080.『ずっとすきだった』2
彼女は慌てて蓋を閉じた。彼女は少し息を荒くしていた。真琴は慌てて彼女の身を案じた。
「大丈夫? ごめん、余計なこと聞いたかな…」
魔女はその質問には答えず真琴の目を見て言った。
「お願いがあるの」
真琴はその眼光の冷たさを見て彼女が次に何を言うかがわかった。
「もう二度とここには来ないで」
残念に思う気持ちを顔に出さないように真琴は自身に言い聞かせた。そんな権利は俺にはない。彼女が生きていただけで良かったと思わなきゃ。彼は二度小さく頷いてから言った。
「わかった」
別れの挨拶はそれで終わった。互いにまだ何かを言わなきゃいけないような気がしたが、それを探せば未練を断ち切れないと思った真琴は踵を返し歩き始めた。これが由衣のためになると自身に何度も言い聞かせた。元の世界で守れなかった彼女を、今度こそこの世界で守るために、自分に唯一できることはきっと彼女をそっとしておくことなのだろう。
彼は一度だけ振り返ろうとしたが思い留まった。一方の魔女はその背中を不思議な感慨をもって見送った。悪意はきっとない。彼の言葉に嘘の響きもない。だが同時に彼の言葉には不可思議な点が多い。また彼がルクレティウスの兵士であることに変わりはない。きっとこれでいい。二人の間を永遠に分かつように大きく風が吹いて木々を揺らした。しかしすぐさま嘘のようにぴたりと風は止んだ。その頃には真琴の背中はもう見えなくなっていた。
帰路もまた何事もなく済んだ。真琴が馬を駆る速度はどうしても速くなった。馬に負担をかけすぎてはいけない。そう思いつつも杏奈を助けたい一心で馬を休ませることも忘れて真琴は馬を駆り続けた。もう杏奈が倒れてから七日になる。拘束斑の患者は早ければ一週間で絶命する。もう猶予はないかもしれない。そう思うと真琴は焦らずにはいられなかった。馬はよく走ってくれた。
ルクレティウスの街へ戻った真琴はそのまま馬で病院に乗り付けた。もう夕方になっていた。杏奈は腰まで布団を掛けてベッドに座り、外の景色を眺めていた。ドアの開く音がすると、その意外な来訪者の姿に彼女は驚いた。
「真琴!」
杏奈を見た真琴は、彼女が生きていることに安堵して微笑みながら泣きそうになった。
「ただいま」
しかし一方の杏奈は真琴のシャツが真っ赤に染まっていることに気付いて愕然とし、表情を曇らせた
「それ…って…」
真琴はサイドテーブルの水差しの水をコップに注ぎ、魔女の結晶を紙袋から取り出し杏奈に飲ませる支度をしていたが、杏奈に言われて自身のシャツを見た。
「ああこれ? 大丈夫、治ったから」
真琴はさらりと答えると「そんなことより」と言わんばかりに杏奈に水と薬を渡した。
「これ。拘束斑の薬。飲んで」
杏奈は呆然としながらそれを受け取っておずおずと飲み下した。
「どう?」
効くかどうか気になって真琴は杏奈の顔を覗き込んだ。杏奈は困ったように笑って答えた。
「そんなに早く効くわけないでしょ?」
真琴も笑った。
「そりゃそうか」
真琴はどっと押し寄せてきた疲れに抗えずベッド脇の椅子の背もたれに崩れるように体を預けた。彼は息を切らし、彼の服と体は血と土と草で派手に汚れていた。杏奈は真琴が自分のために無茶をしたのだと知って困ったように笑った。自分のことでずっと思い詰めていた真琴がやっと笑顔を見せてくれて彼女はほっとした。
真琴は翌日から早速訓練に戻った。訓練の最中も杏奈の容態ばかりを気にした彼は訓練が終わるとすぐに病院へ駆けつけた。病室のドアを開けると杏奈はいつも通りベッドに腰掛けていた。先に悠樹も来ていた。真琴を見上げる二人の顔はいつもより明るかった。真琴がなかなか気付かないため、杏奈は真琴に見えるように自身の首筋を指先でとんとんと叩いた。
「どう? ちょっと薄くなったでしょ?」
真琴は目を見開いて歓喜した。「ちょっと」どころではなかった。黒かった昨日までの斑模様の色が、薄いグレーにまで減退している。ほとんど消えているように見えるものもある。真琴は近づいてそれをまじまじと眺めた。間違いなく斑模様は格段に薄くなっていた。手首も同様だった。悠樹が笑って付け加えた。
