085.『マナ』1
彼女はおずおずと話し出した。真琴は静かに頷きながら耳を傾けた。
「真琴はあたしのことをいつも『由衣』って呼んでくれるけどね、あたしの本当の名前はマナっていうの」
彼女の話はその一言から始まった。
マナはルクレティウスのアカデミーに入り、そこで医学を専攻した。ルクレティウスのアカデミーで非凡な才能を発揮した彼女は賢者見習いとして認定され医学の研究に携わることになった。さらに彼女は当時のルクレティウスの医療研究のトップであり賢者見習いの一人であるシェリルにその才能を認められ、彼女の下でルクレティウス中央病院で働くことになった。
それは元の世界の医師や看護師の仕事と何ら変わらず、激務そのものだった。しかし彼女は熱心にそれに取り組んだ。真面目で責任感の強い彼女は患者に親身に接し、彼らの回復を自分のことのように願い、彼らが命を落とすと遺族のように哀しみ、責任を感じた。
そんなある日、マナは院長の執務室に呼び出された。はじめ先輩の医師から「シェリル先生から呼び出しだよ」と言われたときには何のことだかわからなかった。「シェリル先生」といえばルクレティウスの医療のトップに立つ有名人だし、当然マナもその名を知っていたが、まさか彼女から呼び出されるとは思ってもいなかったためその名を聞いてもマナは誰のことだかにわかに理解することができなかったのだ。先輩に「院長のシェリル先生」と言われてようやくマナはその重大性を認識した。
院長室は最上階にあった。階段を上りきるとそこは他の階とは違う雰囲気を放つ空間だった。何となくそこは病院ではない他の研究機関か何かのような趣があった。最上階の間取りは狭いため他の医師もほとんど訪れることはなかったし、マナも初めて足を踏み入れた。
院長室は階段を上がった左手の廊下の突き当りにあった。扉の前に立つと緊張はより高まった。自身を賢者見習いへと推薦してくれた人物、この国の医療のトップ、それはどのような方なのだろう。そのような方と会って何を話せば良いのだろう。私はなぜ呼び出されたのだろう。マナは意を決してその大きなこげ茶色の木製の扉を二度ノックした。
——コン、コン。
しかししばらく待っても中から反応はなかった。二十秒が経ち、三十秒が経ち、それでも反応がないため、彼女はもう一度ノックをするか「ノックしてもいらっしゃいませんでした」という口実が出来たことを良いことにこの場から逃げ出すか迷った。彼女はもう一度だけ扉をノックしてみることにした。
——コン、コン。
「あら、いらっしゃい」
その声はマナのすぐ左からした。マナは心臓が飛び出そうなくらい驚いて身をすくめた。マナが驚いて振り向けた目には柔和な笑みを浮かべる細い女性の姿が映っていた。それは食堂でたびたび見かける医師だった。黒髪で、小顔で、美しく白い肌と細い脚をもつこざっぱりした印象の女性だった。いつもスカートをかなり短く履いていたが、さっぱりした身なりのためか下品な印象を与えなかった。マナは彼女をどこか違う専門の医師だと思っていた。マナは何度も食堂で見かけて彼女のことを覚えていたが、逆に彼女が自分のことを覚えていることはないだろうと思っていた。やっと落ち着きを取り戻し始めたマナはようやく返答をすることができた。
「あの、えっと、あなたもシェリル先生に呼び出されたんですか?」
個別の面談だとばかり思っていたマナは他の医師も呼ばれていたことを知って驚いた。目の前の医師はそれを聞いて少し驚いたが、すぐに彼女は何気なく言った。
「あたしがシェリルよ。さあ、入って」
シェリル医院長はにっこり笑ってドアを開けた。マナは唖然とした。彼女はにわかにシェリル医院長の顔を認識していなかったことへの不敬を大いに恥じた。大変なことをしてしまったと感じた。
しかしマナが戸惑っているうちにシェリルは特に気にする様子もなく執務室の中へとどんどん入って行ってしまった。マナはこれ以上失礼があってはいけないと思い慌てて自身も執務室に入った。その際「失礼します!」と大きな声で言ったが、どうしても声は上擦ってしまった。後ろ手でそっとドアを閉めたマナと目が合うとシェリルはにこっと笑って立っていた。彼女は笑うと目が線のように細くなった。
「どうぞ座って」
シェリルも上着をハンガーにかけてから執務席に掛けた。マナは椅子に座る前に先ほどの不敬を詫びた。
「あの、ごめんなさい。私シェリル医院長のお顔を存じ上げなくて、すみません!」
シェリルは彼女の謝罪を聞いてはじめ驚いたが「そんなのいいのに」という顔でにっこり笑った。
「今までも食堂でたびたびお目にかかっていたのに会釈もしないで私、せっかく推薦していただいたのに本当にごめんなさい!」
マナはそう言って深々と頭を下げた。
「いいのよ。私も挨拶しなかったんだから。それにあんまり医院長っぽくないからよく普通の先生と間違えられるの」
マナはシェリルが本当にまったく怒っていなさそうだったのでひとまず安心した。
