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こころのみちしるべ  作者: 110108
ルクレティウス編
86/102

084.『恋路』2

——コンコン。

 それから一週間後、いつも通り真琴が北の森に行くために数時間前に出た家のドアをノックする音がした。その家を訪れる者は少なかったため、ノックの音を聞いただけで住人は来客が誰かを見極めることができた。だがその音は今までに一度も聞いたことのないものだった。警戒しながら戸口を開けた悠樹たちが見たのは意外にもジンの姿だった。

「よおっ」

 明るく挨拶をくれたジンに悠樹は警戒を解いて挨拶を返した。

「ジンさん、おはようございます。どうしたんですか?」

 いつもの飄然(ひょうぜん)とした表情でジンは言った。

「ちょっとお前らに今から来てほしいんだ」

「来て欲しいってどこへ…」

 ジンは少し口の端を上げた。

「騎士団庁舎。ちょっと聞きたいことがあってな」

 その時点で悠樹は少し特別な込み入った事情があって自分たちが呼ばれていることを察していた。

「わかりました。ちょっと琢磨に留守を頼んで来ます」

「いや、琢磨も来るんだ」

 家の奥にいる琢磨に声を掛けに行くために振り向いた悠樹はジンのその一言に驚いた。悠樹はジンの真意を知るために彼の目を凝視したが、その目はまったく冗談を言っておらず、その奥底には有無を言わさぬすごみがあった。




 騎士団庁舎のジンの執務室に通された三人は初めて来るその場所をキョロキョロと眺め回した。入口の戸を閉めたジンは自身の執務席につきながら言った。

「そこに座ってくれ」

 三人は言われるままにソファに掛けた。ジンは終始笑顔だったがこれから何か重大にして不都合な話が始まることはその雰囲気と事の次第が物語っていた。おそらくそれはここにいない真琴に関係しているということも何となく察しがついた。悠樹はそれが真琴の命に関わることでないことを願った。ジンは単刀直入に切り出した。

「お前ら魔女について何を知ってる」

 悠樹は血の気が引くのを感じた。ジンの顔は笑っていたが、彼が目の奥でじっくり悠樹たちの表情の変化を(うかが)っていることがわかった。杏奈が決然と言いきった。

「何も知りません」

 ジンはその答えを予期していたようで表情を少しも変えなかった。

「真琴は魔女と会ってるそうだぞ」

 それでも杏奈は押し通した。

「何も知りません」

 杏奈の決然とした意志にジンは少し感心したようにふっと笑った。するとその時、入口の戸が開いた。後ろを振り向いた悠樹たちが見たのは部屋の入口に立つスレッダの姿だった。彼は悠樹たちをちらと見てからジンに(たず)ねた。

「首尾はどうだ?」

 ジンは眉を上げた。

「何も知らないそうで」

 スレッダは入口の戸を閉めてから悠樹の目を真っ直ぐに見て言った。

「お前らのためにならないぞ。正直に言え」

 悠樹はスレッダに威圧されつつも、それに(ひる)まないように自身を(ふる)い立たせた。

「仮に知っていることがあったとしても、死んでもそれをお話しする気はありません」

 真っ直ぐに悠樹を見下ろしながらその言葉を受け止めたスレッダは(さと)すように言った。

「話した方が真琴が助かる可能性が上がるぞ、多分」

 それを聞いて悠樹は動揺を見せた。

「どういうことですか…?」

 スレッダは目を一度深く閉じて嘆息した。




 その頃、北門の前には騎士団の馬車が三十台並んでいた。魔女討伐の大部隊である。先頭の馬車にはレオが乗っていた。門扉(もんぴ)はすでに開かれ部隊が進軍を始めるのを待ち構えていた。レオは魔女という国難をもたらしかねない難敵との戦いを見据える眼差しを門の先の景色に向けていた。他の馬車に誰が乗っているのかは見えない。一部の荷馬車には長期の行軍を想定し食糧や物資等の資材も乗せられている。レオは声を張り上げずに言った。

