096.『闇の胎動』2
その数時間後、悠樹たちは真琴の帰りを待っていた。
「遅ぇな」と悠樹がぼやいた。
「由衣とよろしくやってんだろ」と琢磨が野暮なことを言った。
真琴がグレンに殺されかけたことなど知らずに呑気なものである。杏奈は聞かないフリをした。悠樹と杏奈はつい昨日魔女狩り作戦を阻止すべくルクレティウス騎士団の猛者と戦い、怪我を負っていた。二人とも打撲のみで済んだが、杏奈がほとんど無傷であるのとは対照的に悠樹は全身に怪我を負っていたため、彼はその日家事を休んでいた。杏奈も頭を打たれていたが、頭痛もなくいつも通り家事をこなすことができた。マナによる治療を真琴が受け始めたのがつい昨日のことで、まだその日になっても彼は帰って来てはいなかった。
琢磨と杏奈は食事の支度をしていた。二人は真琴の分の食事の支度もすべきか、メニューはどうするかを思案していた。夕飯時になったというのに真琴が帰って来そうにないため面倒臭がりの琢磨は「もう三人分でいいか」と言った。杏奈は真琴に悪いような気もしたが、たしかにその日真琴が帰って来るような気もしないため無言のままそれに同調した。二人は簡単な食事の用意を始めた。用意といってもパン、バター、レーズン、ハチミツ、干し肉、水を食卓に並べるだけだった。彼らは忙しいときには大概このメニューで済ませていた。豪華に食べたいときはこれに代わって米、魚、玉子、野草などを調理したものが食卓に並んだ。食事の用意はみなでするのがルールだった。しかし杏奈が慣れていたこと、簡単なメニューであれば人手がいらないことから、琢磨はその日杏奈が用意している間リビングで横になり、悠樹はまったく何も家事をしないのも悪いので庭の野菜と鶏の様子を見に行くことだけはしようと思って外に出た。外はもうほとんど日が落ちて薄暗かった。それでも家の中から漏れてくるランプの灯りや他の家の灯りもあり、かすかに庭の様子を見ることはできた。野菜はカラスに荒らされた様子もなくよく育っていた。鶏の水やエサも足りていた。ただ、この時間になると大人しい鶏がその日は慌ただしくキョロキョロと周囲を窺っていることが気になった。悠樹は彼らに声を掛けた。
「どうしたお前ら。そんなにキョロキョロして」
答えは後ろから聞こえた。太い男の声だった。
「動物は敏感だからな。人間と違って」
慌てて振り返った悠樹は突如として大きな拳で顔面を殴られた。その物音で異変に気付いた杏奈は枕もとに急いで駆け寄って剣をとった。琢磨は鍬を持って急いで二階に身を潜めた。彼らが息を殺して耳をそばだてていると裏口が派手な音を立てて開いた。二人は目を見開いた。そこから五人の人間が家の中に入って来た。一人は大男。一人は盗賊風の女。一人は狩人風の女。一人は剣士風の男。もう一人は大男にひきずられている悠樹だ。悠樹は意識を失っているようだった。
「悠樹!」
杏奈は思わず叫んだ。杏奈を意にも介さずに盗賊風の女が言った。
「いるんだろスレッダ。出て来いよ。借りを返しに来たぜ」
杏奈はアイシャに向かって叫んだ。
「あなたたちは誰なの! 悠樹に何したの!?」
その段になってようやく杏奈を見てアイシャは言った。
「ん? 何だお前。こいつの知り合いか?」
杏奈はそれには答えずに声を張った。
「悠樹を離して!」
アイシャは面倒臭そうに答えた。
「ああ、わかったわかった。おいクライス」
そう言ってアイシャが振り向くとクライスは悠樹を杏奈に向かって放り投げた。悠樹は床にどさりと音を立てて倒れた。
「悠樹!!」
杏奈は慌てて悠樹の傍らにしゃがみ、その容態を確認した。
「大丈夫だ。ちょっと気絶させただけだ」
クライスは事も無げにぽつりと言った。杏奈は目にいっぱい涙をためてクライスに向けて怒鳴った。
「ここから出てって!」
代わりにアイシャが平然と答えた。
「そうはいかねえな。あたしたちはスレッダってのに用があってここに来たんだ」
杏奈は決然と応じた。
「スレッダさんはここにいません」
アイシャは顔を顰めた。
「そんなでまかせが通用するとでも思ってんのか!?」
「本当です! スレッダさんはここにはいません!」
奥に立っていたリサが家の中を見渡しながら口を開いた。
「その女の言う通りだ。この家にスレッダはいない」
