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こころのみちしるべ  作者: 110108
フラマリオン編
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004.『託された希望』2

 リヒトも倒れ、飛茶も吸収された。神楽を見ればリヒトを治療しながらも冷や汗を浮かべ歯噛みして怪物を目の端で(にら)んでいる。しかし樹李だけは違った。彼女は少年の横合いの中空に浮かんで飄々(ひょうひょう)としていた。

「ありゃ。飛茶までやられちゃったか」

 少年は樹李のこの余裕はどこから来るものかと思案した。樹李はこの小さな体と空を飛ぶ力を使っていつでも難を逃れることができるためだろうか。それとも何か神楽たちを逃がす術をもっているためか。彼女は腕を上げて伸びをしながら言った。

「リヒトも飛茶もプライド高いからね。下手に手助けしちゃうとあとから何言われるかわかんないし。だから離れて見てたけど、二人がやられちゃったんならしょうがないよね」

 伸びが終わると晴れやかな笑顔で彼女は言い足した。

「よし、じゃ、あたしが倒すか」

 質量にして何百倍もありそうな重量物を見上げて笑っている樹李の横顔を少年は呆然と見た。

「樹李…何言ってるの…?」

 すると樹李は少年を見てにっこり笑った。

「まあ心配しなくていいから。君は逃げて。ま、あたしを信じてここで待っててくれてもいいけどね」

 彼女は再び巨体を(にら)み上げて言った。

「おい木偶(でく)の棒。調子乗ってんじゃねえぞ!」

 よく通る真っ直ぐな声だった。少年には彼女の声は自信の表れにもただの酔狂の表れにも思えた。怪物は体ごと樹李に向き直った。ずしり、と恐怖を想起させる音がした。怪物の狂暴な視線は樹李の小さな体に注がれた。

「いたのか小娘。小さ過ぎて見えなかったぞ」

 少年は焦り、叫んだ。

「樹李! 逃げて!」

 怪物は大きな口をニヤリと(ゆが)めた。

「さっきのじじいより小せえ虫が——

 だが怪物のその声を遮るように樹李が声を発した。

「精霊秘術・真光開花(しんこうかいか)

 すると樹李の体は光に包まれた。間近でそれに照らされた少年は唖然とした。怪物も目を(すが)めた。次第にその光は膨張した。視認することさえかなわぬ強烈な光が樹李の内から発せられ、それが薄まるとそこには大人の人間と同じ大きさの樹李がいた。その一部始終を見ていた神楽はそこに信頼の笑みを向けていた。少年は大人の大きさになり真横に浮かぶ樹李を呆然と見上げていた。樹李は得意げに笑って怪物に問うた。

「誰が小さいって?」

 しかし怪物は再びニヤリと(わら)って口を開いた。

「その程度の大きさに——

 だが怪物が言い終わるより早く彼の視野の多くを樹李の姿が一瞬のうちに占めた。彼女は満面の笑みを浮かべていた。

「これでよく見えるだろ?」

 怪物は黒目を寄せて押し黙った。少年の(かたわ)らに浮かんでいた樹李が一瞬にして怪物の顔の数十センチ手前に移動したことに、そちらから彼女の声が聞こえるまで少年は気付くことさえできなかった。樹李の手元には突如として小さなステッキが煙とともに出現し、彼女はそれを(つか)んだ。彼女はそれを怪物の鼻先に向けた。ステッキの先から怪物までは五十センチに満たなかった。彼女の嬉々とした声が弾けた。

「精霊秘術・光矢一閃(こうしいっせん)。どーん!」

 すると怪物の鼻先で爆発が起き、怪物は(うめ)いて後方に仰け反り、そのまま仰向けに倒れた。爆発に巻き込まれたかに思われた樹李は少し離れた空中にすいと姿を現し、大の字に倒れた怪物を楽しそうに見下ろした。

「あはははは! 弱っちいなー」

 少年は樹李の強さに唖然とした。しかし次の瞬間、怪物が倒れたことで立ち昇った土煙の中からその太い腕が野太い怒声とともに樹李に向かって伸びた。

「このクソがっ!」

 その長く太い腕は彼女に届き、その広い手は彼女を(つか)んだかに見えたが、しかし握った拳の横に樹李はすっと上方から変わらぬ笑顔で姿を現した。彼女はやや哀れみを込めて言った。