「お医者さんももうすぐ治るって」
二人は真琴が笑って喜ぶのを期待していた。だが真琴の反応は違った。彼は少しの間だけ呆然と立ち尽くした。彼の胸裏には重圧から解放された安堵が去来していた。すると突然彼は慌てて病室を出て行った。杏奈は驚いて起き上がろうとした。それを悠樹が制した。
「おいよせって」
杏奈は驚き悠樹に問うた。
「どうして!? 追いかけないと!」
悠樹は笑った。
「いいんだよ」
杏奈はまだ不可解だった。
「どうして!?」
「放っといてやってくれ」
杏奈は唖然とするばかりだった。悠樹は仕方なく説明した。
「泣いてるところを見られたくないんだよ」
杏奈はまだ理解が追いつかなかった。
「どうして真琴が泣くの?」
悠樹は困ったように笑った。
「初めてなんだよ。あいつにとって。誰か大切な人を守れたのが。あいつはずっとそれができずに苦しんできたんだ」
真琴は人目につかぬよう病院の裏手を選んだ。彼は壁にもたれかかると力なくうなだれ地に腰を下ろした。ふと空を見上げるとそれは重力に従ってこぼれてきて頬を伝い落ちた。空の色は元の世界とムーングロウとで変わることはなかった。それはいつか家族とともに柳原のファミリーレストランで食事をしたときに見た空の色に似ていた。お墓参りに行ったときの空の色にも似ていた。小学生の頃悠樹と琢磨と杏奈と遊んだときの空の色にも似ていた。みなでバッティングセンターに行ったときの空の色にも似ていた。由衣と柳原にデートに行ったときの空の色にも似ていた。
真琴は由衣の苦しみを思った。母の苦しみを思った。翔吾の苦しみを思った。それを救えなかった自分の弱さを呪った。杏奈も母や由衣と同じように自分のそばからいなくなってしまうかと思うと不安で仕方なかった。
しかし杏奈は今日笑顔を見せてくれた。彼女の拘束斑は劇的な回復を見せた。さらに由衣が生きていた。彼女は記憶を失い、オーガに体を奪われ、兵に追われて森の奥で過酷な生活を送ってはいたがたしかに生きていた。真琴は再び空を見上げた。その色は先ほどまでより少し鮮やかに見えた。真琴は涙がかわききらない赤い目のまま少し笑った。彼は思った。生活をもっと安定させよう。もっとお金を稼ぎ、良いものを食べられるようになろう。兵士として強くなってみなを守ろう。杏奈が全快するまで彼女を守ろう。みなともとの世界へ帰ろう。真琴は立ち上がった。彼は自身の体から静かに充溢する気力を感じていた。彼は自身の手を見た。真琴は鼻をすすって笑顔浮かべそれを力強く握りしめた。
杏奈の拘束斑は結局二日でほぼ完治してしまい、彼女はその翌日には退院した。みな真琴の帰還を喜び、杏奈の回復を喜んだ。
何もかもが順調に思えたが、真琴は大きな問題に直面した。ルクレティウスは魔女を国家に仇なす存在と位置付けていた。討伐の対象としていた。今回の真琴の遠征はルクレティウスの兵としての公式のものだった。遠征の資材はルクレティウスの騎士団が供したものだ。真琴には今回の顛末を騎士団に報告する義務があった。
だが『魔女に会ったけど薬だけもらって帰りました』と素直に報告するわけにはいかなかった。仕方なく『北の森へ行ったが、崖のため奥へと進めなかった。崖周辺に水場や洞穴がないか探したが発見には至らなかった。魔女の捜索の失敗は私の力不足によるところであり、誠に遺憾である。当任務については機会をいただけるなら北の森以外も候補地に入れて今後も取り組む所存である』と報告書に記した。
しかしこの報告がのちに真琴たちを窮地に追い込むことになることを彼はまだこのとき知らなかった。
「マナ、お前はあの男をどう思う?」
それは少女の口からこぼれた男の子の声だった。
「どう思うって何が?」
それは少女の口からこぼれた少女の声だった。
「あれはルクレティウスの兵士だ」
少年の声が言った。少女は少年が何を聞きたいのか理解した。
