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こころのみちしるべ  作者: 110108
アーケルシア編
53/102

051.『花』1

 総督ゲレーロの降伏後二時間以内に生存するルクレティウス駐留軍の兵士は全員アーケルシア軍の手により捕縛された。その三十分後には騎士王リヒトによりアーケルシアによるフラマリオン奪還と囚人・奴隷の解放が宣言された。農家による兵糧(ひょうろう)の納付は続けられることとなったが、アーケルシア本国からの金銭の補償が約束された。娼館と闇市の存続はフラマリオンの民意に(ゆだ)ねられた。ほどなくして元フラマリオン自警団のメンバーによりその再結成が宣言された。ここにフラマリオン奪還は果たされた。駐留軍死者二十名、アーケルシア軍、フラマリオン市民に死者は一人も出なかった。自軍と民間人に死者が出なかったのはアーケルシア、ルクレティウス両国を通じて空前絶後の戦果となった。

 約五百のルクレティウス駐留軍は元はアカデミーだった兵舎と刑務所に捕囚された。彼らの処遇についてはアーケルシア本国の司法の判断に(ゆだ)ねられることとなった。

 ルクレティウスによる報復を警戒して本国への密使を除くアーケルシア軍はそのままフラマリオンに駐留することとなった。アーケルシア軍の主要人員は駐留軍の主要軍事施設を宿泊に使用することとなった。施設に収まり切らない大多数のアーケルシア軍はあらかじめ用意しておいたテントと寝袋を使って壁外の農地に野営することとなった。祝杯ムードではあったが、戦時のため夜になっても酒盛りは控えられた。代わりに水やスープを片手に火を囲んでささやかな宴が各所で(もよお)された。アーケルシア軍のルクレティウスに対する勝利は約五年振りのことだった。兵士たちは酒はなくとも自分たちの偉業に酔った。

 リヒトは地に腰掛け、夜空を見上げた。どこから眺めても空は同じに見えるはずだが、やはりフラマリオンから眺める空はどこか違うような気がした。彼は(つぶや)いた。

「帰って来た…」

 言葉とともに白い息がこぼれ、それはフラマリオンの夜空に(まぎ)れて消えた。

「帰って来たぞ…。マリア…」

 隣にいたアイシャはリヒトの横顔を見た。人目をはばからず感傷に浸る騎士王に何か軽口でも叩いてやろうかと思ったが、やめた。

 焚き火が二人と多くの兵士たちの影を暖かく揺らした。静かな宴の夜はこうして()けた。




 その翌日、ゲレーロは刑務所の運動場で体育座りをして空を眺めていた。穏やかな日和(ひより)だった。(こずえ)の鳥はささやき合い、雲は青空の中でほとんど動こうともしなかった。つい二十四時間前、ゲレーロの四年に渡る幸福が嘘のように消えた。フラマリオン占領、さらにフラマリオン陥落。これだけの大事件を当事者として体験しておきながら、しかし空を見上げれば不思議とそれさえ小さく思えた。

「おい」

 そんな彼の感慨を頓狂(とんきょう)な声が(さえぎ)った。声のした方を見ればリヒトが近づいて来ていた。彼はゲレーロに皮肉を浴びせた。

「元気か相棒」

 ゲレーロは目を落とした。

「何ですか」

 リヒトは楽しそうに答えた。

「何ですかはねえだろ。もっと愛想よくしろよ」

 リヒトはゲレーロの肩を蹴った。ゲレーロは目を(すが)めるばかりで何も言い返せずにいた。

「…」

 リヒトはしゃがんでゲレーロの目を覗いた。ゲレーロは顔を背けた。

「お前に聞きたいことがある」

 ゲレーロは相づちも打たなかった。

「ルクレティウスにお前より強いヤツは何人いる?」

 なかなか答えないゲレーロをリヒトは急かした。

「部下の命を()うていたな」

 ゲレーロは目を閉じて観念した。彼はリヒトを(にら)んで答えた。

「多分六人だ。あんたも聞いたことくらいあるだろ、ルクレティウス騎士団六大騎士。ルクレティウス史上最強の戦闘集団。中でも騎士団長レオはとんでもなく強ぇ」

 リヒトは満足そうに笑った。

「よし、次の質問だ。その六人の中で一番弱いヤツとお前の強さを比較するとどれくらいの差がある?」

 ゲレーロは面倒臭そうに答えた。

「正直誰が一番弱いかわからないくらい全員強いよ。まあとにかく天と地ほども違うな。模擬戦でも勝ったことがない。勝てそうだと思ったこともない。模擬戦で本気で相手にしてもらったこともない」

