issue#03 I I I I Dreamed A Dream CHAPTER 05 29
その絶望的な事実が、カルテット・マジコに、本当の「最後の手段」しか残されていないことを、痛いほどに理解させた。それは、彼女の理性に訴えかけることではない。
――本当に、彼女の母親の命が尽きようとする、その極限の状況で。
――彼女の中に、もし、ひとかけらでも残っているのなら。
――その、人間としての、最後の良心に、ただ、祈ること。
せちは階段を駆け上がると、アシュリーの足元で泣き崩れるアキノを、その両肩を掴んで激しく揺さぶった。
「アキノさん!君のお母さんが、このまま死んじゃうんだよ!?本当に!」
「お願いだから、お前の母ちゃんを助けてやってくれよ!治るって、信じろ!お前ならできるだろ!」
魂を振り絞るように、せちとアシュリーは代わる代わる叫んだ。それは説得ではなかった。
悲鳴であり、懇願であり、そして、1人の少女に世界の命運を託す、悲痛な祈りだった。
長い、長い、心臓が凍るような時間が流れる。
やがて、階下で倒れる母親の呼吸が、いよいよ弱くなった。それに合わせて、介抱していたさなの表情から、ゆっくりと光が消えていく。その、すべてが終わったことを告げるかのような絶望の表情。
まさに、その時だった。
家のすべての照明が、一瞬、強く明滅した。そして、それまで家全体を覆っていた、あの淀んだ、息の詰まるような気配が、ふっと和らいだ。
――アキノが、祈りに応じたのだ。
彼女はついに、己の意志で、その神の如き力を現実世界へと向けたのである。
*
ユキの脳裏に、わけもなくふとよぎった、
『――ママ、きのうの夜、クマ人間、見たの』
幼い娘の必死の訴え。それを「また変なこと言って」と、スマートフォンから目を離さずにあしらった、自分自身の冷たい声。
『――お母さんの立場も、すこしは考えてよ!』
世間体を気にするだけの、ヒステリックな叫び。叩かれた娘の頬の赤みと、その瞳に浮かんだ絶望の色。
『――私が、どれだけ苦労して、女手ひとつで……!』
娘を縛り付け、追い詰めていった、呪いのような言葉の数々。
そして――台所の暗がりで、無表情のまま包丁を握りしめていた、あの日の娘の姿。
「あ……あぁ……」
すべてが流れ込んでくる。娘が心を閉ざした理由。彼女を孤独な世界に追いやったのが、他の誰でもない、この自分であったという、揺るぎない事実。
「わたしが……この私が、あの子を……」
真実の重みが、物的な質量となって、ユキの心臓を直接握り潰した。息ができない。視界が、急速に白んでいく。
「ひっ……!」
短い悲鳴を最後に、彼女の意識は、みずからが招いた絶望の闇へと、深く、深く沈んでいった。彼女の心臓発作は、アキノの力だけがそうさせたのではない。長年目をそらし続けた罪悪感が、ついに彼女自身を殺そうとした、その魂の自壊だった。
次元の果て。五感の消え失せた意識の奥底で、存在の核心だけが静かに漂流する。
*
そして――。
「……治って……る?」
アシュリーが呆然と呟く。だが、さなは、何事もなかったかのように息をするユキの姿をみて、
その光景を前に、安堵ではなく、畏怖に染まった顔で恬淡と首を横に振った。
「違うよ……これは、治癒じゃない」
もっと根源的な、あり得ない現象。まるで、数分前の「発作」そのものが、最初から存在しなかったかのように、世界の記録が、ただ静かに「修正」されているのだ。
その頃、2階の薄暗い部屋で、アキノは1人呆然と立ち尽くしていた。彼女の意識は、千里眼として床や壁を突き抜け、階下のリビングへと注がれている。
(……治った?本当に、私がそう……信じたから?)
初めて、己の意志で現実を書き換えた。その揺るぎない事実が、彼女の中の禁断の扉を開けてしまった。
母親の治癒という、否定しようのない1点の事実。それが、彼女が20年以上かけて築き上げてきた、精緻で、しかしあまりに脆い「真実」の世界に穿たれた、最初の亀裂だった。
ひとつの気づきが、次の気づきを呼び、その亀裂は、蜘蛛の巣のようにどこまでも広がっていく。
階段の下から、凛とした声が立ちのぼった。せちだった。その声は、怒りでも憐憫でもなく、
ただ、揺るぎない事実を告げる、冷徹な響きを持っている。
「アキノさん、お母さんは、あなたがそう信じたから治ったんです。あなたはこの世界を、ずっと、無自覚に改変し続けてきました。この20年間、ずっと!」
その言葉が、決定的な楔となった。脳裏に、自らが信じてきた「真実」の光景が次々と明滅し、
そして砂のように消えていく。ケムトレイルが描く空の格子、HAARPの巨大なアンテナ群、
爬虫類人の冷たい瞳、そして、森の闇に潜むクマ人間の影。それら全てが、
色褪せた幻灯のように、意味を失っていく。
だが、まだだ。まだ、最後の砦が残っている。
(まさか。じゃあ、フォーラムの皆は? 私が信頼してきたあの預言者たちは?
私と同じ「真実」を見ていた、目覚めた仲間たちは……?)
思考が、凍結する。時空を超越した洞察が、無慈悲に、彼女自身の魂の深奥を暴き出す。
彼らと交わしたやり取りの数々や、その奥にきっと潜んでいただろう感情や息遣いが、脳裏を駆け巡る。
しかし、そのすべてが、寸分違わず、自分自身の声の、異なる響きでしかなかったことに、
今気づいてしまう。彼らは、血の通った仲間ではなかった。
彼女の無意識が、それぞれかりそめの人格を纏っただけの幻影。いわば彼女の孤独な叫びに、
彼女自身が作り出した幻が、相槌を打っていたに過ぎなかった。
20年間、彼女が人生の全てを捧げて戦ってきた、世界を裏で操る巨大な悪――その正体は、たった1人、この薄暗い部屋でキーボードを叩いていた、自分自身だった。
――その瞬間、アキノの世界から、完全に、希望が消えた。
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本家:ページ中にキャラのコンセプトアートなどあり
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