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こころのみちしるべ  作者: 110108
フラマリオン編
5/102

003.『託された希望』1

 神楽はにわかに険しい顔を樹李に振り向けた。

「樹李、あなたはその子を連れて屋敷へ!」

 樹李は不安そうに神楽を見た。

「神楽様は…?」

「私にはやることがあります」

 樹李は眉根を寄せて懇願(こんがん)した。

「だったらあたしも!」

「その子を守れるのはあなただけです」

 樹李は今にも泣き出しそうな顔をしていた。少年は唖然としながら二人の会話を聞いていた。

「さあ行って!」

 神楽がそう強く促すと樹李は意を決したように目を固く閉じて少年の手を引いた。

「うわあっ!」

 少年は体勢を崩し(うめ)いた。その小ささからは想像もつかないほどの力強さが少年の手を引く樹李にはあった。少年は一度だけ不安げに神楽を振り向きながら手を引かれるままに坂を駆け上がった。




「エレノア! はやく逃げろ!」

 そう言ってリビエラは彼女の腕を引っ張った。我に返ったエレノアはリビエラに手を引かれるままに往来を走って逃げた。レティシアは二人の様子に気を配りながら先を走っていた。

「何でオーガが!」

 それはレティシアがエレノアに向けた問いだった。

「わかんないよ!」

 レティシアは問いを重ねた。

「あたしたちどうなっちゃうの!」

 エレノアからは答えがなかった。代わりに怯えながらリビエラが(つぶや)いた。

「全員殺される…。一人残らず…」

 それ以上は会話にならず、三人はとにかく数十メートル後ろを闊歩(かっぽ)する巨躯(きょく)から逃げるべく必死に広場から離れた。




 広場に現れた巨躯(きょく)はのそりのそりと歩を進めながらきょろきょろとあたりを見渡した。彼が歩を進めるたびに震動が街を揺らし、地響きが逃げ遅れた人々の耳朶(じだ)を打ち恐怖で責め(さいな)んだ。大男の視界には夕刻のフラマリオンの街と逃げ惑う小さな人々の姿が映っていた。

「私ならここよ」

 高く澄んだ若い女の声がした。声の主と思しき若く美しい女性は広場の北の入口から姿を現した。白く美しいドレスを(まと)う神楽はその禍々(まがまが)しい巨躯(きょく)とは真反対の華奢(きゃしゃ)な体で、しかし怖れることなくそれを見上げていた。その姿を視認すると巨躯(きょく)の顔はにんまりと(わら)った。

「久しぶりだな、神楽」

 驚くべきことにその大男は流暢(りゅうちょう)に言葉を発することができた。

「元気そうね」

 先ほどまで少年に街を案内していた時の神楽とはまるで別人であるかのような冷厳な目と声で彼女は言った。二人にしかわからないことだが、それは皮肉だった。怪物は口の端を吊り上げた。

「おかげさまでな。お前こそ元気そうじゃねえか」

 これも二人にしかわからないことだが、それも皮肉だった。彼女はその皮肉に取り合わなかった。

「あたしに会いに来たんでしょ?」

「ああ、そうとも」

「何の用?」

「わかってるだろ?」

「あくまでも考え方を変えないのね」

「ああそうさ。俺たちは俺たちのやり方を貫く」

 神楽は少し口角を上げた。

「せっかく反省の時間をあげたのに性懲(しょうこ)りもないのね」

「お前こそ少しは考え方を改めたかと思ったが残念だ」

「ええ、私もよ」

 怪物は鼻で笑った。

「これ以上の問答は無用だな」

 神楽は答えなかった。しばしの沈黙が流れた。怪物の鋭い視線は神楽の小さな体に据えられていた。広場に佇む神楽の目には冷厳とした覚悟だけが(たた)えられており、それはまるでこの状況を想定していたかのようでさえあった。怪物は言葉を継いだ。

「よろしい。そんじゃ死ね」

 その一言を潮に怪物は棍棒を振り上げた。それは巨体と棍棒の大きさにはおよそ似つかわしくない滑らかで素早い挙措だった。怪物はそれを素早く正確に神楽へ向けて振り下ろそうとした。そこへ鋭い声がし、夕闇の広場に反響した。

