issue#03 I I I I Dreamed A Dream CHAPTER 05 26
「なんだよこれ、マジかよ!?」
アシュリーが、自らの青くなったポニーテールを掴みながら叫ぶ。
だがその直後、彼女の顔から血の気が引いた。脳裏に、かつて自分が口にした、最悪の冗談が蘇る。
「……待て。世界の色が、ネガポジ反転……?これ、あたしが前に……」
「ダメだ……もう、抑制が効いていない。私たちの言葉も冗談さえも、あの子の『真実』の餌になってる……!」
「なにか手はないか、”せち”――!」
アシュリーがかすれた声で叫ぶが、その、大切な1文字が欠落したはずの響きは誰の耳にも違和感なく受け入れられた。
「女房言葉」という概念が、それほどあっさりと世界中の人々の意識から消滅したためである。
これは、世界の法則がすこしずつ書き換えられているなどという、生易しい段階ではない。世界の終わりが、すぐそこまで来ている。その直感が、彼女たちを絶望的な焦りへと駆り立てた。せちは、震える指でスマートフォンを取り出すと、ただ一言、祈るようにメッセージを送った。
『はちる、来て』
*
吉濱家。奥の棟にある、静まり返った大座敷。その中心、畳から数10cmほど浮き上がったまま、
はちるは、ひとり静かに瞑想を続けていた。
そこへ、姉妹からの救難信号を受信したはちるのスマートフォンを手に、
尊が、す、と音もなく襖を開けて呼びかける。
「はちる、せちからのメッセージじゃ――」
しかし、その言葉は途中で途切れた。息を呑み、思わず後ずさる。
襖の向こうに、今や和室の風情はなかった。
広がっていたのは、限りなく深い、静謐な宇宙。
遥かな星々が淡くまたたき、銀河の帯は光の絹糸となって折り重なる。
青や紅、紫の星雲が、ほのかな光を放ちつつ明滅し、その1粒1粒の輝きが、
おどろくほど精緻に重なり合っている。
そのすべて――生成も消滅も、一瞬の移ろいすら、はちるの意志の外には決して逸れることがない。
世界がまるごと、均衡と調和のなかで呼吸している。
そして、宇宙の中心。三千世界の軸そのものとして、はちるはそこで静かな微笑を湛え、
胎児のごとく漂っていた。
その表情を見たとき、尊は、己の魂の境界が、あの深淵へと飲み込まれていくような、抗いようのない力に引き寄せられたと知った。
もし襖を開け放った勢いのまま、不用意に1歩でも足を踏み入れていれば――
神ですら、その無窮の底から、2度と現世へ帰ることは叶わなかったに違いない。
座敷の、”宇宙”に染まっていないわずかな部分はいつもの通りの色をしている。
つい今しがた、世界を襲った色彩の変化が起きていないということだ。
つまりこの部屋だけは、完全に、彼女の力の影響下にあった。
――力との、和解がついになされたのだ。
かつては、畏れと猜疑心がその無限の可能性を曇らせ、
時折、語尾を歪めるしゃっくりのような災厄となって、それは己自身に牙を剥いたこともあった。
あるいは「スピリットゲート」――アキノという少女に淵源をもつその力を、彼女は一貫して未知なるものと見なした。
無知ゆえに、そこからもたらされる出来事のすべてを受け入れ、本来なら、ただ1人だけその例外として振る舞えたはずの制約さえも、甘んじて受け入れてしまった。
しかし、そうしたことはひとえに、はちるが自分の力を信じ切れなかったばかりに起こったことにすぎない。
今、この宇宙の只中では、はちるの意志が万象を包み込み、ただ、あるがまま無垢に遊ばせている。
その逍遥遊のさだめに抗うものは、劫初から弥終にいたる時間の流れの、ほんの最小のゆらぎの中においてさえ、なにひとつとして存在せぬ。
座敷の片隅で、現世の色を保つ畳の一画もいまや、彼女が心の奥から受け容れた「秩序」の裡にある。
混沌と理、創造と消滅――そのすべてが、ひとつの大いなる調べとして鋭敏に共鳴し合っていた。
……あらゆる可能性を拓くのは、ただ己の力を最後まで信じ抜く意志にほかならなかった。
かつて手に余った混沌も、全能も、いまや、より果てしない湖面の上の、静謐なる波紋として受け入れられた。その調和は、一時の幻ではない。世界は、彼女の微笑みとともに、いま真に息づきはじめていた。
「――はちる!」
神威を込め、あらためて尊は愛娘の名を呼ぶ。
だが、その次の瞬間、彼女は自己の腕に起きた異変に、驚愕した。袖から覗く腕が、
しなやかな人間のそれから、硬質な黒い外殻と、鋭い節を持つ甲虫のそれへと、瞬時に変貌していたのだ。
近くのドレッサーをのぞけば、全身が、光沢を帯びた巨大なコーカサスオオカブトの姿へと完全に変じてしまっている。
「……なんじゃこりゃあっ!?」
ただ、神として投げかけた声は、閉ざされた宇宙の調和をたしかに切り裂いていたようだ。
「……?」
状況が呑み込めないまま、はちるが、ふわりと、元の畳に着地する。
その純真な瞳に映ったのは、信じがたい姿へと変わり果てた、母の姿だった。
「……ママぁ?」
いつもの彼女の、どこか甘えを帯びた問いかけに、巨大なコーカサスオオカブトは、黒光りする頭部を気まずそうに動かした。
「わ、わしのことはよい!それより、連絡が来ておるぞ。せちから!」
カブトムシの尊は、まだ動揺を隠しきれないまま、昆虫の鋭い爪で器用にスマートフォンをつまみ上げると、その画面を娘の目の前に差し出した。
「んん?……せちって、だぁれ?」
はちるは、聞き慣れない名前に不思議そうに首をかしげる。だが、メッセージの内容と、アイコンを
見て、ようやく合点がいった。
「あっ、おせちのことか!……そっかそっか。全部わかったよ!今向こうがどうなってるかも」
全能の洞察力――はちるが顔を上げた瞬間、座敷を満たしていた星雲の幻影が、一気に彼女の身体へと吸い込まれていく。すべての光を1点に凝縮させた彼女の輪郭が、限界まで膨れ上がった恒星のように、
激しく白く発光した。
――カッ!!
目を焼くような純白の閃光が部屋を打ち据える。
光が収まった次の瞬間、そこにはもう彼女の姿はなかった。ただ、飛び立った畳の表面に、かすかな熱の陽炎だけが揺らめいていた。
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本家:ページ中にキャラのコンセプトアートなどあり
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