068.『翔吾』1
心と体は密接不可分だ。体が疲れていれば心も腐る。この世界に来てすぐに五人は死に瀕するような経験をした。さらに知らない土地で知らない家に住み、元の生活と比較するとまったく快適とはいえない環境に身を置くことになった。食事も満足には摂れず、資金もいつまで続くかわからない。またいつ何がきっかけで同じように死に瀕する状況に身を置くかもわからない。風呂は火で沸かしていたため、湯加減の調節は難しかった。風呂に入った者は疲れがとれたが、風呂焚きの担当者はむしろ疲れが増した。スマートフォンもゲーム機もPCもなく、娯楽は一切なかった。元の世界に戻る方法は不明であり、彼らは必死に頭の中で否定したが、ここで一生を終える可能性の方が客観的に見れば高かった。悠樹の怪我はまだ完全には癒えていないし、各々が負った心の傷は向こう数年は消えそうになかった。彼らは極度の疲労と緊張とストレスにさらされており、そんな生活がすでに十日以上続いていた。そんな状況にあった彼らの心はついに限界を迎えていた。したがって五人の中に衝突が生じるのは必然だった。きっかけは琢磨が先に食事を口にしたことを悠樹が咎めたことだった。
「何でお前だけメシ食ってんだよ!」
琢磨は文句を言われる理由が見つからずに唖然とした。彼は当然とばかりに言い訳をした。
「は? 先に作業が終わったからだろ?」
その反論を予期していた悠樹は間髪入れずに次の文句を叩きつけた。
「じゃあ他の人の作業手伝えよ!」
作業が遅い他の者を見下す性分の持ち主である琢磨は「手伝え」と言われて「作業が遅い者の理屈」と切り捨てた。
「何でだよ! そんなの遅ぇヤツが悪ぃだろ」
一方の悠樹は琢磨が楽な仕事ばかり選ぶ傾向にあることを以前から不満に感じていた。
「お前が楽な作業選んでるだけだろ?」
しかし琢磨の自信は揺るがなかった。
「じゃあお前がやってみろよ?」
悠樹も同様だった。
「おお、その代わりお前が明日草むしりやれよ?」
しかし直感的に草むしりの大変さを理解していた琢磨はそもそも議論をふっかけてきたこと自体に怒りの矛先を変えた。彼は立ち上がって怒鳴った。
「お前さっきからうるせえんだよ! メシなんていつ食っても一緒だろ!」
しかし悠樹は琢磨のこの反応も予期していたため淀みなく言い返した。
「俺はメシのタイミングの話はしてねえ。お前が楽な作業だけやってさっさと一人で休憩とってることを咎めてんだよ。そんぐらい理解しろボケ」
ついに議論において劣勢に陥った琢磨は悠樹を感情のままに掴みかかりに行った。それを遠くで見ていた真琴が慌てて二人の間に割って入った。
「やめろって!」
杏奈も慌てて声を掛けた。
「やめようよ!」
だが琢磨の怒りは収まらなかった。
「黙ってろザコ! 次俺の行動に文句垂れたら怪我倍にしてやるぞ」
悠樹も引かなかった。
「何も言い返せなかったらそうやって暴力に訴えんのかダっっっセエな!」
杏奈は懇願するように声を上げた。
「ねえもうやめよう!」
だが二人とも引き下がろうとはしなかった。なんとか琢磨を悠樹から引き剥がすことに成功した真琴だったが、しかし琢磨はまだ悠樹に掴みかかろうとしていた。
「琢磨どうした?」
そこへ翔吾がやって来た。彼だけがその場で落ち着いていた。琢磨は翔吾に自身の正当性を主張した。
「こいつがさっきから——
翔吾はそれをさせなかった。
「さっきからうるせえぞ」
声は静かだがその底に怒気を孕んでいた。それに触れて琢磨は萎縮した。
「俺も屋根の補修で疲れてんだ。ちょっと静かにしろ」
そう言って翔吾は椅子に鷹揚に座った。琢磨は思わず謝った。
「ああ、悪い…」
翔吾はちらりと琢磨に目をやった。
「琢磨、明日屋根の補修一緒にやってくれないか? 結構大変なんだ。お前がいてくれると助かる」
琢磨は気圧されながら承諾した。
「おお…」
翔吾は次に悠樹に目を向けた。
「悠樹、どうした?」
「いや、こいつがみんな作業やってんのに先にメシ食ってるから注意してんだよ」
「お前明日休め」
悠樹は唖然とした。
「え?」
「お前疲れてるだろ? 休めよ」
「いや、俺が休んだら庭——
「俺がやる」
「いや、そしたらお前が——
翔吾は笑った。
「まあ無理そうならテキトーにサボるからいいよ。心配すんな」
「いやでも俺だけ——
「お前昔からそうだけど責任感強すぎっつうか真面目すぎんだよ。いいからちょっとサボれ。みんなお前がみんなより頑張ってくれてんの知ってるから。みんなもいいだろ?」
翔吾は真琴と杏奈に同意を求めた。二人は笑顔で同意を示した。実のところ二人が笑顔になったのは翔吾がその場の緊張をコントロールしてくれたことがもっとも大きな理由だった。翔吾は琢磨に目を向けた。