「やめろ!」

 若い男の子の声だった。神楽は声のした方を振り向き、声の主の姿を視認して唖然とした。怪物でさえ動きを止めた。声がした方には神楽以外の誰もが逃げ出し、身を隠した広場に敢然と走り込んで来る小さな影があった。あの少年であった。そこへ樹李が少し遅れてやって来て言った。

「ごめんなさい神楽様、この子が言うこと聞いてくれなくて…」

 少年は神楽に駆け寄り彼女を守るようにその華奢(きゃしゃ)な体の前に立つと怪物を毅然(きぜん)と見上げて再び叫んだ。

「やめろ怪物! この人に手を出すな!」

 神楽は少年のとった行動が理解できずまだ唖然としていた。怪物は少年をじっくりと見下ろして(たず)ねた。

「小僧、何をしに来た」

 怪物の低い声が反響して再び広場に緊張感が漂った。少年は恐怖を悟られまいと気をしっかりもって言い放った。

「この人を守りに来た! この人に乱暴するのはやめろ!」

 怪物は少年の言葉について、さらにはその存在そのものについて思考を巡らせた。我に返った神楽が少年に向けて叫んだ。

「逃げてください!」

 しかし少年はそこを動こうとしなかった。怪物は眼下のその小さな存在に再び(たず)ねた。

「小僧、もし俺がこの女を傷つけるのをやめなかったらお前はどうする」

 少年は毅然(きぜん)と答えた。

「俺がそんなこと絶対にさせない」

 怪物は目を細め再び少年をじっくりと見た。

「見上げた根性だ。何でお前みたいなやつがここにいるのか不思議だよ」

 怪物はにんまりと(わら)った。

「まあとにかく、お前は殺しても良さそうだ」

 怪物は少年を見据える身体に力を込め、殺意を(みなぎ)らせた。先ほど気をしっかりもとうと決意したばかりの少年だが、その顔はさすがに一気に青ざめた。それを見て神楽も焦った。

「逃げて!」

 樹李も同様に叫んだ。

「君! 逃げて!」

 そう呼びかけられても少年は体がこわばって動けなかった。まさに蛇に(にら)まれた蛙である。少年は自身の死を悟った。仮に今からどれだけ素早くどんな風に逃げても怪物が手に握る巨大な棍棒の一振りの範疇(はんちゅう)から逃れられない。彼は呆然とし、顔中に恐怖を(にじ)ませていた。怪物の手がゆらりと動いた。棍棒は恐ろしいほどに高く振り上げられた。するとその瞬間、獣が獲物をとるときに気配を断つように、怪物からもまたぴたりと殺気が失せた。そして次の瞬間——

 少年の視界の中で怪物の棍棒が一気に眼前に迫った。少年の小さな身体はそれがつくる影に一瞬で覆われた。少年はその中心で目を固く閉じ体をこわばらせることしかできなかった。怪物の動きは直線的で無駄がなく、その巨体に似つかわしくない素早さをもっていた。誰の目にも少年はそのまま叩き潰されるかに思われた。強大な破砕音とともに石畳が割れ砕け、粉塵が撒き上がり、風圧が押し広げられて広場を駆け抜けた。

 その寸前、少年の体が軽くなった。同時に金属的で重厚な音が少年の耳朶(じだ)を叩いた。立ち(すく)んで呆然としていた少年もその段になってようやく(うめ)き声を上げた。風とともに砂埃が舞い、布が風にはためく音がした。それが止むと少年は体をこわばらせたまま恐る恐る目を開けた。少年の身体は怪物とは違う何かがつくる影に覆われていた。逆光になって判然としないが、はじめに目に飛び込んできたのは白い布地の輝きだった。次に少年が理解したのはそれが人の(まと)う衣服だということだった。少年は目を見開いた。それは制服だった。少年はそれを(まと)う者の顔を見上げた。リヒトだった。

 少年は眼前で繰り広げられた信じられない光景を辿った。巨大な怪物が自分の体の何倍もの質量をもつ棍棒で自分を叩き潰そうとしていた。自分はもう終わりだと思ったが、視界の中で白い光が閃き、自分はまったく異なる場所に移動させられていた。そして気付けばリヒトが自分を抱きかかえていた。

 それとまったく時を同じくして、怪物もまた記憶を辿っていた。少年を叩き潰す寸前、その棍棒の軌道上を素早く何かがそこに白い残像を置いて駆け抜けた。瞬時に現れたそれは少年を抱えてあらぬ方向へ姿を消した。