「ええ、でも信頼しても良さそうじゃない?」
少女の声が言った。彼らは体を共有していた。少女の体からは腹話術のように交互に少年の声と少女の声が出た。
「どうだかな。善人ぶって実は悪人ってヤツはこの世にごまんといる。俺はそんなヤツらを山ほど知ってる」
二人は声が切り替わるたびにそれに合わせて表情も切り替わった。少年は警戒の色を顔に浮かべた。少女はそんな少年の警告にうんざりしていた。
「あなたこそ、善人なんだか悪人なんだかわからないようなものじゃない。まあでもあなたがそう言うなら警戒はするわ」
「警戒で済む話だとは思えない。アイツが密告してこの場所がルクレティウス兵に取り囲まれたら俺たちは終わりなんだぞ」
「あなたの結界と威嚇で逃げる時間ぐらい稼げるでしょ?」
「それが確実じゃないから言ってんだ」
「知らないよ。そんときはそんときでしょ」
少年の声は何も答えなかった。しばらくして「彼」は言った。
「次にあの男がここに来ることがあったらそのときは『俺』が殺すからな?」
それは少年が少女に提案できる最大限の譲歩だった。少女はそれを受け入れるほかなかった。
「わかってる」
それを潮に少年は「口」を閉じた。少女は硬い声でぽつりと付け加えた。
「あたしだってあんな思いはもうしたくない…」
杏奈が退院する日に真琴は病室を訪れた。彼女は身の回りの整理をすっかり済ませていた。彼女は入院する前よりむしろ元気そうにさえ見えた。
「おめでとう」
「ありがとう、真琴のおかげだよ」
真琴は杏奈の荷物を半分だけ持った。彼はすべて持とうとすると杏奈に叱られることを覚えていた。杏奈は「ありがとう」と言って笑ってくれた。二人は廊下に出て病院の出口へと向かった。すると向かいの病室から老婆の呻く声が聞こえてきた。真琴はそれが気になって足を止め、ちらと扉の隙間から病室の中に目をやった。
「拘束斑なの」
隣で同じように足を止めていた杏奈がうつむいてぽつりと言った。真琴が杏奈の顔を覗き込むと、その顔は「どうして私だけが助かってしまったんだろう」と言っていた。真琴は「気にするな」とも「気の毒に」とも言えずにいた。真琴がゆっくり歩き出すと杏奈もやや遅れてそれに続いた。
ただ一つの結晶は杏奈に使ってしまった。老婆を救う方法はもうなかった。もう一度魔女から結晶をもらわないことには。そのとき、真琴の脳裏には魔女の小屋の棚にいくつかの結晶が並んでいた光景がよぎった。彼は再び足を止めた。杏奈は振り向いて「真琴?」とその様子を伺った。「何でもない」と言わんばかりに作り笑いを浮かべて真琴は歩き出したが、彼の脳裏にはその棚の上に結晶が並ぶ光景がいつまでも離れなかった。
家に帰ると杏奈の退院パーティが開かれた。パーティといってもいつもより少し豪華な料理を食べるというだけのことであり、男たちが手作りする料理は見た目の美しさや彩に欠けた。だが料理に慣れた真琴と悠樹のそれは味の面では杏奈を大いに驚かせた。二人の料理は総じて杏奈の健康を気遣う向きが強かった。杏奈はそんなみなの心遣いに感謝した。見た目の悪さに反して杏奈が喜んでくれたため会話は大いに盛り上がった。その中で真琴だけが心から笑っていないことに悠樹と杏奈が気付いていた。杏奈はその理由すら知っていた。
パーティの片づけの際に真琴と杏奈は二人きりになった。真琴が声を殺して何気なく尋ねた。
「あと何人くらいいるの? 拘束斑の人」
杏奈は重苦しい記憶を巡らせてそれに答えた。
「三人。私が知ってるだけで。たぶん本当はもっといる」
真琴は言った。
「三人なら救える」
棚の上に並んでいた結晶の数は正確には覚えていないが少なくとも三つはあった。杏奈は怪訝そうな顔を真琴に向けた。
「どうするの?」
真琴は片づけの手を止めずに杏奈に横顔を向けたまま平然と答えた。
「魔女に薬をもらいに行く」
杏奈は血に染まった真琴のシャツを思い出した。
「そんな!?」
杏奈の声で悠樹と琢磨が二人の会話の神妙さに気付いた。悠樹が真琴に声を掛けた。
