087.『疫病神』1
彼女は叫び声をあげようと口を開けたが、それに合わせて何かをそこにつっこまれてしまった。そのまま彼女は口を布でしばられ、猿轡をされた格好になった。次に彼女は腕を後ろ手に捻り上げられた。彼女は激痛とともに体をくの字に曲げ、体の動きに大きく制限をかけられた。
「んーっ、んーーーーっ!」
深夜でほとんどの医師が退勤しほとんどの入院患者が寝静まった病院の中の端に位置する防音の行き届いた仮眠室とあって、彼女のくぐもった声は誰の耳にも届かなかった。首だけで必死に後ろを振り向いた彼女が見たのは彼女の腕を片手で捻りながら、後ろ手でドアと鍵を素早く閉めるビショップの姿だった。彼が再び彼女を見ると両者は目が合った。そのときのビショップはもはや彼女の知る穏やかで人付き合いが下手で口下手な患者ではなかった。欲望に飢えた獣であり、欲望に敗れて狂ってしまった男だった。マナは恐怖に慄いた。彼女の体は軽々と持ち上げられて背中をベッドに叩き付けられた。彼女はその衝撃でむせ返ったが、猿轡のせいで息がつまってしまった。その間にビショップはマナに覆いかぶさり彼女の股の間に自身の腰を潜り込ませた。マナは暴れたがビショップは彼女の腕を掴み上げ、さらに上体を彼女の体に覆いかぶせてその自由を奪った。三か月前まで兵士をしていた男の膂力は小柄な上に憔悴しきっていたマナの自由を容易く奪うほどに回復していた。マナはその太い腕や胴とその力にそれまで感じたことのない圧迫感と恐怖を覚えた。彼の臭気や体毛は彼の世話をしているときは一人の一般的な患者のそれでしかなかったが、今彼女が感じるそれは彼が欲情に飢える一匹の雄であることをマナに教えていた。彼女は彼が自身に何をしようとしているのかを悟った。「やめて!」と叫ぼうとしたがつまった息と猿轡のせいで声はくぐもりうまく出なかった。男はマナの耳元で言った。荒い息の混じった湿った声だった。
「僕たちは愛し合っているんだ」
マナは否定しようとしたが猿轡で声が出せない上に、理性を失ったビショップには彼女の意思を理解しようがなかった。上体を起こしたビショップは恐怖に歪んだ彼女の顔をじっと見た。不意に彼は彼女の上衣を襟から裂いた。ボタンはおもしろいように簡単に弾け飛んで彼女の肌着で隠しただけの胸が露になった。
「僕たちは今から一つになるんだ」
そう言うと男は自身も上衣を脱いで裸体を露にし、それを使ってマナの腕をベッドの柵に縛り付けようとした。いよいよ体の自由を完全に奪われる瀬戸際とあってマナは残った力のすべてを振り絞ってそれに抗ったが、敵を拘束したり僻地で生き残ったりする術として縄の結び方を訓練していた彼は迅速にそれを遂行してしまった。ついにマナの自由を完全に制圧した男は勝ち誇ったように笑った。
「ほんとは君だって僕のことが欲しいんだろう?」
目を閉じると自然と何に由来するか彼女自身にもわからない涙がこぼれた。しかしその涙は男をさらに扇情した。男は彼女のスカートを勢い良くめくり上げた。裏返しになったそれは彼女の下半身を隠す役目を失い、ついに彼女の純潔を守るものは一枚の下着のみとなってしまった。
男は彼女の腰の曲線の美しさに目を輝かせながら自身もまた急いで脚絆の腰の部分をずり下ろした。彼女は恐怖と理不尽に嗚咽と呻きを漏らした。二人の腰はすでにほとんど密着していた。男は息を荒くし、彼女の下着に手をかけ、自身の腰をそこへと押し進めた。
彼女の体は急激に熱くなり、強烈な異物感に襲われた。そのとき偶然にも彼女の猿轡がゆるんで外れた。彼女は小さく呻いた。
「やめて…、痛い…。お願い、あたしの中に入ってこないで…」
彼女は腕を柵に括り付けられた不自由な体で頭だけもたげておそるおそる痛みのする下腹部を見た。すると彼女は違和感を覚えた。彼女の視界にはすでに男の姿はなかった。いや、視界の端の方で男は何かにひどく怯えドアを背にしていた。マナは気付く余裕もなかったがビショップは下着を下ろしてすらおらず、彼女もまた下着を履いたままだった。彼の怯えた視線はマナの下腹部に注がれていた。彼女はその原因を知るために再び自身の下腹部を見た。そこには白くまばゆい光があった。彼女の瞳は、頬は、天井はその光に鮮烈に染め上げられていた。ビショップは震える声で言った。
「な、何だよその光…」
するとマナの内側で声がした。男の子の声だった。
『マナ、お前の体は俺がいただいた』
マナは恐怖のあまりその声に慌てて問いただした。
「え!? 何!? あなたは誰!? どうしてあたしの中にいるの!?」