リサの気配察知能力の正確さをよく知っていたアイシャは舌打ちした。
「ちっ、マジかよ」
「杏奈…」
杏奈の足元で呻き声がした。
「悠樹!」
悠樹はうっすらと目を開けていた。クライスは感心したように言った。
「もう目を覚ましたのか。タフなヤツだな。そいつ新米の騎士か何かだろ? いい騎士になるぜ」
杏奈はクライスを睨んだ。そんな杏奈の怒りなど気にも留めずにアイシャは尋ねた。
「おい女。スレッダはどこにいる?」
杏奈は少し逡巡したのち決然と答えた。
「知りません」
アイシャは訝った。
「は? お前同居人だろ? 居場所知らねえってどういうことだよ」
「あたしたちはここをスレッダさんから借りてるだけです」
琢磨は息を殺して二階の階段の上からその様子を窺っていた。杏奈の言葉に嘘の響きがないことを感じたアイシャは諦めた。
「そうかよ。じゃ他を当たるか。二階の影からこそこそこっち見てるガキも達者でな」
琢磨は口から心臓が飛び出そうになった。アイシャたちはその言葉を潮に家から出て行こうとした。それを意外な人物が意外な言葉で遮った。
「待ってください」
杏奈だった。アイシャは振り向いた。
「あ?」
杏奈の姿を見たアイシャは少しだけ感心したように驚いた。杏奈は立って剣を構えていた。
「スレッダさんに何の用ですか?」
アイシャは平然と答えた。
「借りを返すんだよ。あいつらには色々世話になったからな」
アイシャは声を低くして続けた。
「あいつだけじゃねえ、六大騎士全員だ。一人ずつぶっ潰させてもらう」
それを聞いた杏奈は剣を握る手に力を込めた。
「あなたたちをここから出しません。私はルクレティウスの騎士です。あなたたちをここで倒します!」
アイシャは呆れたように鼻で笑った。
「てめえも新兵だろ? 剣の構えを見りゃわかるよ。新兵一人であたしたちの相手が務まるとでも思ってんのか?」
しかし杏奈の表情と意志は揺らがなかった。
「新兵がどうとか、相手が何人とか関係ありません! 私はルクレティウスの兵士です。そしてルクレティウスに仇なす賊を討つのが私の仕事です!」
するとアイシャは感心したように小さく何度も頷いた。彼女は拳を鳴らしながら不敵な笑みで杏奈を睨んでこう言った。
「よく吼えた女。てめえの覚悟に免じててめえは全力で殺してやるから誇り高く死ねや」
男は薄く目を開いた。最初に感じたのは空気の冷たさと周囲の薄暗さだった。深く暗い色をした床が目に入り、それが広く続いていた。目が慣れると遠くにうっすらと床と同じ色をした壁を見ることができた。また円柱のようなものも視認することができた。日の光がかすかに差し込み、それでも薄暗いため、そこはどこか大きな部屋の中のようだった。男は思った。ここはどこだろう。私は誰だろう。
男はふと隣に何か動くものの気配があることに気付いた。男はぼんやりとそれを見上げた。人の形をしたそれは、しかし質量にして人の十倍はありそうなほど大きかった。それは角をもち、牙をもち、灰色の体表をしていた。その顔は笑っていた。男とその顔は目が合った。男はその顔に見覚えがあるような気がした。だがはっきりとは思い出せなかった。こいつは誰だ? 俺は誰だ?
巨体は声を発した。
「起きたか、リヒト」
リヒトと呼ばれた男はその響きを手がかりに記憶の海をまさぐった。しかし生温く淀むそれは何の手応えも与えてはくれなかった。
「まだショックで記憶がはっきりしないんだな。かわいそうに。でも大丈夫だ。そのうち思い出すだろ」
リヒトは再び虚ろな目でぼんやりと大男を見た。大男はリヒトに語りかけた。
「リヒト、人間に復讐したいと思わないか?」
そう問われたリヒトはしかしうまく思考を働かせることができなかった。
(こいつは一体何を言っている?)
大男はリヒトの返事を待たずに続けた。
「憎たらしいだろ? アーケルシアとルクレティウスが」
アーケルシア…。ルクレティウス…。このとき、記憶の海をまさぐっていた彼の手に一つのおぼろげな手応えがあった。しかしそれはすぐに彼の白く細い指をすり抜けてどこかを漂った。彼は再びそれを求めたが、そうして水をかけばかくほど水流に弄ばれて記憶の断片は彼の指をすり抜けていった。彼はじれったさを覚えた。
「この両国の無為な争いのせいでお前は大切なものを失ったんだ」
(大切なもの…?)