 リヒトは一度目を閉じて(うなず)き立ち上がった。彼は笑顔を浮かべていたがその表情は先刻よりどこかやや神妙だった。

「そうか。だいたいわかった」

 ゲレーロは去って行くリヒトの背中を不思議そうに見送った。




 翌日にはフラマリオン奪還の知らせはアーケルシアに届いた。貴族も商会も騎士も小躍りして喜んだ。フラマリオン奪還作戦反対派だけはまったく逆の反応をしたが、彼らもさすがに祝杯ムードに水を差すような言動は(つつし)んだ。

 ルクレティウスによる報復を警戒して約五千の騎兵はそのままフラマリオンに留まることとなった。残り約五千の騎兵はアーケルシア本国へと帰還した。リヒトたち精鋭班及びケーニッヒ、タルカス、ユスティファも一旦アーケルシア本国へと帰った。




 男は貧民街の通りを歩いていた。普段は身軽な黒衣に身を包み俊敏(しゅんびん)に移動する彼はしかしその日は対照的に白い礼服に身を包み平素よりもゆっくりと歩を運んだ。彼の歩く先には一軒の小さな屋台の花屋があった。彼はそこへ立ち寄った。

「いらっしゃい」

 その娘は見慣れない客に戸惑うことなく彼に笑顔を向けた。男は娘に(たず)ねた。

「いつもここで花を売ってるの?」

 娘は意外な質問に戸惑いながらも答えた。

「いえ…。いろんなところで売ってます。以前ここで売ってた方がいらして、その方に憧れてるんです。私も彼女みたいになりたいなって」

 男は目を細めた。

「なれるよきっと」

 娘は戸惑いながら微笑を浮かべた。

「ありがとう…ございます…」

「花束がほしいんだ」

 娘は急に商売の話になってやや慌てた。

「あ、はい。どのようなものをお探しですか?」

「お任せするよ。君の感性で作った花束がほしい」

「お任せで」という注文をする客は少なくないのだろう、彼女はそれには戸惑うことなく「はい!」とはきはきと返事をして花束を作り始めた。彼女はとても生き生きとして幸せそうだった。男はそれをぼんやりと(いつく)しむように眺めた。やがて花束ができ上がると娘はそれを男に見せた。

「いかがですか?」

 まだこの仕事に慣れないせいか、先ほど男が不思議なことを言ったせいか、娘は渡した花束に対して男がどのような反応を示すか少し不安になっているように見えた。しかし男は優しく笑ってそれを受け取った。

「ありがとう。綺麗だね。彼女もきっと喜ぶ」

 お代を払った彼は元来た角を曲がり、その先の坂を登って行った。良く晴れて日差しが強かった。男は花束を抱えるのと反対の手で帽子のつばをくいと下げた。いつもは飄然(ひょうぜん)としたその背中は少しだけいつもより神妙だった。彼の目的地はその坂の(はる)か先の丘の上にあった。それを視界にとらえた彼はもう笑ってはいなかった。