「琢磨もいいだろ?」
みなの視線が琢磨に注がれた。翔吾をちらと見て視線を落とした琢磨は同意の言葉を呟いた。
「ああ、いいよ」
「決まりだな。悠樹は休む。琢磨は明日俺と二人で屋根をのんびり直す。真琴と杏奈は買い出しと調理と掃除頼むな」
翔吾のまとめに異を唱える者はいなかった。
「ってことでこれで喧嘩する理由ねえだろ? メシにしようぜ。俺も腹減ってんだ」
食事中ははじめは会話が少なかったが、翔吾が冗談を言うたびに場の緊張は徐々にほぐれた。食事のあとで悠樹は琢磨に謝った。琢磨も悠樹に謝った。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
そう言って翔吾は食後に家を出て行った。みなその背中を少し申し訳なさそうに見送った。翔吾にはいつも気を遣わせてばかりだった。彼は言葉では決して他人を責めなかった。小学生のときに琢磨を殴った日も琢磨を蔑んだりけなしたりする言葉を一つも吐きはしなかった。
「翔吾怒ってんのかな…?」と琢磨が言った。
「いや」と悠樹が否定した。「たぶんもどかしいんだと思う」
悠樹は翔吾のことをその場の誰よりもよく理解していた。
「あいつは俺なんかよりよっぽど責任感が強いからな。昔からみんなに頼られてたし。でもあいつにだってどうにもできないことくらいある。今この状況がそうだ」
それはこの世界に来て以来彼らが経験したすべての逆境を指していた。
「翔吾くんどこ行っちゃったのかな」と杏奈が心配そうに呟いた。
「たぶん市場だと思う」
悠樹ははっきりと答えた。
「どうして?」
杏奈が不思議そうに尋ねた。杏奈の質問には「どうして市場に行くの?」という意味と「どうしてそれがわかるの?」という二つの意味が込められていた。
「あいつは意味もなく外をぶらついたりしない。いつもみんなのことを考えてる。市場で何が手に入るか、どうしたらみんなの暮らしが限られた資金の中で豊かになるか考えてるんだ。そのためのアイデアを仕入れに夜の市場に行ったんだと思う。夜の市場は売られてる品も変わるって前に聞いたしな」
翔吾のことをよく知る悠樹はそう淡々と答えた。杏奈は素直に感心した。真琴はそこまで気の回らない自分が恥ずかしくなった。それに気付いたわけではないが悠樹が言った。
「でもアイツはみんなに感謝してほしかったり、みんなに悪いと思ってほしくてそういうことをしてるわけじゃない。アイツがそうしたいからやってることなんだよ。まあつまりそういうヤツってことだ」
「すげえヤツだよな」と琢磨が言った。
「いつも助けられてばっかだよな」と真琴が自嘲気味に笑って言った。
「なんかさ…、すごい大変な状況だけど、あたしね、翔吾くんがいればどうにかなるような気がしてるの」
そう杏奈が言った。みな同じように感じていた。あまり翔吾に心配をかけないようにしよう、そんなことを各々が思った。
翔吾は悠樹の推測通り夜の市場に来ていた。彼は自嘲して呟いた。
「少し頭に血が上りすぎたな。俺もまだまだってことだ」
彼は市場を見渡した。
「しかしまあ」と彼は呟いた。「どこからどう調査したらいいものか…」
市場は広く、夜に営業している店舗とそうでない店舗があり、昼と違って露店はほとんど出ていなかった。中には明らかにいかがわしい店もあり、そうでない店も実際まともな商品やサービスを提供しているのかどうかは慣れない土地であることもあって外観からは判断しがたかった。
「まあ、いざとなりゃ…」
それ以上は言わなかった。彼は生活雑貨や食料を格安で売っていそうな店に手当たり次第片端から入って行くことにした。中には明らかにまともなルートで仕入れたとは思えない価格のものもあったし、明らかに許可を得て営業しているとは思えない店舗もあった。彼は昼間の市場よりも低価の商品を見つけると、それを少量ずつ購入した。
問題が起きたのは六つ目の店に入ったときのことだった。
「お客さん、困るよ。何か買ってもらわないと」
安い商品がないため翔吾が退店しようとすると、そう言って男が一人翔吾の行く手を阻んだのだ。男は客のように装っていたため翔吾は彼を店の関係者だと気付いていなかった。翔吾は少しだけ考えてから答えた。
「悪いな。金がないんだ」
相手はその答えに慣れているらしく、笑顔を崩さず応じた。
「だったら安くするよ」
翔吾もまた笑顔を崩さなかった。
「また金のあるときに来るよ」
レジに座っていた男も立ち上がって横から翔吾との距離を詰めた。
「困るよお客さん。うちは入ったら必ず一つは買ってもらうルールだから」