指はその断片の正確な位置を掴んだ。水流は次第に落ち着きを取り戻してきた。慎重に掴まなくてはならない。彼は心を落ち着け、水の中を波立てないように慎重に手を伸ばし、指を狭めた。
「思い出せ、お前の大切な人の名前を」
あと少し。大男はその名を口にした。
「マリア」
リヒトの指はたしかにそれを掴んだ。彼は目を見開いた。彼の心臓は高鳴った。マリア…。彼は唐突に思い出した。働くマリアの健気さを。マリアの一つ一つの言葉に込められた優しさを。彼に微笑みかけるマリアの愛しさを。その変わり果てた姿を。
「ぅぉおおああああああああああああああああああああああああああ!!」
彼は嗚咽にも怨嗟にも似た叫び声をあげた。
「そうだ、それでいい、憎たらしいだろ?」
脇に鎮座するその声の主の顔を見てリヒトは叫ぶのをぴたりとやめた。リヒトははっきりと思い出した。
「貴様は…フラマリオンを壊したオーガ…!」
怪物は笑った。
「貴様とは失礼だな。俺には韋太夫という立派な名前があるんだぞ」
リヒトは叫んだ。
「なぜあんなことをした!!」
本当は韋太夫と名乗る怪物の喉首に剣を突き付けて問いただしたいところだが、目を覚ましたばかりであるためかリヒトの体は思うように動かなかった。韋太夫は事も無げに答えた。
「まあ、神楽にはどうしても退場してもらわなきゃならなかったんでな」
リヒトはただ訝ることしかできなかった。
(この怪物は一体何を言っている…?)
韋太夫はそんなリヒトの疑念をよそにニヤリと嗤った。
「ところで、どうしてお前が生きてるんだと思う?」
それはもっともな問いだった。そうだ、そもそもなぜ俺は生きている。あのとき俺はアーケルシアで死んだはずだ。韋太夫は笑いの皺を深くした。
「お前は殺されかけていた。でも、俺が助けた」
リヒトは唐突に思い出した。断頭台にかけられた彼の目の前に突如としてこの巨体が姿を現した瞬間の光景を。ケーニッヒを含めた処刑人も観衆もすべてそこから逃げ出した。あとに残されたリヒトをこの韋太夫と名乗る怪物が断頭台から外し救い出したのだ。リヒトは呆然としながら尋ねた。
「貴様はオーガだろ…?」
韋太夫はもっともという風に頷いた。
「まあ、そうさな」
「オーガがなぜ人間である俺を助ける」
「貴様は人間を恨んでるはずだ。であれば俺と利害が一致する」
リヒトは眉を顰めた。
「俺が人間を恨んでいる…?」
「それにな、お前を助けた理由は他にもあるんだ」
訝るリヒトをよそに韋太夫は続けた。
「俺は思ったんだ。お前を助けてお前にオーガの種を植え付けようって」
リヒトは韋太夫の言葉の意味を理解しようと努めたが、しかし彼にできたのはその言葉を反芻することだけだった。
「オーガの種を植え付ける…?」
「そうだ。お前はその器に相応しい。お前の剣よりも強いぞ」
リヒトは呆然とするほかなかった。
「そして俺はこの世界を救いたい」
リヒトは眉間の皺を深くした。
「救いたい…?」
韋太夫は再び口の端を吊り上げた。
「そうだ。そして世界を救うにはな、壊すしかないんだ。殺戮と破壊以外にこの世界を救う手立てはないんだよ」
リヒトは問うた。
「お前はさっきから何を言っている…」
韋太夫はニヤリと嗤ってリヒトに尋ねた。
「お前は禁書をまだ読んでないんだな?」
リヒトは呆然としつつ答えた。
「聖剣に関する部分だけ読んだ。あとはまだ…」
韋太夫は一つ頷いてから言った。
「全部読めばわかる。俺が何をしようとしてるのか。この世界はどうあるべきなのか。禁書は持ってるか?」
「ああ、服の内にしまっている」
リヒトは懐からその小さな本を取り出した。
「なら読んでみろ」
リヒトは韋太夫を呆然と見上げた。
「そいつを読めばきっとお前も俺と一緒に人間を滅ぼしたくなる」
それから約二時間後、リヒトは禁書を閉じた。彼は口を真一文字に結び、顔をうつむけていた。彼は目を見開き、肩を震わせた。
「これが…、これがこの世界の真実だというのか…」