 やがて男は貧民街の外れにあるその小高い丘の上に来た。そこは貧民街にあってしかし急峻(きゅうしゅん)であるため住宅地としての利用が難しい場所だった。また切り(ひら)くにはあまりにも高く広い土地だった。やがていつしかそこは貧民の共同墓地として利用されるに至った。丘の(いただき)には大きな石碑があり、その周囲には大小の石碑や十字架、単に石を積み上げただけのものが並び、水、花、人形などが所狭しと乱雑に置かれ、通路の確保にも難儀(なんぎ)するあり様だった。いずれこの墓地が埋まったらもう一つ先の丘を(ひら)いて墓地にするといわれている。すでに一つ先の丘への遊歩道の一部が墓地利用されているとも聞く。シェイドは遠くに見えるその丘に目をはせた。そこはシェイドのいる丘より低いため、よく見渡すことができた。木ばかりで特に何の個性もないそれがいずれこうして墓標で埋まる日が来ることを想像してシェイドはそれを不思議に感じ、目を細めた。墓地には他に誰もいなかった。彼は細い脇道へと体を運んで行った。やがて彼は周りに比べて中くらいの四角い石の碑の前に辿り着いた。それは流星団のためにアイシャが建てたものだった。そこにはアイシャや流星団のメンバーがよく訪れていたため、多くの色とりどりの花が添えられていた。シェイドは手にした花束をそこに重ねると手向けの言葉を述べた。

「オリビア、やっと会えたな」

 しかしその言葉は誰に届くこともなく彼の胸中にあてどなく残響して消えた。

 ここに彼女はいない。もうどこにもいない。ここには彼女の遺骨が埋まっているだけだ。

 ここに来る前から分かってはいたことだが、こうして返事のない言葉を口にし物言わぬ墓碑を眺めたときに彼はそれをあらためて強く実感した。

 横合いから風が強く吹いた。シェイドは帽子を押さえた。よく晴れていたため風が強くても寒さはほとんど感じなかった。

 シェイドは何かを再び口ずさもうとした。しかし言葉は出てこなかった。

 彼はそこにしばらく立ち尽くした。しかしいくらそうしても彼の中には何の感慨も湧かなかった。ただ丘の上を吹く風が彼の心に開いた穴を吹き抜けていくだけだった。

 何がわかるわけでもない。何か心にけじめがつくわけでもない。まして花を手向ければ心の何かが(なぐさ)められるわけでもない。

 彼はもう帰ろうと思った。彼は去り際に彼女に掛ける言葉を探した。

 さようなら、と言うのも(はばか)られた。また来る、とも言えなかった。彼は辛うじて彼女を救えなかった自分の弱さを責める言葉だけを口にできた。

「オリビア、ごめん」

 彼はそれだけ言うと何かを諦めたかのような顔で(きびす)を返し歩き出した。彼は普段は履かない革靴の足でゆっくりと坂道を下って行った。砂利をすりつぶす小気味よい音が彼が歩を運ぶ度に寂寥(せきりょう)とした墓地に響いた。




 (やしき)に帰って来たリヒトはリビングで読書をするマリアを見つけた。マリアがリヒトの姿を見つけるとその表情は晴れた。リヒトはただいまとは言わなかった。彼はマリアに掛けるべき言葉を探したが、どれも適切ではないような気がしてやめた。代わりに彼女に近づいてただ抱きしめた。マリアもそれを待っていたかのようにリヒトの胸に体を預けた。マリアもおかえりとは言わなかった。

 しばらくそうして抱き合ったあと、リヒトは荷物を下ろし、リビングのソファに腰を下ろした。彼は顔に出すまいとしたが、その表情にはどうしても疲れの色が(にじ)んだ。

 マリアは彼のためにお茶を()れることにした。リヒトはリビングの対面の壁を見、天井を見た。それは衰退した貴族から安く譲り受けた(やしき)だった。古い作りではあるが、広く味のある建物だった。ところどころ修繕が必要ではあったが当面の生活の心配もあったのでできるだけ業者に頼らず二人で直した。そんな一つ一つの記憶がなぜか懐かしさとともに(よみがえ)った。