 怪物は振り向いてリヒトを見た。すると少年を地に降ろしたリヒトもまた鋭い視線を怪物の双眸(そうぼう)に据えていた。両者はしばらくそうして(にら)み合っていた。

「大丈夫?」

 まだへたり込んだままの少年のもとに樹李が飛んで来て(たず)ねた。彼女は心配そうな顔で少年の無事を確かめると、今度は急に怒り顔になってリヒトに向かって言った。

「遅いよリヒト! もっと早く来い!」

 少年は目を丸くした。するとリヒトは顔だけ振り向いて目の端でこちらを見た。その目からは常人ならざる強者の気配が伝わり少年を萎縮(いしゅく)させた。しかし彼の表情と声音は先刻街で会ったときと変わらず穏やかで紳士的だった。

「こんなに早く君に助けてもらうことになるとはな」

 少年は呆然とした。少年に自分の言葉の意図が伝わっていないことを察したリヒトは付け加えた。

「さっき言っただろ? 何かあれば君の力を借りるし、君が困ったら俺が力を貸すと」

 それでもまだ少年には話が見えなかった。

「君が叫んでくれたおかげで神楽様は無事だった。君が時間を稼いでくれたおかげで俺がこうして間に合った」

 リヒトは再び怪物に顔を向け、その顔貌(がんぼう)(にら)む目つきを一層鋭くした。

「今度は俺が君に借りを返す番だ」

 リヒトは樹李か少年かのどちらかに、あるいは両方に向けて低い声で言った。

「下がっていてくれ」

 その声には自信に裏付けられた重みがあった。

「すぐに終わらせる」

 するとリヒトは胸に手を当てた。彼は(つぶや)くように、祈るように言った。

「新月の(またた)き」

 すると彼の胸は白く光った。光は夕闇に映えた。やがて彼の胸の白い光を投影するように、彼の正面の中空に縦に白い一条の光が現れた。少年はそれを見てさらに呆然とした。怪物も同様に驚いていた。その光は徐々に強くなり、縦に細長い何かの形を成した。光はにわかに薄れた。するとその光の中から一振りの日本刀が姿を現した。それは長身痩躯(そうく)のリヒトにふさわしい細長い刀身をしていた。それは空中に静止していた。それが成す曲線は流麗であり、夕刻の陽を浴びてその細長い刀身が放つ金属的な光は紅く妖艶(ようえん)に輝いた。リヒトはそれを右手で(つか)んだ。カチャリ、と冷ややかな音が鳴った。彼はそれを両手で中段に構えた。怪物はそれを見て口を開いた。

「貴様…その剣は…」

 リヒトは答えなかった。

「そうか貴様『剣』の持ち主か」

 リヒトは聞き返した。

「そういう貴様は何だ。姿を見るに伝承にあるオーガと見受ける」

 怪物は笑った。

「いかにも。なんだか有名人になったみてえで嬉しいぜ」

 リヒトはそれに付き合わなかった。

「貴様らオーガは地上の人間を支配し、(しいた)げていたと聞く。それが突然このムーングロウから去ったと聞く。そんな貴様が戻って来たからには、再び人間を(しいた)げる腹だと考えて差し支えないか?」

「少しだけ違う。まずかつて人間を支配し(しいた)げてたのはほんとだ。そんで突然いなくなったのもほんとだ。だが戻って来たのは再び人間を(しいた)げるためじゃない」

 リヒトは冷厳な目を怪物に注ぎ続けた。怪物は(よこしま)な笑みに顔を(ゆが)ませた。

「人間を皆殺しにするためだ」

 リヒトは表情を変えずぽつりと言った。

「そうか。ならば殺されるのは貴様だ」

 それを潮に唐突に会話は終わり、怪物は棍棒を振り上げ、先刻同様にそれを上段に構えた。リヒトは剣を上段に、体を低く構え直した。

「君、こっち!」

 樹李は少年の袖を体全体で引っ張った。それで我に返った少年は促されるまま広場の隅に向かって駆け出した。同刻、怪物が仕掛けた。棍棒による叩き下ろし。轟音が鳴り響き、それとともに石畳が砕けた。衝撃で砕けた石畳が舞い上がり、それは危うく少年と樹李に降りかかるところだった。二人は広場の端まで辿り着くと急いで振り返り背後で鳴り響く轟音の発生源に注視した。