リヒトはそう独りごちた。隣に座してそれを見下ろしていた韋太夫が諭すように言った。
「ああそうとも。それが俺たちが人間を滅ぼす理由であり人間が滅ぶべき理由だ」
リヒトは戸惑っていた。
「俺は…、俺はどうすればいい…?」
「貴様の心に従え。お前の望みは何だ? 貴様を裏切り弄び続け、貴様から大切なものを奪ってきた人間どもへの復讐ではないか?」
リヒトは韋太夫の言葉について考えてみた。しかしどれだけ自身の心の中をまさぐっても空虚なそれは何の手応えも返してくれなかった。虚ろな目を虚空に投げるリヒトに頭上からさらに韋太夫の問いが降ってきた。
「人間には生きる価値があると思うか?」
そう問われてリヒトの胸中には様々な光景が去来した。マリアを誘拐されたときに感じたケーニッヒとタルカスへの恨み、コロシアムで見た人間の醜い欲、シェイドが味わった絶望と憎しみ、ゲレーロによるフラマリオン支配のおぞましいあり様、血を失い虚ろな眼差しで横たわるマリアの亡骸、断頭台から見た濁った空の色。リヒトにははっきりと答えることができなかった。
「人間は…」
「我々と人間を滅ぼそう、リヒト」
リヒトは韋太夫の言葉に違和感を覚えた。
「我々…?」
韋太夫は目の前の暗闇を見ながら声高らかに嘯いた。
「さあ見ろリヒトよ、黄泉の扉が開くぞ」
韋太夫に促されたリヒトは眼前の空間に目をやった。突如としてその暗闇の中に赤い光の亀裂が走った。その数は八。リヒトは愕然とした。
「我が僕たちの復活の刻だ」
亀裂は広がり、その奥からはそれぞれ一体ずつの異形の影が浮かんだ。亀裂はそれぞれ大きさが異なった。彼らは歩を進め、亀裂の中からゆっくりと「こちら側」に姿を現した。リヒトは呟いた。
「オーガの神と、八体の悪鬼…」
それはムーングロウに古くからある伝承だった。現れた八体の異形はまさに悪鬼と呼ぶに相応しい容貌をしていた。
一つは人間の形をしているが赤い皮膚に隆々たる筋肉、鋭い爪、鋭い牙に鋭い目、二本の角をもつ。
一つは人間の形をしているが髑髏の面をかぶり黒い装束に身を包み、長身痩躯、不自然に長い腕の先に長い鉤爪を備えている。
一つは黒いハリネズミのように太く鋭い毛で覆われた獣。アリクイのように長い鼻と蛇のような尾をもち、猛禽のように鋭い爪をもつ。
一つは鷲よりも遥かに大きな鳥の姿。赤と黄金の斑の翼をもち、大きな鶏冠と孔雀のように派手な尾をもつ。
一つは市女笠を被った壺装束姿の女。長い髪をもち、細く美しいがその表情は窺えない。さらに体が透けている。
一つは小柄な人間の形をしているが、裸の上半身に蜘蛛と蝙蝠を模した黒い刺青をもち、腰まで伸びる赤い髪をもつ。肌は白く眼は赤く鋭い。首に数珠を掛けている。
一つは巨大な竜。一つの胴に六つの長い首をもつ。その体は韋太夫に匹敵するほど大きい。
一つは白い束帯に身を包む。腰には刀。黒い髪を束ね、首元と手首を珠でできた装身具で飾る。一見すると八体の中ではもっとも人間に近い成りをしているが、もっとも超人的なオーラを放っている。
いずれも異形。人ならざる者。その昔人間を虐げ支配し地上の全てを恣にした存在。伝承の怪物。すなわちオーガ。その姿形とそれが放つ禍々しいオーラがその存在理念の悪辣さを物語る。
彼らの姿を見て満足そうに頷いた韋太夫はその大きな口を開いた。
「荒牙。陣冥。黒莫。我琉羅。凛音。乱麻。六白。天須流儀。みなよくぞ蘇った。さあ始めるぞ、我ら九体のオーガとここにいるリヒトでこの世界のすべての人間を殺し尽くすのだ!」
韋太夫はリヒトを見た。リヒトは呆然と呟いた。
「これが…オーガ…」
韋太夫は頷いた。
「そうとも。そしてこの世界を統べるべきは人間ではない」
八体のオーガが顕現すると赤い亀裂は収束し消えた。広く冷たい部屋には本来の薄暗さが戻ってきた。だが彼らの双眸に宿る鋭利な光はより際立ち、彼らの体が放つ凶兆は消えない。韋太夫は再び八体の僕を見て邪な笑みに顔を歪めた。
「我々だ」