「ちょっと待て、真琴、お前今もう一度魔女のところに行くって言わなかったか?」
真琴は説明をする必要に迫られた。
「杏奈の他にも拘束斑の患者はいる。見殺しにはできない」
琢磨も真琴を咎めた。
「次は本当に殺されちまうぞ!」
それでも真琴の意志は変わらなかった。
「何とか説得する」
悠樹はさらに問い詰めた。
「説得できなかったらどうするつもりなんだよ」
真琴はむきになった。
「説得してみせるさ!」
聞き分けのない子供のような態度をとる真琴に悠樹は苛立ちを覚えた。
「だから!!——
しかし真琴はそれ以上の激昂を見せた。
「少しは杏奈の気持ちも考えろよ!!」
そう言われた悠樹が横を見るとうつむく杏奈の姿があった。その胸中は明白だった。『自分だけ助かったことが忍びない』。悠樹はそれを見て自身の言動を後悔した。琢磨も同様だった。
森に行くには馬が必要だった。前回のように魔女捜索の正式な任務であれば馬を騎士団から借用できるが、報告書を出してしまった以上再び指令があるまで任務として森に行くことはできない。しかも魔女討伐の命が近いうちに再び下りる向きはなく、また魔女討伐の名目で魔女に会いに行くのも真琴の本意ではなかった。
真琴は馬を買うことにした。幸いにも近くの牧場の主が破格で、それも分割払いで売ってくれた。かつて鶏を買う交渉をした農家である。彼は手綱や鞍だけでなく、メスの鶏まで無料でつけてくれた。若くて丈夫な馬だった。馬の購入費用は安くなかったが、悠樹も杏奈も負担してくれたため支払うことができた。馬以外にも野営や遭難対策の装備が必要になった。それらも軍の備品を借用できなかったため、大きな出費となるが仕方なく真琴は購入した。それらについても悠樹と杏奈が一部負担してくれた。馬の管理飼育には裏庭の古い小屋を使った。みな動物が好きで、買い物の際の荷物の運搬の足にもなるのでこの新しい同居人を歓迎した。
馬や装備の調達以外にも一つ問題があった。街の外へ行くには許可が必要なのだ。真琴は外出の目的を『同居人に滋養をつけさせるための森の薬草の調達』として申請書類を提出した。許可は驚くほどあっけなく下りた。
任務ではないため平日ではなく土日に行く必要があった。真琴は土曜の夜に家を留守にしてしまうこと、家事を手伝えないことを心苦しく思ったが、みなそんなことは気にするなと言ってくれた。かくして前回魔女を探しに行った週の土曜に再び森に行く運びとなった。
土曜の朝、真琴はあえて北の森から離れた東の門を農夫や漁師とともに出た。そこはフラマリオンやアーケルシア方面とも逆であるため、もっとも警備が手薄でもっとも検閲が簡易な門だと真琴は睨んでいた。実際のところは特に検閲もなく、用心していたが簡単なものだった。往路は順調に進んだ。前回と同じく天候にも恵まれ、やや風はあったが日は暖かかった。前回よりも早く出たため森の入口にも早く着くことができたし、道を覚えていたため森の中も前回より早く進むことができた。
広場に辿り着いてから真琴はひたすら魔女が現れるのを待った。広場を抜けてしばらく歩くと魔女の家がある。しかしそこへ歩を進めることは自らを侵入者であると示すようなものだった。彼は辛抱強く魔女が現れるのを待った。魔女は先日後ろから現れた。おそらくそれは彼女が何かしらの方法で侵入者を察知し、後ろから回り込んだ証だと真琴は考えていた。だとしたら今も彼女はきっとこの場所に自分がいることを察知している。
変化は約一時間後に表れた。彼の右側が熱くなったのだ。目の端でそれを見るとまさに怪談に出てくるような火の玉が真琴の右の肩の傍らに浮かんでいた。続いて同じ変化が左側で起こった。続いて後ろで、正面で、上で。真琴は恐怖を覚えたが、その主もその意図も知っている彼はその状況でたじろいではいけないと自身に強く言い聞かせた。冷ややかな怒りの滲む声が彼の耳朶を打った。
「もう二度とここに来ないでって言ったよね?」
声の主は正面から現れた。