無論そのようなルールの書かれた紙は店のどこにも貼り出されていないし、翔吾は店に入った際にそのような説明を誰からも受けていない。この事態を穏便に済ませることを諦めた翔吾はさわやかに笑った。
「じゃあそこにある小麦をくれ」
それを聞いてレジにいた店員の顔は急に明るくなった。
「ありがとうご——
しかし翔吾の次の一言でその笑みは消え失せた。
「タダで」
店員はしばらく沈黙した。対照的に翔吾の笑顔は微塵も崩れなかった。それが店員をさらに苛立たせた。ドアの前に立ちふさがった男が怒気を帯びた声で言った。
「タダは困るよお客さん」
翔吾は少しも悪びれなかった。
「そこを何とか頼むよ」
ドアの前の男は急に声を低く小さくして言った。
「何でもいいからさっさと金出せよ」
翔吾は不敵に笑って目の前の男を見た。
「出さなかったらどうする」
男はやはりこれも言い慣れているらしくすらすらと文句を吐いた。
「出したいと思うようなことをしてやるだけだよ」
一方の翔吾もそれに対する言葉を言い慣れていた。
「ちょっとやってみろよ」
ドアの前の男は脅しが通じないことに苛立った。
「お前立場わかってんのか? 二対一で勝てるわけねえだろ」
しかし翔吾の涼しい笑みは微塵も崩れはしなかった。
「いいから早くやってみろよ」
我慢の限界に来たというよりは、身のほどをわきまえさせてやろうという感覚でドアの前の男が翔吾の顔面目がけて右の拳を振るった。翔吾はそれを左腕で受け止めると似たような軌道の右のフックを彼の顔面に素早く叩き込んだ。男はドアに背と頭を強くぶつけて床に尻餅をついた。彼の上体は横に傾いて棚に寄りかかり動かなくなった。レジの前の店員はそれを呆然と見ていた。彼の視界の中で殴られた男がぐらりとうなだれた。その拍子に鼻から鮮血がぽたりぽたりと床に落ちた。
仲間の加勢に入ろうと身構えていたレジの男はその光景を目撃し、翔吾と目が合うとまったく動けなくなった。翔吾は微塵も呼吸と笑顔を乱していなかった。
「先に殴ってきたのはこいつだ」
レジの男は声を発することもできなかった。
「そこの小麦をくれないか? それで今回のことはお互い手打ちにしようぜ」
レジの男は「手打ち」という言葉にありがたみを感じてそれに飛びついた。彼は小麦の袋を翔吾に震える手で渡した。にこりと笑って「ありがとう」と言うと翔吾はドアを開けて動かない男を平然とまたいで外に出た。
思いがけず小麦が無料で手に入ったため翔吾は満足した。
「まあ、こんなもんか」
彼はそろそろ友人たちが心配する頃だろうと思った。それにあまり夜の街で暴れて噂を立てられれば友人までもがいかがわしい連中に目をつけられかねない。彼は家路に就くことにした。
しかしそのときふと彼は違和感を覚えた。視界の左の方に何かを見たような気がしたのだ。そちらには歓楽街があった。夜だというのに先刻の闇市より明るく、多くの客が酒を楽しんでいた。それだけなら日常的な光景だ。だがその中に異質なものが紛れ込んでいるような気がした。目を細めてそちらを見ると答えはあっさりと出た。見れば見るほどそれは確信に変わった。あの男だ。フラマリオンで自分たちを処刑しようとし、悠樹に暴力を振るった兵士たちのリーダー。たしかゲレーロと呼ばれていた。見ればその周辺には彼の部下もいた。全員で六人。フラマリオンで襲って来た連中が面子の違いなく楽しそうに卓を囲んで酒を呑んでいた。翔吾は少し仕返しをしてやろうかと思った。仲間がやられっぱなしでは鼻持ちならない。だがここでやり返せば仲間がさらに因縁をつけられる。彼らはたしかルクレティウスからフラマリオンに派遣されていた騎士だった。だとしたら相応の武力と権力をもっている。敵に回すのは危険だ。何より悠樹はそんな安っぽい仕返しを望んではいないだろう。翔吾は彼らを目の脇に置いて再び家路に就こうとした。すると声がした。
「おい」
声はちょうど左の方からした。闇市から出てきた翔吾の周辺は薄暗く、辺りに人はいなかった。こちらに呼び掛ける声があるとしたら呼び掛けられたのが自分だということは明白だった。また、それは余りに忌々しい記憶を瞬時に強烈に想起させる声だったため、声の主もまた明白だった。翔吾が左を見ると声の主と目が合った。それは夜店の灯りに照らされて邪な笑みを湛える二つの目だった。ゲレーロだ。周辺の取り巻きの一部もこちらを見ていた。翔吾は無視すべきだろうかと一瞬迷った。しかし無視をすることは彼らの性格に照らして考えるとむしろさらなる因縁を生みかねないと翔吾は判断した。彼は不敵な笑みを浮かべてゲレーロに向かって真っすぐに歩いて行った。