 はじめリヒトはその物件の購入に乗り気ではなかった。マリアとアーケルシアに移って住まい探しを始めた当初、彼は狭いながらも中央に近く仕事を探すのに便利な物件を希望したが、その物件は中央からはやや遠かった。それに傭兵という仕事は敵をつくりやすいにもかかわらずそこは警備という面でもやや脆弱(ぜいじゃく)な家であった。修繕も必要だし買い物にもやや不便だった。しかし彼女はこの(やしき)を気に入った。この(やしき)でなければ野宿すると言い出しかねないほどの入れ込み具合だった。彼にはそれが不思議でならなかった。彼女が気に入った点は四つあった。庭があったこと。キッチンとリビングが広かったこと。中央から少し離れた静かな郊外であること。矛盾するようだが修繕が必要なこと。庭についてはその意図は先日彼女が花を植えていたことでより明確になった。キッチンとリビングについては料理が好きな彼女らしいもっともな意見だった。中央から離れていることに関しては治安への考慮と喧騒への忌避(きひ)の表れだろう。好みは別れるがこれも妥当な意見だ。最後の修繕が必要なこと、についてはリヒトを困惑させた。そんなお金と手間のかかることをどうして、とリヒトは思いそうマリアに問うた。しかしマリアは業者に頼まなければお金はかからないと言い出してリヒトをさらに閉口させた。面倒でも自分たち二人で直したい、それこそが目的だと言うのだ。結局根負けしたリヒトはそれを承諾した。

 住み始めた彼らはまず風呂(おけ)を直した。さらに雨漏りを防ぐために屋根を直した。古い床を直した。最後に壁や天井の色をすべて補修した。それでやっと清潔で住みやすい家になった。早く傭兵として活躍してオーガへの復讐を果たしたかったリヒトは修繕に明け暮れる日々を内心(うと)ましく思っていた。彼の焦りは日々募った。彼はそれをマリアに素直にぶつけたことがあった。焦りが募った結果彼の口調は平素よりもかなり荒々しくなった。しかしマリアは怒りも悲しみもしなかった。ただただリヒトの言葉をすべて受け止めた上で、優しく笑ってこう言った。

「大丈夫よリヒト。焦らないで。今は壁に色を塗ることだけ考えればいいの」

 論理性を欠いた言葉であるにもかかわらず、それを聞いたリヒトはなぜか不思議とある種の説得力を感じ、納得してしまった。彼は素直にその言葉に従うことにした。それが今の自分に一番必要なことのように思えた。すると彼の焦燥は日に日に薄れていった。やがて壁の色をすべて塗り終える頃には彼はその作業が終わってしまうことを惜しむようにさえなっていた。「もっとこうして壁の色を塗り直していたい」と思った。「楽しかったね」と顔のあちらこちらに塗料を付けたマリアは笑って言った。「うん」とマリアよりもさらにたくさんの塗料を顔に付けたリヒトも笑って答えた。

 リヒトは疲れた体をソファに預けてそんな壁と天井をぼんやりと眺めた。彼は壁を塗っているだけの日々を思い出してこう思った。この家に来て良かったと。お茶を出した彼女は彼の目の前に座り、彼を嬉しそうに見た。リヒトは笑った。

「どうしたの?」

「見せたいものがあるの」

 リヒトは飲みかけたお茶をテーブルに置いた。

「何?」

 マリアは答えなかった。彼女はただいたずらっぽく笑うだけだった。彼女はたまにそうしてリヒトをじらす癖があった。リヒトは彼女の「(たくら)み」に乗ることにした。彼もまた嬉しそうに笑った。彼はお茶も残したまま席を立ち、リビングをうろうろして何かないか大げさに探した。そうすればマリアがさらに楽しんでくれることを知っていたからだ。しかしそこには何もなさそうだった。彼は俄然(がぜん)意気込んで家の奥に向かって行った。マリアも嬉しそうにその背中に着いて行った。客間にも変化はなさそうだった。浴室にも何もなかった。裏庭も見たが同様だった。リヒトはそこで一度マリアを見た。彼女は弾けそうな笑顔を(たた)えていた。それで答えは二階にあると悟った。彼は階段を上った。二階に着いた彼がまず入ったのは荷物置きにしている空き部屋だった。何かを隠すには良い部屋だった。しかしそこにも何もなかった。