「さあ、座って」
「あ、はい!」
執務席に向かい合うように大きな黒い一名掛けの革製のソファがあった。マナは自身の立場と体には不釣り合いなその応接用の大きなソファに勧められるまま腰を下ろした。それは彼女が見たこともないような高級なソファだった。座ると深く腰が沈んで心地よかった。普段から疲れていた彼女は油断したらきっとこの椅子に座りながら眠ってしまうだろうとさえ思った。これ以上の不敬は絶対にしてはならない、彼女は自身を強くそう戒めつつも、ともすれば気を抜きがちな自分が知らず知らずのうちに眠ってしまうのではなないかという不安を覚えた。
「緊張しないで」
にっこり笑ってそう言うシェリルにはマナを見下したり茶化したりする雰囲気はまったくなかった。
「はい!」
慌てて返事をしたマナは自身の声に緊張がたっぷりと表れていて恥ずかしくなった。シェリルは手元の書類に目を移した。
「もうここに来て三か月経つのね。慣れた?」
そう言って顔を上げてシェリルはさわやかに微笑んだ。マナはその笑顔に見とれて少し返事が遅れた。
「あ、あの、はい! 少し…」
シェリルは少し神妙な顔をした。マナがあまり仕事に慣れていないことをこのときシェリルは看破していた。
「私があなたを推薦したのはあなたにすごく才能を感じたからなの。とても細やかに物事を観察する力があると思ったわ」
マナは反射的に「ありがとうございます!」と言った。しかし自身のアカデミー生としての活動のどこにそのような資質を示す部分があったのか見当もつかなかった。もしかしたら担任からのレポートにそのようなことを申し伝える箇所があったのかもしれない。
「そういう人って本当にこの仕事に向いてるの。それに成績も優秀だし本当に完璧ね」
マナは恐縮して頭を下げるほかなかった。
「とんでもございません! ありがとうございます!」
「でも少し心配なの」
そう言われてマナは会釈した顔を上げた。
「そういう人ってすごく疲れやすいから。すごく大変なお仕事なのに、周りの細かいことに気付いちゃうと気疲れがすごいの」
人付き合いの経験の浅いマナは何と答えて良いかわからなかった。「私は大丈夫です」も相手の意見を否定することになるし「ありがとうございます」も何か違う気がした。
「だからね、あまり頑張りすぎない程度に頑張ってほしいな、って思ってるの」
マナは今度こそ素直に返事をすることができた。
「ありがとうございます!」
シェリルはそれを聞いて目を細めて笑った。彼女は前言を少し言い換えた。
「頑張りすぎない程度にっていうか、気疲れしないように?」
マナは彼女の言っていることが自分に置き換えてよくわかった。たしかに自分にはそのような傾向があるように思えた。こちらからも何か気の利いた話題を出さないとと思い、いっそ「シェリルさんも気疲れしてしまうことがありますか?」と聞いてみようかと思ったが、それも失礼にあたるような気がしたし、そのあとの会話を続ける自信がなくてやめた。
「今日は急に呼んでごめんなさいね」
「いえ! そんなことありません!」
「マナちゃんは初めてかもしれないけど、三か月に一度みんなと面談してるの」
マナは自身が呼び出された理由にようやく合点がいった。彼女はそれが全員に課されるものであり、自身の落ち度による突発的なものでないことに安堵した。同時に、自分だけが特別に目をかけてもらったかもしれないと少し期待していた彼女はそうでなかったことに少し落胆した。
「なんか怒られると思った?」
シェリルはいたずらっぽく笑ってそう尋ねた。自身の心の内が態度と顔に出てしまっていることに気付いてマナははっとした。シェリルはその様子を見て目を細めて笑った。マナは照れくさそうに苦笑いすることしかできなかった。
「どう? 仕事は楽しい?」
特別な面談でないとわかると途端に緊張は解けマナは質問にはきはきと答えることができた。
「そうですね! 先輩も優しいですし、面白い人ばっかりで楽しいです!」
「そう、よかった。でも慣れないうちは大変だったでしょ?」
マナは仕事を始めたときのことを思い出して少し遠い目をした。少し苦笑して彼女は答えた。
「はい、正直大変でした。お仕事自体が初めてでしたので。本当にみなさんすごいなって思いました。自分は絶対先輩みたいにはなれないって思いました。何でも知ってるし、仕事もあたしの十倍くらい速いし」
マナはできるだけ明るく冗談めかして言ったつもりだったが、他者からはそれがかえって痛々しく聞こえた。シェリルは笑っていたがマナの心の痛みを見抜いていた。
「でもよく覚えたわね」
マナはかぶりを振った。
「いえいえ、まだ全然覚えられなくて、メモを見たり、先輩に何度も同じこと聞いて怒られたりしてます!」
「安心して、みんな最初はそうだから」
マナは「そう言っていただけてありがたい」という気持ちと「あの先輩たちが今の私みたいに物覚えが悪かったとは思えない」という気持ちがない交ぜになって、うまく受け答えができず苦笑した。