 石畳を砕き撒き上げた怪物の一撃を、しかしリヒトはあっさり(かわ)し、剣を低く構えたまったく同じ姿勢のまま怪物の左斜め前方へ瞬時に姿を現した。誰も彼が足を動かす様を見てさえいない。彼を潰した手応えをまったく感じなかった怪物は慌ててその姿を探し、そこに見つけた。怪物は再び棍棒を振り上げた。怪物の動作はその巨体に似合わず素早く、それは次の瞬間には地面を衝き砕いていた。

 怪物はそこでぴたりと動きを止めた。その理由は怪物の身体の背後に立っていた。棍棒で人間を叩いた手応えをまったく感じなかったことに加え、叩くはずだった対象の気配が背後に佇んでいることを感じたことが怪物を愕然(がくぜん)とさせた。リヒトの速さは怪物のそれを圧倒的に凌駕(りょうが)していた。風や砂埃を巻き上げて一瞬のうちに別の地点に姿を現す。

「速いな」

 怪物の素直な驚嘆(きょうたん)の声だった。リヒトはそれには答えなかった。代わりに鋭い声音で言った。

「いくぞ」

 リヒトは振り向いた怪物へと真っ直ぐに跳んだ。怪物は素早く上段に構え直し、リヒトを迎撃せんと棍棒を振り下ろした。両者が空中ですれ違うとき一瞬リヒトの刃が白く閃いた。リヒトはほとんど音も立てずにしなやかに遠くの地に足を着けた。すると怪物の棍棒の半分から先がずしりと音を立てて地に落ちた。

 怪物は(うめ)きもせず、その首をゆっくりとリヒトに向けた。得物を破壊された怪物だがその目には、焦りや怒りの感情はない。リヒトも振り向いてその目を見た。怪物が口を開いた。

「なかなか速いな、だが——

 怪物が言い終わる前にリヒトは白い制服をはためかせながら空中にふわりと跳び上がり怪物の片方の目に日本刀を斬りつけた。リヒトは跳び上がった勢いそのままに怪物の背後へと着地した。直後に怪物の目から黒い血しぶきの花が咲いた。怪物は仰け反って(うめ)いた。

「ぐああああ!」

 少年は唖然としていた。先ほど少年は怪物に果敢に挑もうとした。しかし体の大きさの違いと相手の素早さと膂力(りょりょく)の前に相手が「人間では到底敵わない相手」であることを強烈に認識させられた。彼はリヒトもまた怪物に殺されるものと思い込んだ。しかし少年の想像とは対照的に横にいる樹李は誇らしげに戦況を見守り続けていた。その理由を少年は今はっきりと理解した。怪物は再び後ろを振り向いた。

「なるほどさすが『剣』の使い手だ。しかし悪いが俺も勝つために手段は選んでられん」

 すると怪物は低い声を発した。

「獣神覇拳・光芒烈壊(こうぼうれつかい)

 怪物は口を大きく開いた。その奥から急激に光が湧いた。それは見る者すべてに強烈な熱量と破壊力を想起させる禍々(まがまが)しい光だった。次の瞬間、光は集塵(しゅうじん)し球状になった。リヒトは目を(すが)めた。怪物は口を開けたままリヒトを凝視した。しかしリヒトはそれを見せつけられてなお平静だった。彼は日本刀を怪物に向けて構え、(つぶや)いた。

「妖魔刀術・這影(しゃえい)

 するとリヒトの日本刀の刀身は急激に伸びた。一瞬のうちに怪物との距離を詰めたそれは、怪物のもう片方の眼球を刺し貫いた。痛みと驚きで反射的に口を閉じてしまった怪物の口腔(こうくう)の中で光球は爆ぜた。

「ごがっ…!!!」

 短い呻き声をあげて怪物は仰向けに倒れた。広場周辺にはそれとともに爆音と爆風が起こった。怪物が再び口を開けるとそこからは大量の黒煙が立ち昇った。リヒトは涼しい顔でそれを見ていた。