「ダメダメ全然。のろいよおっさん」

 怪物は腕を引いて怒りを顔中に(たぎ)らせながら起き上がった。

「くっそが…」

 怪物の怒りをよそに樹李は涼し気に微笑んだ。怪物は鼻に(しわ)を寄せ、ギリギリと歯ぎしりをして言った。

「力で劣るザコがちょこまかと…」

 樹李は眉を上げた。

「力?」

 彼女はつかのま(あご)に手を当てて思案顔をし、何か思いついたようにふっと笑った。彼女はステッキを高く(かざ)してそれで空中に輪を描いた。

「精霊秘術・光輪搾絞(こうりんさくこう)

 するとステッキの先端が光を描出(びょうしゅつ)し、それは光のままいつまでも消えずに輪として残った。少年はそれを呆然と見上げていた。彼女は高く(かざ)したステッキを怪物目がけてすっと振り下ろした。すると光の輪は消えた。一瞬の静寂ののちに巨大な光の輪が怪物の周囲を取り囲むように出現した。怪物は周囲を見て呆然とした。樹李はステッキを空中に軽く放り、くるくると回るそれを顔の前で(つか)み取った。ステッキの向こうには彼女の自信に満ち(あふ)れた笑みがあった。その途端に怪物の上体を囲んだ輪は急激に狭まり、それを締め上げた。怪物は焦り、(うめ)いた。

「何だこれおい!」

 怪物は力んで輪を押し広げようとした。しかし輪は広がるどころかむしろ体にめり込んでいった。

「くっそが…!」

 怪物はなおも力み、彼の顔は赤らんだ。さらに額には汗と血管が浮かび上がった。しかしそれでも輪はちぎれなかった。怪物は腕や体を(よじ)ったが、輪はむしろ怪物の体に深く食い込んだ。怪物は最後の力を振り絞って天高く叫んだ。

「うがあああああああああ…!!!」

 すると一瞬の静寂ののち、輪は一気にちぎれ、光となって霧散した。少年はその光の残滓(ざんし)に照らされて愕然(がくぜん)とその光景を見上げていた。怪物が輪をちぎって腕を広げ顔を仰け反らせたその様は迫力に満ちていたが、しかし上空の樹李はそれを見てニヤリと笑い、ステッキの先端を怪物に向けた。

「精霊秘術・光矢一閃(こうしいっせん)!」

 するとステッキの先端に光が閃き、そこから光の筋が怪物の体の中心を通り抜けるように(ほとばし)った。怪物が自身の胸元に目をやると、そこに小さな穴が空いていた。少年が怪物の後方に目をやると、地は穿(うが)たれ、そこは焦げて赤熱し、そこからは黒煙が立ち昇っていた。樹李の放った光が怪物の体の芯を弾丸のように通り抜けたのだ。一瞬ののちに怪物は喉を膨らませ、そのまま派手に喀血(かっけつ)した。怪物は目を見開いたまま両膝を地につき、どさりと正面に倒れた。大きな土煙が舞って少年は目を(すが)めたがそれは上空の樹李には及ばず、彼女は笑顔のまま平然とそこに佇んでいた。一瞬ぴくりと腕を震わせた怪物だが、その後その巨体は微塵(みじん)も動かなくなった。怪物のものと思われる血が広がり、広大な血だまりをつくった。

「さて、念のためとどめ刺しとこうかな」

 彼女はステッキの先端を怪物に向け、微笑みながら冷徹と惜別の念を込めて言った。

「さよなら」

 彼女のステッキの先には巨大な光の球ができた。それを見た怪物は焦ってにわかに立ち上がった。あれだけの攻撃を受けてあれだけの血を流してなおも立ち上がる怪物の生命力に少年は慄然(りつぜん)としたが、対照的に樹李はそれを見下ろして冷静だった。怪物は(うめ)いた。

