【やり直し軍師SS-68】名前のない食堂
船乗りであったヘキサは、若くして不幸な事故で足に大きな怪我を負い、船を降りざるを得なくなった。
不幸中の幸いというか、その事故は雇っていたベクスター商会が責任を負う類のものであり、また、上り調子であった商会も充分に誠実な対応をしてくれたため、ヘキサは相応の大金を得て船乗りをやめた。
妻のロマは、危険の伴う船の仕事を引退したことを喜んでくれたが、仕事を失ったヘキサはそれからしばらく抜け殻のように日々を過ごす。
ロマが流石に心配をし始めたある日、どこかに出かけて行ったヘキサは帰ってくるなり突然、「店を買った」と言う。詳しく聞けば、たまたま散歩の途中で売り店舗を見かけたらしい。
唐突ではあったものの、前向きになった夫に、妻は喜んだ。
「それで、何のお店をするの?」
「食い物屋をやろうと思う」
ヘキサは船乗りだった頃、ずっと賄いを任されていた男だ。その経験を活かして街の食堂をやろうと考えた。
「良いわね。私も手伝うわ。……お店の名前は決めたのかしら?」
「ああ、決めている。”無し”だ」
「なし?」
「店名は作らない。看板も不要だ。観光客の相手もしない。知っている奴だけ来ればいい」
「あらあら、随分と変わったお店ね」
「……それでいいんだ。そういう店がやりたい」
「分かったわ。まだお金にも余裕があるし、やってみましょう」
こうして、ゲードランドの裏道の一角に、小さな小さな食堂が、ひっそりと誕生したのである。
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ヘキサの宣言通り、店は本当に細々と営業を続ける。収支はトントンか少し利益が出れば良い方。そんな日々。
常連がポツポツ来るだけの静かな店に、暴風のような男がやってきたのはある晴れた日のことだ。
「おお、こんなところに飯屋があるのか! 知らなんだ!」
大声で独り言を言いながら、どかりと椅子に座る大男。体格からしても、服装からしても騎士団の、それも若い将校と見受けられた。
「おすすめは何だ?」
狭い店舗に身を縮めるようにしながら、大男は問いかける。
「……つまらない庶民の食い物しかできませんよ?」
ヘキサの露骨に迷惑そうな返事も意に介すこと無く、男は豪快に笑う。
「そう言うのがいいんだ! ほっとするものを食わせてくれ!」
「……お待ちを」
しばしして、大男の前に出されたのは、本当に庶民の定番、ポージュであった。
「おお、良い香りだ」
大男は乱暴な口調とは裏腹に、丁寧な所作でポージュを口に運ぶ。それからは急に静かになり、黙々とポージュを食べ始めた。
あっという間に一皿平らげると「おかわり」と皿を突き出す。
さらに「他にも何品か頼む」と追加注文。
次々と出された料理を全て瞬く間に平らげた大男は、「美味かった」と言いながら、多めの金をカウンターに置くとあっという間に店を出てゆく。
「……何だかすごい人だったわね」
「ああ」
2人は呆れながらも、大男の背中を見送ったのである。
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裏通で細々と続けていた名もなき店は、次第に、隠れた名店として知る人ぞ知る存在になってゆく。
開けるのも気まぐれ、仕入れ量も気まぐれで営業時間も安定しないのに、店を開けるとすぐに人がやって来るようになったのだ。
ある日にきたお客は小さな子供連の客。親子はクゼルの人間だという。魚を売りにゲードランドまで来たのだそう。
おとなしそうな子供は、父の言葉を話半分に聞きながら、熱心に本を読んでいる。
「ここのポージュは絶品らしい。楽しみにしてろ」
「ふーん」
子供の反応はイマイチだったが、実際にポージュが届いて口にすると目の色を変える。
ポージュをがっつく子供を満足そうに眺める父。
この親子はその後しばらく、時折ではあるが店にやって来るようになった。
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騎士団長としてゲードランドを任されるようになったザックハートは、赴任して早々にあの店へと向かう。ルデクの様々な場所に赴任したが、この店を超えるポージュに出会うことはなかった。
店構えが変わっていないことを確認すると、古くなった扉を壊さぬようにそっと押す。中にいた老夫婦は、おやと首を傾げつつ、ザックハートを迎え入れた。
「ポージュをくれ! それから他にも適当に頼む!」
その大声に記憶を呼び覚まされた老夫婦は、「はいはい」と言いながら、ずっと変わることなく作り続けたポージュを、少し多めに皿によそい始めるのだった。