「誰か怖い先輩はいる?」
質問とは裏腹にシェリルは笑顔だった。ちょっと見ると本気で心配しているのか冗談のつもりで聞いているのか判別するのが難しい笑顔だった。ただ、とにかく聞かれた側は安心して答えられる、そんな温かさがあった。
「えっと…、クラーラさんには結構注意されます。でもおっしゃってることはごもっともで、本当に勉強になります。あと、ゾフィアさんは怒ると怖いです。あんまり怒らないですし、私はまだ怒られたことないですけど」
思い出しながらそう語ったマナは少し先輩の愚痴を言いすぎたような気がしてシェリルの表情を窺った。しかし彼女がそれを不快に思っている様子はなく、マナは安心した。
「患者さんで変な人とかいない?」
マナは斜め上の質問がきて戸惑った。マナが考える「職場」に患者は含まれていなかったのだ。
「患者さん…。変な方は…。むしろ皆さん本当にいい人です!」
「そう、よかったわ。何か困ったことがあったら何でも言ってね」
「ありがとうございます!」
シェリルは思い出したように言った。
「そうだ!」
彼女はにっこり笑うと立って戸棚に向かった。あらためて部屋を見渡すと重厚ながらも素朴なデザインと色合いの美しい棚が並べられていた。その一つ一つの棚にはかわいらしい置物や器が並べられ、壁には小さな絵が飾られていた。マナは思わずその一つ一つに目を奪われた。おそらくそれらはすべてシェリルが選んで買って来たものなのだろうとマナは思った。こんな部屋に住みたいと彼女は思った。シェリルは戸棚を開けるとそこからいくつかの紙の包みを取り出してマナの方に向かって来た。座ったままでは失礼だと思い立ち上がろうとしたマナだが、革の高級なソファーに腰がしっかり沈んでしまっていたため間に合わなかった。シェリルはそれをマナに手渡した。座ったまま受け取ったマナは一瞬それが何かわからなかった。
「これは…」
それは高級そうなお菓子の包みだった。
「ごめんなさいね、お茶も出さないで」
「いえ、そんな! すみません! ありがとうございます!」
マナは院長からの施しものにすっかり緊張を取り戻した。
「中央にアランデュカスってお菓子屋さんあるの知ってる?」
マナはアカデミー生の頃その店の前を何度も通りがかっていたことを思い出した。それはおしゃれな佇まいの憧れのお店だった。
「はい!」
「私あそこのお菓子大好きなの」
シェリルは嬉しそうにそう言った。マナは憧れていたお菓子屋さんのお菓子を憧れの人からもらえて目を輝かせて喜んだ。
「嬉しいです。私ずっとここのお菓子食べたかったんです!」
シェリルは目を細めた。
「私のおすすめはその緑のやつ。おいしいよ」
「ありがとうございます! わ~うれしい~」
マナは自身の掌の上にちりばめられたおしゃれな包み紙をまるで宝石のように目を細めて眺めた。
「初めてのお給料は何に使ったの?」
マナは何に使ったか思い出そうとしたが少し時間がかかった。
「たしか…医術書とノートとペンを買ったと思います!」
シェリルは意外な答えに驚いた。彼女はマナが女の子らしく服やケーキや小物に使ったと答えることを予期していたらしい。シェリルは呆れたように笑った。
「ほんとに勉強熱心なのね」
マナはシェリルほどの人物にそう言われて驚いた。彼女はむしろシェリルほど勉強した人間はいないと思っていた。
「いえいえ、あたしなんて全然…」
「あなたより勉強熱心な人なんて周りにいなかったでしょ?」
「全然そんなことないですよ! すごく思い詰めたようにずっと参考書見てる人とかいましたし」
「ほんと? あなたより勉強してる人がいたらあたしが見落とすわけないんだけどな~」
マナは自分より勉強していた人について思い出そうとした。しかし不思議なことに彼女はその人物のことをうまく思い出すことができなかった。
「今日はありがとね。マナちゃんともっと話したいけど次の人にも会わないと」
そう言われてマナははっとした。どうやら長居してしまったらしい。もしかしたら自分ばかりしゃべり過ぎていないだろうかと彼女は心配になったが、シェリルがさわやかに優しく笑うのでその心配も吹き飛んでしまった。彼女は立ち上がって頭を深々と下げた。
「こちらこそありがとうございました!」
「またいつでも来てね。何か悩みがあれば何でも聞くから」
「はい! ありがとうございます!」
執務室を出て職場に戻る彼女は意気揚々としていた。その理由は三つあった。医院長からの呼び出しが無事に終わったこと。憧れていたお店のお菓子をもらえたこと。何より憧れていた医院長が気さくで優しい方で、自分に親身になって話をしてくれたこと。帰ったらお菓子を一つだけ食べようと彼女は思った。残りは週末に一つずつ味わって食べよう。
そんな彼女の生活が一変することになるきっかけは、ビショップという名の兵士が入院してきたことだった。