「ぐぬぬ…。くそおおおお!」

 樹李は自身の作った光に照らされた目で怪物を見下ろして冷ややかな声で言った。

「諦めな。あんたじゃあたしに勝てない」

 怪物は樹李を(にら)んだ。しかしその悔しそうな目は言外に敗北を認めていた。

「くそっ! くそっ! くそっ!」

 悔しがる怪物を見下す樹李の目は相変わらず冷厳だった。すると怪物は恐ろしい言葉を吐いた。

「だったらもう自爆してやる!」

 樹李と少年と神楽は同時に目を見開いた。怪物は低く(うめ)くような声で言った。

「獣神覇拳」

 怪物はやけくその狂気じみた笑みを樹李に向けて浮かべた。

破心融爆(はしんゆうばく)!」

 するとオーガの体が気味の悪い黄色い光を放った。樹李は焦った。

「しまった!」

 神楽も呆然としていた。オーガの体の光はにわかに強くなった。樹李は(うめ)いた。

「くっそ!」

 彼女はステッキの先につくった光の球を消し、慌ててステッキを振った。彼女は空中に何か幾何学的な模様を刻んだ。

「精霊秘術・光膜閉封(こうまくへいふう)!」

 するとそれに合わせて怪物を覆うように巨大な光の膜が創出されていった。彼女はその膜を完成させるべく素早くステッキを振った。それは膨大な魔力を要するようで、彼女は憔悴(しょうすい)のためか体中に汗を浮かべ、その顔は苦痛に(ゆが)んでいた。怪物はその膜の中で四肢を大きく広げ、白目を()き、体を急激に膨張させた。広場をかつてない震動と突風が襲った。樹李の光の膜は一瞬早く完成した。一瞬の静寂ののちに怪物の巨体は爆発した。それは夕闇に彩られたフラマリオンの空と街中を真っ白に染め上げた。膜にはところどころに(ひび)が入った。音は耳をつんざくほどだった。(ひび)からは爆風が漏れてそれは街の一部の建物を押しつぶした。しかし爆発の威力は光の膜のため大きく削がれ、爆風の勢いはやがて収まり、街は大きな損傷を受けることはなかった。だが樹李はこのとき大きく力を消耗していた。憔悴(しょうすい)し、それにより浮かぶことさえできなくなった彼女は地に降り脚をつけ、座り込んでしまった。彼女は(うつ)ろな目をし、口を開けて肩で息をしていた。いつの間にかその手からはステッキも消えてしまっていた。さらに彼女の体は元の小ささに戻ってしまった。膜は光となって霧散した。その中心からはもともと怪物のものだったと思われる焦げた肉片がぼとりと気味の悪い音を立てて地に落ちた。少年は樹李のもとへ駆け寄った。

「樹李!」

 少年は怪物の自爆から街を守りきった樹李をねぎらおうと彼女の顔を覗き込む目に笑みを浮かべた。しかし樹李の顔は笑っておらず、むしろ憔悴(しょうすい)した(うつ)ろな目でその肉片を見上げながら悔しそうに(つぶや)いた。

「クソ化け物め…」

 少年はそれを聞いて唖然とした。少年は彼女の(うつ)ろな視線を追った。そこには相変わらずあの怪物のものと思しき焦げた肉の塊があった。少年がそれをぼんやりと眺めていると突如としてその肉の塊がもぞもぞと(うごめ)いた。少年と神楽は慄然(りつぜん)とした。その肉片は急激に肥大し、怪物の元の通りの大きさにまで膨らんだ。やがてそれはまったくの無傷の怪物の形状を取り戻した。すっかり元に戻った怪物は自爆したことが嘘のように何のダメージも感じさせない哄笑(こうしょう)を上げた。

「あっはっはっはっは!」

 怪物は目を見開いて言った。

「自爆したら死ぬと誰が言った? 俺の最大の強みは怪力でもスピードでもない。再生能力だ。肉一片でも残ってればそこから復活できるのさ」

 その一連の光景を見ていた少年は愕然(がくぜん)とするほかなかった。致命的と思えるいかなるダメージを与えてもそれに耐え、果ては自爆までして元に戻るとは。隣の樹李は力を使い果たして横にどさりと倒れ込んでしまった。彼女はもうその小さな目を開けてすらいなかった。