声は答えた。
『お前の中には俺の種がある』
「種…? どういうこと!?」
『お前も俺が欲しかったんだろう?』
マナはかぶりをふった。
「いや、いらない! あなた誰?」
『俺はオーガ。まだ子供だけどな。お前に力をくれてやる。代わりにこの体は俺がいただく』
すると光は一気に強さを増し、唐突に消えた。マナもビショップも呆然とした。するとさらなる変化がマナの身に起きた。彼女の意思とは関係なくひとりでに彼女が腕を拘束する布を引きちぎったのだ。それは平時の彼女には考えられないほど強烈な力だった。彼女の体は彼女の意思に関係なく勝手に立ち上がった。するとさらに驚くべきことが起きた。
「うん、思った通りなかなかいい体だな」
そんな声がマナの口から漏れ出てきた。それは先ほどマナの内から聞こえた少年の声だった。マナの口はたしかに動いていた。しかしマナは口を動かそうなどとしていなかった。つまり勝手に口が動き、勝手に声が発せられたのである。マナは戸惑った。
「何これ…? どうして!?」
すると再びマナの口が勝手に動いた。彼女はニヤリと笑い、その口からは男の子の声が出た。
「さっきも言っただろ? 俺が乗っ取ったのさ」
マナは困惑し問うた。
「あなたは誰なの!?」
マナは呆れた顔をして少年の声で答えた。
「いやそれもさっき言ったし。子供のオーガ」
するとビショップが呻いた。
「何だ貴様は…。何で男の声がする…!?」
マナは少年の声でビショップに言った。
「何度も言わせんなめんどくせーな。俺はオーガ。子供だけど人間より遥かに強いぜ。さっきお前はこの女を襲ってたよな? 二度と変な気は起こすなよ。これはもう俺の体だしこいつはもう俺の女なんだ。お前ぐらい簡単に殺せるからな」
するとそれを潮にビショップは震える手で必死に鍵をあけ、悲鳴をあげながら急いで部屋を出て行った。マナは「やれやれ」といった顔をして少年の声で言った。
「さて、変質者も去ったことだし俺はしばらく眠るぜ。復活したばっかで眠いんだ。あとはよろしく」
マナは慌ててマナ自身の声で問うた。
「えっ!? ちょっと、眠るってどういうこと!?」
答えは返ってこなかった。マナの中にオーガと名乗る「何か」がいる感覚は消えていなかった。たしかに彼女の中には別個の命が横たわる気配が漠とあった。しかしそれは先ほどのような強烈な存在感を放ってはいなかった。本当に眠ってしまったんだとマナは悟った。彼女はまだ恐怖のただ中にいた。しかしビショップが去って行ったこと、また彼女の中の「オーガ」がひとまず大人しくなったことにわずかながら安堵した。マナはベッドの縁に座り込んでぽつりと言った。
「何これ…わけわかんない…」
マナはそのあと仮眠室のベッドで眠った。彼女は疲れのため昼過ぎまで寝過ごしてしまった。慌てて起きた彼女は執務室へ向かったが、その途中で先輩の医師に呼び止められた。寝過ごしたことを咎められると思ったマナはしかしその問いを聞いて心底驚いた。
「ねえマナ? シェリルさんが賢者になったって知ってた?」
「…え!?」
「しかも昨日いきなり。もう今日から賢者で象牙の塔で執務に就いてるんだって。新しい院長は後日象牙の塔から任命されるみたい」
マナは唖然とした。
「…」
先輩はそれだけ言うとどこかへ行ってしまった。彼女はもやもやする気持ちを抱えたまま業務に戻った。するとその中でビショップがその日の朝早くに医師の制止を振り切って退院手続きを済ませて出て行ったことを聞いた。おそらくあの白い光を見、オーガの声を聞いて怯えたためだとマナは悟った。昨日の出来事は一体何だったのだろう。ビショップに襲われた。しかし急に白い光が腹部から発せられ、体の内から男の子の声がした。彼は体を乗っ取ると言い、本当に自身の体を操った。それに怯えたビショップは逃げて行った。自身をオーガだと言うその男の子は急に眠ると言ってその異様な事態は収まった。しかし彼女の中にはまだその男の子の気配がたしかにある。
マナがそんなことを考えながら業務をこなしていると、ある拘束斑の患者の部屋で異変が起きた。拘束斑で長いこと苦しんでいる牧場主の容態が急変したのだ。ことに最近は憔悴が激しかったが、持ち前の気丈さでそれを乗り越えていた。しかしその日は呼び掛けにも応じず目を閉じたままだった。マナは彼が重篤な状態にあることを悟った。辺りにはマナと牧場主の他に誰もいなかったが、誰を呼んで来てもこの事態は好転しないし、打つ手立てはないと悟った彼女は絶望した。責任感の強い彼女は自身を責めた。すると彼女の意思に関係なく彼女の口が開いた。