「進軍せよ」

 御者役の兵は返事の代わりに馬を駆った。それに連なって後続の馬車も進んで行った。ムーングロウ統一戦争以来の大作戦がこうして幕を開けた。




 その日も真琴が森を訪れると魔女は広場で待ってくれていた。

「待っててくれたの?」

 彼女は微笑んでいた。

「ちょっとだけね。それより…」

 彼女は嬉しそうに腰の小袋をまさぐりだし、そこから何か白いものを取り出した。

「これ見て!」

 それは玉子だった。真琴は魔女にあげたメスの鶏が玉子を無事に生んだことよりも、それを魔女が喜んでくれたことが嬉しかった。

「良かった…。もう食べてみた?」

「うん、昨日食べたよ! おいしかった!」

 魔女はそのときの味を思い出したのか、目を細めて喜んでいた。

「良かった…。ねえ、他に食べたいものある?」

 魔女はその質問について少し考えてみた。何かを逡巡(しゅんじゅん)しているように見える彼女の顔からは笑みが消えた。

「ううん、せっかくだけど…」

 そう言う彼女を見て真琴は素直に喜ぶところも遠慮がちなところも彼女はやはり由衣その人だと思った。

「由衣、遠慮しないで言ってみて」

 やはり魔女は何かをためらっているようだった。

「…」

 真琴はもう一押ししてみることにした。

「俺たちは少しずつ生活が安定してきたんだ。だから甘えていいんだよ」

 それを聞いた魔女は遠慮がちに口を開いた。

「じゃあ…」

 彼女は照れくさそうに言った。

「あの果物がたべたい…」

 真琴が魔女にあげた果物は一つしかなかった。

「干しブドウ?」

 うつむいた魔女は恥ずかしそうに(うなず)いて真琴をちらと見上げた。真琴は微笑んだ。

「わかった。次もって来る」

 魔女は上目遣いに真琴を見て笑った。

「ありがとう」

 彼女は思い出したように付け加えた。

「ねえ、お茶飲んでって」

 今度は真琴が喜ぶ番だった。

「うん」

 真琴は荷物を抱え直した。彼が前回ここを訪れた際、二人はボードゲームをして遊んだ。ゲームは真琴が圧勝してしまった。負けたことに対して特に悔しがる様子を見せなかった魔女だが、真琴は魔女に勝たせてあげたかったのに自分が勝ってしまったことを少し後悔していた。前回の訪問の際に他にもボードゲームを一つとカードゲームを一つもって来ていた真琴だが、それをする時間はなかった。今日は前回できなかったゲームをしよう。今日こそ魔女に勝たせてあげよう。二人は彼女の家を目指して意気揚々(ようよう)と歩き出した。




 家に着くと二人は魔女の()れたお茶を飲んだ。魔女は採れたての玉子で玉子焼きを作ってくれた。一つの玉子を二人で分けたため量は少なかったが、真琴は登山のあとで疲れていたため玉子焼きの塩気と旨みがいつも以上においしく感じられた。何より彼女が手料理を作ってくれたことが嬉しかった。二人は真琴がもって来たパンも一緒に食べた。魔女はパンを頬張っておいしそうに食べた。真琴はその姿を見て目を細めて思い出した。そういえば中学生の頃の由衣も同じようにご飯をおいしそうに食べたっけ。

 真琴は少し気になることに思い当たった。真琴は由衣を鮮明に覚えている。目の前の女性は間違いなくその人だ。そう、あの頃のまま。まったく変わらない。背格好も、顔付きも。まるでまったく歳をとっていないかのように。もちろん歳を重ねても若さや幼さを維持する人はいる。それは多くの場合女性にとって美徳だろう。しかしこれほど完璧に中学生の頃の幼さを維持する例は少ないように思える。

 対して自分は歳をとった。彼女に記憶があったとして、中学生の頃の自分を覚えていたとしたら、今の自分を見てどう思うだろう。この四年間俺は何をしてたっけ?

 話は自然と魔女の生活のことになった。それは自然と魔女が今の生活に至る経緯に移った。真琴はそれ以上踏み込むかどうか悩んだ。しかし魔女のその日の機嫌とそれまでに築いた信頼とを(かんが)みれば、それはさほどリスキーなことではないように思えた。また、それ以上に真琴自身が魔女の身に起きたことを知りたい気持ちを抑えられなかった。

「由衣、そろそろ聞かせてくれ。君に何があったかを」

 彼女はそれを聞いて神妙な顔をした。彼女は何かを言い(よど)んだ。真琴はさらに一歩踏み込んだ。

「何でもいい。何か力になれるかも知れない」

 魔女はまだ戸惑っていたが、真琴の真剣さに少なからず心を動かされたようだった。彼女は記憶の(ふた)を慎重に細く開けた。すると彼女の体は再びにわかに記憶の波にさらわれる感覚に襲われた。彼女は思い出した。自身にのしかかる男の重さを。その熱い体から伝わる圧力を、その吐息を、声を。

『ほんとは君だって僕のことが欲しいんだろう?』

 仰向けのまま恐怖で身動きができない自身がやっと振り絞った声を。

『やめて…、痛い…。お願い、あたしの中に入ってこないで…』

 彼女を殺戮(さつりく)せんと襲いかかるルクレティウスの兵士が放つ怒声を。

『嘘をつけ! 貴様がオーガの子どもをその腹に宿していることは知っているんだ! 大人しく認めろ!』

『もしその女が変なそぶりをしたらためらわずに殺せ!』

 魔女は(おび)えた。しかしその恐怖の度合いはいつもより少しだけ軽いような気がした。彼女はその理由にすぐに気付いた。それをふと思い出す度に恐怖の波に襲われてきた彼女だが、その度に彼女は波に飲まれる恐怖と向き合ってきた。それを覚悟してきた。いつしか波に慣れ、その恐怖は和らいでいた。恐怖で目を閉じているうちはわからなかったが、波は実はそれほど大きくなかった。彼女の恐怖が波を大きく見せているだけだった。

 もう一つ彼女にとって大きかったのは真琴の存在だった。直接口にはしないが、真琴は彼女の恐怖を一緒に受け止めようとしてくれているように感じた。それが彼女にとっては心強かった。真琴に会うたびに彼への信頼は大きくなった。

 彼女は目を閉じるのをやめた。彼女は波の向こうにいる真琴を真っ直ぐに見た。波はいつも通り彼女を襲ったが、彼女はそれを受け止めることにした。波は一見すると彼女の小さな体を飲み込んでしまいそうな迫力をもって迫って来ていた。しかし、波は彼女の体に達する前にあっさりと崩れ、膝より少し上を浸すに留まった。それは二本の脚で立ってそれを受け止めると決めた彼女の体を微塵(みじん)も揺るがしはしなかった。波が引いたあと、彼女は一歩前に進んで真琴にこう言った。

「わかった。全部話す。聞いてくれる?」

 真琴もまた一歩前に進んで言った。二人はいつの間にか手の届く距離にいた。

「うん」

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