「樹李!」

 少年は樹李を抱きかかえたが彼女は何の反応も示さなかった。

「さて」

 そう言うと怪物はにわかに体を神楽の方へと向けた。それを(にら)み上げていた神楽は歯噛みした。少年は慄然(りつぜん)とした。その怪物の行動の意図は明らかだった。

 少年は樹李を地に寝かせると慌ててリヒトと神楽のいるところへと駆け出した。神楽は少年のその行動に気付くと唖然とした。

 神楽の視線をよそに少年はリヒトの腰に手を伸ばした。その手は素早くリヒトが腰に帯びた剣を(さや)から抜き取った。剣は少年の体には大きく重く、しかし少年は柄を握る右手の上に左手を重ね、腕に力を込め背中をそらせてそれを体の前に静態させた。彼はリヒトと神楽の前に数歩歩み出て、小さな身体に不釣り合いなロングソードを怪物に向けて構えた。白刃が閃いた。少年は息を切らし、恐怖に目を見開きながらも怪物を(にら)み上げていた。怪物は驚きながらもその意図を汲み取った。

「この俺と戦おうというのか、人の子よ」

 いつしか意識を取り戻していたリヒトも顔を上げて少年の背中を見た。怪物も少年を見つめたまま攻撃の手を止めていた。神楽はぽつりと言った。

「やはり、よく似ている」

 少し神妙な顔をして彼女は後ろから少年に(たず)ねた。

「あなたはどうしても戦いたいと思いますか?」

 少年は目だけで神楽を振り向いた。彼は呆然と神楽の問いの意味を考えた。戦いたいわけではない。戦うのは恐ろしい。でもこうしないと守れない。だから剣を取るしかなかった。

「このままだとみんなやられちゃうんでしょ? そんなの黙って見ていられません!」

 神楽はそれを聞いて一度深く目を閉じた。

「そうですか」

 目を開いた神楽は言った。

「なら、私も戦いましょう。あなたに力を託すことによって」

 彼女はリヒトをそっと地に寝かせ、立ち上がり、少年の後ろまで歩を進めた。彼女は少年の背中に手を伸ばし、触れた。それを見た怪物は驚いた。

「神楽貴様…もしかして…」

 神楽は目だけ上げ、挑発的な笑みを浮かべた。

「何を驚くことがありますか? 私はあなたたちがしたことをするまでです」

 怪物はニヤリと(わら)った。

「へっ、上等だ。そう来なくっちゃな」

 すると怪物の脇腹の一部がもぞもぞと(うごめ)いた。さらにそこから小さな手と頭が飛び出した。それは飛茶のものだった。怪物に力を吸収されたためか憔悴(しょうすい)していた彼はしゃがれたか細い声で言った。

「なら(わし)も…その賭けに乗るとしましょう…」

 彼は弱々しく少年に向かって手を伸ばした。少年は呆然とそれを見た。

「じゃああたしも…一口乗ろうかな…」

 広場の端で倒れていた樹李も少年に向かって弱々しく手を伸ばした。樹李を振り返って見た少年は(うめ)くように言った。

「何を…!」

 飛茶の手からは白い光が発せられ、それは霧のように漂い少年の方へと伸びた。樹李の手からも同様に白い光が霧のように発せられ、それは少年へと伸びた。一方、神楽の体も白い光に覆われた。彼女の体の白い光は少年を包んだ。飛茶から伸びた光も少年を包み、樹李から伸びた光も同様に少年を包んだ。三つの光は重なりまばゆさを増した。やがて飛茶から伸びた光は途切れ、彼は力なくうなだれた。飛茶の体は再び怪物の体の中に飲み込まれて見えなくなった。樹李から伸びた光も途切れ、樹李は伸ばした手を地に落とし、目を閉じた。もはや動かなくなった彼女の体からは急激に生気が失われた。

 そのとき、少年は自身の体の奥に何かの鳴動を感じた。どくん。さらに体の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。それは少年の体を熱く火照らした。体の奥から溢れ出る熱はエネルギーとなって少年の体を包み、支えた。事実、少年は剣の重みをもうほとんど感じていなかった。自身の体があまりにも熱いのをおかしいと感じた少年は視線を少し落として手を見て腕を見た。彼は自分でも気付かなかったが、そのとき剣を片手で力を込めずとも握っていられた。

 さらに少年は自身の肌の色に別の違和感を覚えた。やや色白の少年だが、恐怖で血の気が引いているにしても肌が白過ぎる。さらに視線を落としたとき少年はまぶしいと感じるほど白いものを見た。それは光だった。自身の胸のあたりが白く光っている。はじめは胸の前に何かがあるものと思ったが、よく見ると光は服の内側から発せられていた。だが服と胸の間に異物感は一切ない。そこまで考えて少年は一つの仮説に行き当たった。体の奥から(あふ)れ出る熱とこの光の正体は同一ではないか。