「俺が治してやろうか?」
あの少年の声だった。マナは驚き慌てつつも怒った。
「あたしの体から出てって!」
マナの口からは腹話術のように交互に男の子の声と本来のマナの声が出た。また声が切り替わるたびに表情も切り替わった。マナを操るオーガは呆れたような顔をして少年の声で言った。
「いきなりそれかよ…」
マナは再び怒った。マナの口からは彼女本来の声が出た。
「あんたに構ってる暇なんかないの!」
マナは呆れたように笑うと少年の声で言った。
「おいおい何言ってんだ。その男を救いたいんだろ? 俺なら救えるぜ」
マナは唖然とし言葉を失った。彼女は冷笑を浮かべて少年の声で言った。
「俺はオーガ。人間にはない力をもってる。そのお前ら人間が拘束斑て呼んでる病気も治せるんだぜ」
マナはオーガの言葉について考えた。マナの中に突如宿った力。あの不可思議な白い光。伝承の種族オーガ。そこには一定の説得力があるように思えた。マナは戸惑いながら問うた。
「本当に治せるの?」
マナは当然とばかりに笑って少年の声で言った。
「ああそうさ、ちょっとまた体借りるぜ」
マナは顔に警戒の色を滲ませて釘を刺した。
「勝手なことしないでよ」
彼女は再び呆れたように笑い少年の声で言った。
「いいから見てろ」
するとマナの意思に関係なくマナは立ち上がり、部屋の入り口のドアと鍵を閉めた。彼女の体を操る何かはベッドの牧場主の脇に立ち、彼の体に手をかざした。すると手の先から昨日見たのとは異なる緑色の光が発せられた。それは牧場主の体全体を優しく包んだ。マナはその光に魅せられた。オーガといえば人間を虐げた恐ろしい存在だと聞く。しかしその伝承とは裏腹に彼の言葉と彼の放つ光には人を癒す意思と力が感じられた。そういえば昨日も彼は自身をビショップから守ってくれた。
そんなことを考えているうちに牧場主の体に変化が起きた。彼の拘束斑が薄くなったように見えたのだ。拘束斑は不治の病。それを誰よりもよく知っているマナは目を疑った。しかし見れば見るほど拘束斑は薄くなっていった。
「そんな…」
マナはニヤっと笑って少年の声で言った。
「すげえだろ?」
とうとう拘束斑は牧場主の男の首から完全に消えてしまった。すると牧場主は呻きながら目を覚ました。
「ん、んん…」
彼はベッド脇の彼女を見てこう言った。
「おやマナちゃんおはよう。君がベッド脇にいるということはだいぶ寝坊をしてしまったようだね」
彼の口調も表情も穏やかだった。先ほどまで死の淵にいた者とは到底思えなかった。彼女は強烈に理解した。あの緑の光は、このオーガは、この牧場主の拘束斑を本当に治してしまったのだと。
「マナちゃん?」
呆然とするマナに牧場主は戸惑う声を掛けた。彼女は慌てて取り繕った。
「相変わらずお元気そうで、何よりです…」
牧場主はマナの顔色を見て心配そうに言った。
「そういうマナちゃんはずいぶんお疲れのようだね」
マナは苦笑した。
「ええ、まあ…」
シェリルのいない病院は多忙を極めた。代役には副医院長が就いたが手腕の違いは歴然であり、指揮系統は混乱した。影響は患者にも及んだ。医療の質が下がり、看護の手の行き届かない患者が増え、彼らの容態は総体的に目に見えて悪化した。オーガはその能力で彼らを癒すことを提案した。マナは葛藤した。
「あなたの目的は何?」
マナは眉を吊り上げて少年の声で言った。
「目的? そんなもんねえよ。ただお前ら人間を見て楽しんでいたいだけさ」
それを聞いてもオーガの意図を訝しく感じるマナの気持ちは晴れなかった。
「オーガはもっと野蛮な生き物だって教わったけど?」
「まあそれは間違いねえな。ただオーガだって考え方が変わることもあるし、けっこう個性強いから」
マナには他にも憂慮すべきことがあった。
「…あなたの力を使ってるところを見られたらあたしは捕まっちゃう…」
マナは少年の声で飄然と意地悪く言った。
「まあ、捕まるだけで済めばいい方だな。人間はオーガを恨んでるだろうから魔法の実験の材料として生きたまま切り刻まれて薬品と一緒にビン詰めされて長いこと苦しんだ挙句死ぬだろうな。まあ俺の力使うならそうならないように頑張りな」
マナは眉を顰めて呆れたように言った。
「何それ、他人事だと思って。あたしがそうなったらあなただって同じ目に遭うんじゃないの?」
マナはニヤリと笑って少年の声を出した。
「その通り。つまり俺たちは運命共同体。まあ仲良くやっていこうぜ」
調子を狂わされっぱなしのマナはオーガとの会話を嘆息して切り上げた。




