
「……お前さ」
有哉は、鼻で笑った。
「急に入ってきて、
偉そうだな」
「偉そうじゃありません!」
「いや、偉そう」
「──有哉さん!」
耀は、感情を抑えきれなくなっていた。
「ここで寝ないでください!
散らかさないでください!
資料勝手に触らないでください!」
一拍。
「それができないなら、
来ないでください!」
空気が、張り詰める。
有哉はしばらく耀を見ていたが、
「……チッ」
舌打ちをした。
床のジャケットを掴み、乱暴に羽織る。
「分かったよ」
ドアに向かい、歩き出す。
出ていく直前、足を止めた。
「──覚えとけ」
振り返らずに言う。
「ここは、
お前の場所じゃねぇ」
ドアが閉まる。
事務所に、静寂が落ちる。
耀はその場に立ち尽くし、
拳をぎゅっと握った。
「……ほんと、最悪」
二度と関わりたくない。
そう思った。
この男が、
これから自分の人生に深く関わってくるなんて──
この時の耀は、想像もしていなかった。
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ドアが閉まったあと、
事務所は一気に静かになった。
耀はその場に立ち尽くし、
しばらくしてから、ふうっと息を吐く。
「……ほんと、何なの」
ソファーに残された皺。
床に転がっていた紙。
散らかったままの応接ブース。
「最悪……」
その時、玄関のドアが開いた。
「おはよう」
聞き慣れた声。
「…あ」
耀が振り返ると、
そこにはいつものように穏やかな顔の父、
光墨探が立っていた。
「おはよう、耀」
「……おはようございます」
探は室内を一瞥する。
応接ブース。
ソファー。
床の紙。
ほんの一瞬、
何かを察したように目を細めた。
「……行ったか」
「行ったよ!」
耀は即座に噛みついた。
「なんであの人、
ずっとここに居座ってるんですか!?」
…たとえ親子でも職場では言葉遣いはていねいに。
探はコートを掛けながら、
苦笑する。
「まあまあ」
「まあまあじゃないでしょ!」
…ていねいじゃない時もある。
耀は応接ブースを指差した。
「職員でもないのに、
毎日来て、
寝て、
散らかして!」
「散らかす、は……」
探は言葉を濁した。
「……まあ、多少な」
「多少じゃない!」
探は少しだけ間を置いてから、
穏やかに言った。
「昔のよしみ、ってやつだ」
「…なんですかそれ」
「若い頃にな、色々あって」
耀は腕を組む。
「でも、あの人仕事してないですよね?」
「いや」
探は首を振った。
「手伝ってくれてるよ」
「え?」
耀が目を瞬かせる。
探は、事務所の奥を指差した。
「昨日の張り込みの報告、
まとめ直してくれたの、あいつだ」
「……え?」
耀は、机の上のファイルを見る。
確かに、
昨日までぐちゃっとしていた資料が、
妙に見やすく整理されている。
「……それ、私じゃない」
「だろ?」
探は笑った。
「お前にはまだ難しいところだ」
「……」
耀は唇を尖らせた。
「だからといって、
あんな態度許されるわけじゃないですよね」
「それは、そうだな」
探は素直に頷いた。
「愛想も口も悪い」
「最悪です」
「だが──」
探は、耀の方を見た。
「悪いやつじゃない」
耀は、納得いかない顔のまま黙る。
探はそれ以上、何も説明しなかった。
有哉の仕事のことも。
夜に出ていく理由も。
なぜここにいるのかも。
言わない。
それが、この父の選択だった。
「……とにかく」
探は手を叩いた。
「仕事だ。
今日は依頼人が来る」
「……はーい」
不満たっぷりの返事。
耀は席につき、
キーボードに向かう。
その視界の端で、
応接ブースの資料が目に入った。
──さっき、あの人が触ってたやつ。
「……」
胸の奥が、
ちょっとだけ、むずっとした。
(……なんなの)
けれど、それ以上考える暇はなかった。
電話が鳴り、
探が応対する。
いつもの光墨探偵事務所。
いつもの朝。
ただひとつだけ違うのは──
ここに
"最悪な男の痕跡"が
確かに残っていることだった。
光墨 耀
新卒の探偵助手。光墨探の一人娘。
峰尖 有哉
口と態度が悪い男。細長い。
光墨 探
耀の父。光墨探偵事務所の所長。元刑事らしい。