「それはあなたの力です」

 澄んだ声で背後に立つ神楽が言った。少年は再び目の端で神楽を振り向いた。

「その力に波長を合わせて、それを解き放ってください」

 神楽の言葉の意味がにわかには理解できずに戸惑う少年に、低く重い怪物の声が降り注いだ。

「楽に死ぬ道もあったものを。あくまでも抗うと言うか。哀しいな少年よ…」

 怪物は先刻と同じ恐るべき破壊の技の名を口にした。

「獣神覇拳・光芒烈壊(こうぼうれつかい)

 怪物はその大きな口を開き、そこに光を溜めた。

「名前を叫べ少年…。お前は『剣』に選ばれた…」

 背後で這いつくばるリヒトが痛みに(うめ)きながらそう(つぶや)いた。少年は戸惑った。

「何…? 名前って…」

 (さと)すように神楽が言い聞かせた。

「あなたの中には剣があります。それはあなたの力です。人が何かを為したいと願うとき、剣はあなたに力を与えます」

 その声音にやや落ち着きを取り戻した少年は先ほどのリヒトの所作を思い出した。彼はリヒトがしていたように胸に手を当てた。まるで自身がそうすることが自然であるかのように。すると胸は一層強く白い光を放った。さらに胸の内の光が少年の眼前の虚空を白く照らし、何かの形を投影した。神楽の言葉は続いた。

「あなたはその剣の名前をもうすでに知っています。戸惑わないで。ただ信じて。それを口にすれば、その力はあなたとあなたの大切な人を守ります」

 少年はそのときたしかに誰かから何かを聞いたような気がした。それは声ではなかった。言葉でもなかった。言うなれば記憶。もう少し抽象化すれば情報。少年は聞いたのでも見たのでもなく、ただそれを思い出すように知覚した。少年は恐る恐るそれを口にしようとした。

「さあ、名前を呼んで」

 だがそのときすでに怪物の口腔(こうくう)には少年を焼くのにじゅうぶんな大きさの光球が溜まっていた。それを見上げた少年は慄然(りつぜん)とした。すでに遅かった。少年による鮮烈な力の発動に猶予(ゆうよ)を与える怪物ではなかった。怪物の目が(よこしま)な笑みにニヤリと(ゆが)み、怪物はその光の球を放った。怪物の口を離れたそれは真っ直ぐに(ほとばし)り少年の胴を一瞬にして穿(うが)った。彼は目を見開き、口から血を吐き、仰向けに倒れた。その様をつかのま呆然と見たリヒトは、我に返ると痛みに顔を(しか)めながら(つぶや)いた。

「神楽様…お逃げください…」

 しかしその声はあまりにも弱く、神楽の耳には届かなかった。代わりに怪物の耳障りな挑発の声が神楽の耳朶(じだ)を打った。

「せっかく与えた力が台無しだな」

 しかし怪物を(にら)み返した神楽は冷ややかに笑っていた。

「いいえ、これで終わりではありません」

 怪物は(いぶか)った。

「何だと…?」

「あの少年はきっと再びこの世界に帰って来ます」

 怪物は神楽の言葉の意味を理解すると笑った。

「だといいな。いずれにせよ貴様にはここで退場してもらう」

「あなたたちの企みは成就しない。報われることもない」

 怪物は何も言い返さなかった。会話はそれまでだった。

「獣神覇拳・光芒烈壊(こうぼうれつかい)

 光が大きく開かれた怪物の口に収斂(しゅうれん)し、光球がそこに生まれ、こぼれ出た。リヒトは焦り、目を見開いた。

「神楽様…」

 だが(うめ)き声を漏らすのが精一杯だった。光球は降り注ぎ、神楽の細い体はそれに飲まれて瞬時に蒸散した。リヒトの目は呆然とそれを眺めていた。光は神楽の体と石畳を焼くと何事もなかったかのように止んだ。あとには赤熱し陥没した地表と、黒煙だけが残った。

 石畳のほとんどが圧壊しもはや廃墟と化しその中でまともに動ける有機体がオーガの巨体一つとなった広場には唐突に静寂が訪れた。残火のごとく街の建物を点々と照らしていた夕日が沈んでフラマリオンに夜の(とばり)が下りた。

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