issue#03 I I I I Dreamed A Dream CHAPTER 05 34
最初の光景――少女が、たった1人で世界を敵に回した、あの悲痛な記憶が消えやらぬうちに、
姉妹たちの意識は次の場面に向かう。
それはアキノが6歳のときのこと。ユキにとっては、夫の事故死からの長すぎる1年が経った、
初夏の午後である。
「ママ、見て」
庭の隅で、アキノが真剣な顔でしゃがみ込んでいる。その小さな指が指し示す先では、雨露に濡れたアジサイの葉の上で、1匹のカタツムリがゆっくりと殻を運んでいた。
ここまでは、ありふれた子供の日常だ。
「カタツムリさんがね、『今日はお引越しするの』って言ってた」
その言葉に、洗濯物を取り込んでいたユキの手が、一瞬だけ止まった。心臓のあたりが、きゅっと小さく縮むのを感じる。
まただ。
ここ最近、アキノは時々こういうことを言うようになった。「アリさんたちが会議してる」とか、
「電信柱が眠そうにしてる」とか。
(周りの子は、こんなこと言うかしら……)
夫がいれば、「子供の想像力はすごいなあ」と笑い飛ばしてくれただろう。
だが、今は1人だ。この子を、たった1人で「普通」に育て上げなければならない。
そのプレッシャーが、鉛のように肩にのしかかる。
近所の母親たちとの、何気ない会話がふと脳裏をよぎる。
「うちの子、最近きれいに漢字が書けるようになって」
「……アキノちゃんは、すこし大人しいわね」
そのすべてが、裏のある評価のように聞こえた。
「……そう。お引越し、どこにするのかしらね」
ユキは、無理に作った笑顔を顔に貼り付け、アキノの隣にしゃがみ込んだ。
本当は、「そんなこと言うと、変な子だと思われるよ」と、その口を塞いでしまいたかった。
だが、そんなことをすれば、この子がもっと自分の殻に閉じこもってしまうかもしれない。
だから、ユキは嘘をついた。娘にではない。自分自身に。
「アキノは、感受性が豊かなだけ。他の子より、色々なことが見えたり、聞こえたりするだけ」。
それは、娘の「普通ではない」可能性から目をそらすための、優しい呪文のはずだった
。この小さな嘘が、やがて取り返しのつかない悲劇の始まりになることなど、
この時の彼女は知る由もなかった。
*
そして14歳、中学2年生の秋の記憶――。
ダイニングテーブルの上には、1枚のパンフレットが、まるで有罪判決のように置かれていた。
『思春期カウンセリングと家族のサポート』。今日、学校の進路指導室で、担任とスクールカウンセラーから、半ば強制されるように渡されたものだ。
「お母さん、アキノさんは非常に繊細で、独自の価値観を持っています。我々だけで対応するには限界が……一度、専門の先生に相談されてみては」
あの、同情と厄介払いが入り混じった教師の目を思い出すと、腹の底が冷たくなる。
その隣で、アキノは腕を組み、終始、値踏みするような目でカウンセラーを睨みつけていた。
「あなたの後ろには、国際金融資本の影が見える」などと、本気で言い放ちながら。
ユキは、パートのタイムカードと、パンフレットに書かれた相談料を、無意識に見比べていた。
時間も、金も、そして何より、精神的な余裕も、もう残っていない。
仕事から帰って、汚れた作業着を洗濯機に放り込み、出来合いの惣菜を皿に移す。
その繰り返しの中で、娘の「独自の価値観」と向き合うエネルギーなど、どこにもなかった。
「……あたしには、無理よ」
誰に言うでもない、呟きが漏れた。ユキは、そのパンフレットをぐしゃりと握りつぶすと、
キッチンのゴミ箱へと投げ捨てた。それは、専門家への不信ではない。
たった1人で、この巨大で、得体の知れない問題に立ち向かうことを、彼女が諦めた瞬間だった。
*
カルテット・マジコが訪れる数日前の、深夜のこと。
コン、コン。
「アキノ、ご飯……置いとくよ」
2階の廊下の突き当たり。ガムテープで目張りされたドアの前に、コンビニの弁当が入った袋をそっと置く。ドアの向こうからは、かすかにキーボードを叩く音と、アキノが何かをぶつぶつと呟く声が聞こえる。
ユキは、すぐにその場を離れなかった。ドアに背中を預け、冷たい木の感触に、自らの疲労を預ける。
(あの子は、この中で、何を見ているんだろう)
ドアの向こうは、単に自分の娘の部屋とは思えなかった。自分には理解できない法則と、
「真実」で満たされた、侵すべからざる聖域。
そして、自分自身が、娘をその聖域に追いやった共犯者。その自覚が、罪悪感となって、
じわじわとこの擦り切れた老婆の心を蝕んでいた。
食事を運び、生存を確認する。それが、今の自分にできる唯一の贖罪であり、
母親としての最後の仕事だった。
ふと、中の呟きが止み、静寂が訪れる。ユキは、びくりと肩を震わせ、逃げるようにその場を離れた。
ドアの向こうの反応が、何よりも怖かった。
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本家:ページ中にキャラのコンセプトアートなどあり
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