 彼は次にマリアの部屋に入った。ドアを開けて中を見た彼は唖然とした。彼は久しぶりに彼女の部屋を見た。そこは以前に見たときと実のところ大差なかった。しかしなぜだか初めて見る部屋であるように思えたのだ。「どうしたの?」とマリアがリヒトの顔を覗き込んできた。そこは彼女が「見せたい」部屋ではなかった。しかしリヒトにとっては大きな驚きと発見をその景色ははらんでいた。ずっと一緒に住んでいたのに彼女のことをよく知らない。わかっていない。そんな気持ちにリヒトは(さいな)まれた。

「何でもない」

 リヒトはぽつりと言った。マリアは不思議そうにその横顔を見つめていた。彼はマリアの部屋を出て残された最後の部屋に行った。そこはリヒトの寝室だった。

 二人は別々の寝室をもっていた。住み始めた当初、マリアは同じ寝室にしたいと言ったが、リヒトがそれを望まなかった。マリアを悲しませないようリヒトは理由を説明することを忘れなかった。リヒトはフラマリオンでオーガに主君を殺され、街を破壊されて以来、それを夢によく見た。一時期はほとんど毎日のように見た。その度うなされて目が覚めた。目が覚めるときに大声を出すこともあった。リヒトはそんな自分の(ごう)をマリアに背負わせたくなかった。彼女に迷惑をかけたくなかった。彼が見る地獄を彼女にだけは見せたくなかった。フラマリオンを、彼女の大切な街を、大切な住む家を、大切な主君と仲間を救えなかったせめてもの(つぐな)いに、アーケルシアに引き移ってからの彼女の安らかな生活と睡眠だけは何としても守りたかった。住む家を選ぶときに反対しなかったのは、少しでも彼女の安らぎを確保できる環境をと願ってのことだった。だから彼は彼女と夜をともにすることを望まなかった。彼女はいつでもリヒトと寝られるように元の家主が使っていたキングサイズのベッドをそのまま残した。「そんな大きなベッドあっても邪魔だろ?」とリヒトは言ったが「これがいいの」とマリアは譲らなかった。

 リヒトの部屋のドアを開ける前にリヒトはマリアの顔を一度だけ見た。彼女は子どものように無邪気に笑っていた。答えはそこで間違いなさそうだった。リヒトはドアを押し開けた。するとそこには花が飾ってあった。それも一つや二つではない。リヒトは数えた。六つ、七つ、八つ…。全部で八つの紫の花が鉢や花瓶に入って飾ってあった。

「これは…」

 マリアは少し神妙な顔をした。

「ラベンダーよ。庭で育てたの」

 リヒトはまだマリアの意図を理解できずにいた。

「こんなにたくさん…」

 マリアは照れくさそうに微笑を浮かべた。

「あなたの部屋を飾りたかったの」

 リヒトは素直な疑問を投げた。

「どうして?」

 マリアは少し言いづらそうにした。

「心が…安らぐでしょ?」

 リヒトは花が好きなマリアは自身の部屋をこそ飾るべきだと思った。

「そうだけど…君は花が好きだろ?」

 マリアは困ったようにリヒトを上目遣いに見た。

「嫌だった…?」

 リヒトは慌てて否定した。

「とんでもない。びっくりしたし、嬉しいよ。でも…」

 マリアは心を決めて口を開いた。彼女の顔にはもう笑みはなかった。

「あなたに安らかでいてほしいの。ラベンダーの香りはよく眠れるっていうから…」

 リヒトは言葉を失った。彼女は目に涙をためた。

「ずっと眠れなかったから、せめて…」

 リヒトは自分が悪夢にうなされていることをマリアがそこまで心配していることを初めて知った。これだけ一緒にいるのに彼女の気持ちを何も知らなかったことに気付かされた。彼がマリアを抱きしめるのと彼女が涙をこぼすのは同時だった。

「ごめん」

 リヒトは謝った。マリアは泣きながら言った。

「どうして謝るの…」

 リヒトは言い直した。

「ありがとう」

 マリアはリヒトの胸の中で目を固く閉じてさらに大粒の涙をこぼした。

 せっかくマリアが花で(いろど)ってくれた部屋だが、その晩リヒトは自室ではなくマリアの部屋の大きなベッドでマリアとともに眠った。二人はフラマリオンでの災禍(さいか)があって以後、もっとも深く長く眠ることができた。

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