【やり直し軍師SS-333】リヴォーテの日記11
北ルデクの中でも、特に辺境といって差し支えのない、北西部の田舎の集落。
以前は商人ですら見向きもしなかったこの村に、小さかならぬ異変が起きていた。
北ルデクの各地から、いや、北の大陸の各地から、噂を聞きつけた旅人たちがやってくるようになったのである。
彼らの目当ては、たった一つの食堂。
地域唯一と言って良い名産品、蕎麦粉を利用した料理を出している店だ。
蕎麦粉といえばガレットなどが一般的だが、この辺りでは少々変わった食べ方で供される。よく練った蕎麦粉を麺状にして、それをつけ汁に浸して食べるのだ。
麺状にして食べること自体は、地域に昔から伝わる作法であり、地域住民からすればさして珍しいものでもない。
元はと言えば食料の乏しい時代、とにかく蕎麦粉で餓えを凌ぐしかなかった中で、せめて見た目や食感だけでも変化を、そのようにして生み出されたとの口伝が残る。
とはいえ味は平凡。せいぜいが浸す汁に木の実をすりつぶして混ぜたり、柑橘系の果汁を足すことで、味にも目新しさを出すのが精一杯。
そんな“つけそば”に大きな変革をもたらした男。ヤイールは今、そんなふうに呼ばれていた。
ヤイールの功績として真っ先に挙げられるのが“ワビ”なる、強い辛みのある香辛料とつけそばの相性の良さだ。
ワビの鮮烈な味わいに負けぬように、つけ汁を工夫したり、麺の太さを研究し、一つの到達点へと辿り着いた。
とは言え、ヤイールからすればワビは偶然の産物であり、こうまで持て囃されるのは些か落ち着かぬ気持ちである。
しかし、ヤイールの店で供され始めた、新たなつけそばは、じわりじわりと評判を呼び始めた。
今ではヤイールの店を目当てにやってきた旅人のために、宿屋が3軒も建てられるまでになったのだから呆れてしまう。
同時に、ヤイールの元には弟子入りを願う者達が殺到した。ヤイールは弟子など取るつもりは毛頭なかったので、最初は丁重に断っていた。『まだ、人に教えるほどのものではない』と。
断りの文句はヤイールの本心であった。未だに己の満足のゆく味には至ってはいない。己の研鑽にこそ時間を取りたいとの思いが強かった。
それでもあまりにも繰り返しやってくる弟子志望者達に、ヤイールはとある条件を出す。
『修行期間は最低でも5年。最初の2年は下働き。5年間はこの村に住んでもらう』
こんな条件で首を縦に振るような物好きはいない、そう考えての提示である。
ヤイールの見込みの通り、大半の者達はヤイールの名を借りて、楽して儲けたいだけの者達。条件を聞けば捨て台詞を吐いて去ってゆく。
ところが、極一部、その物好きが存在したのである。しかも5人も。
1人が本当に村に居を構え、改めて弟子入りを願い出た時は、さすがにヤイールも困惑。しかし、無茶な条件を言い出したのは他ならぬヤイール自身である。
なりふり構わぬ覚悟を見て、仕方なく弟子入りを許したのだが、これが大いなる失敗であった。
まさか、同じような変わり者が、最初の弟子の家で共同生活をしながら働きたいと言ってくるとは。
1人目は良くて、2人目はだめ、というのはヤイールの美学に反する行為に他ならない。
こうして、以前の店の倍ほどの広さで建て替えられたばかりのヤイールの店は、日々中も外も喧騒に包まれてゆく。
だから、その日は少し珍しい夜となった。
夕飯時までは客がひっきりなしにやってきていたが、ピークを過ぎるとパタリと客足が途絶えたのだ。
もう、閉店までさしたる時間もない。
「……今日はもう帰っていいぞ」
弟子達に一言告げると、一番気働きのできるサインツが、
「では、片付けを!」
と言い出すも、手で制する。
「いや、今日は少し俺の研究時間にする。片付けはやっておく」
「良いのですか?」
「ああ。そうだな、小遣いをやる。たまには他の店で飯でも食って帰れ」
言いながら銀貨を何枚か手渡すと、弟子達は楽しげに帰ってゆく。
扉が閉まるのを確認して、ヤイールは小さく息を吐いた。
店の中が、これほどまでに静かになるのは久しぶりだった。集中して、研究に取り組むには良い夜である。
片付けをしながら、新しく湯を沸かす。納得のできるつけ汁を求めて、腕が鳴った。
洗い物をしながら、何を試してみようかとあれこれ想像を膨らませる。この忙しさには少々辟易していたヤイールであるが、金と人手が増えた事による、食材の確保が容易になったのは大きい。
と、ドアの開く音がして、ヤイールは入り口へと視線を向ける。背格好からして弟子ではない。
そう言えば、閉店の札をかけるのを忘れていた。
「すいませんが、今日はもう……」
そこまで言いかけて、ヤイールは固まる。
忘れもしない。
そこにいたのは、“あの”片眼鏡の男であったのだ。