「強い…」

 少年は思わず(つぶや)いた。樹李は誇らしげだった。

「そりゃそうだよ。リヒトはムーングロウで最強の騎士って呼ばれてるんだ」

「く、くそ…」

 そう(うめ)いて怪物はのそのそと起き上がった。何とか立ち上がることができた怪物だが、視界をつぶされたためか、口腔(こうくう)内で巨大な爆発があったためか、真っ直ぐ立っていることもできずにふらついていた。

「さて、そろそろ終いにするか」

 リヒトは涼しげな声音でそう言った。怪物は傷ついた目でリヒトを(にら)んだ。

「くそ…。だったら奥の手だ。獣神覇拳・光芒烈壊(こうぼうれつかい)!」

 怪物は再び大きく口を開き、その口腔(こうくう)の中に光の球を作り始めた。それは先ほどと同じ攻撃の予備動作のように思えた。

 しかし怪物は次の瞬間その場にいる誰にとっても慮外(りょがい)の行動をとった。急に体の向きを変えたのだ。怪物の狙いは何か。その視線の先を追ったリヒト、樹李、少年は一様に愕然(がくぜん)とした。そこにいたのは神楽だった。神楽もまた目を見開いた。

「しまった!」

 リヒトは焦りとともに呻いた。

「妖魔刀術・蟠鱗(ばんりん)!」

 その一声に伴ってリヒトの日本刀の刀身はまるで水銀のようににわかに(いびつ)に姿を変えた。刀身は広がりリヒトの全身を覆い、甲冑(かっちゅう)の形を成した。怪物が口から光球を放ったのはその直後だった。それは目を見開き立ち尽くす神楽へと吸い寄せられるように真っ直ぐ向かって行った。あっという間に地表に着弾したそれは強烈な光を弾けさせた。轟音とともに爆風が舞った。それにあてられて少年は目を(すが)めた。吹き飛ばされそうになった樹李を彼は慌てて捕まえて胸で抱えた。爆風とともに砂や(つぶて)が飛んで来て少年は体を伏せて目をつぶった。爆発の中心部からは黒煙が立ち昇った。少年は一瞬の出来事に思考をフリーズさせていた。

 がしゃり…。重い金属がこすれ合うような音がした。怪物は目を(すが)めて(うな)った。

「ほう…。『剣』で守ったか」

 少年がおそるおそる目を開き黒煙が晴れるとそこに神楽の姿があった。彼女は立って生きていた。まったくの無傷である。しかし彼女は目を見開き愕然(がくぜん)と正面の何かを見ていた。そこに先ほどの重い金属音の主がいた。それはリヒトだった。彼は神楽をかばうように両腕を体の横に伸ばしていた。神楽は(つぶや)いた。

「リヒト…何を…」

 全身を甲冑(かっちゅう)で覆われたリヒトは(うつ)ろな目で振り向き、細い声で言った。その口からは白煙が漏れた。

「ご無事ですか…」

 神楽は眉根を寄せた。

「あなたこそ…」

 リヒトは弱々しく笑った。

「すみません、鎧を出すので精一杯で…」

 見れば彼の甲冑(かっちゅう)は黒く(すす)けて所々穴が開いていた。さらに甲冑(かっちゅう)からは黒煙が上がっていた。よく見れば煙は甲冑(かっちゅう)そのものだけではなく、その内側からも上がっていた。あれだけの巨大な光球を浴びて、甲冑(かっちゅう)を着ていようといなかろうとただで済むはずがない。その熱に体を焼かれるはずだ。リヒトはうつぶせに(くずお)れた。

「リヒト!」

 金切り声を上げて神楽が彼に駆け寄った。神楽はリヒトを仰向けに抱きかかえた。彼の首は力なく垂れ、しかし彼はたしかにまだ息をしていた。リヒトが(まと)っていた甲冑(かっちゅう)は白い光に変わり、それは霧散した。彼女は泣きそうな声を漏らした。

「リヒト…」

 少年も樹李もそれを唖然とした表情で見ていた。すると二人の頭上から突然しゃがれた声が聞こえてきた。

「若いもんどもが騒ぎおって、まったくうるさいことこの上ない」

 少年と樹李は声のした方を振り仰いだ。そこにはまだ崩れていない建物の上に立つ老人の小さな姿があった。

「飛茶さん!」

「飛茶っち!」

 少年と樹李にそう呼びかけられた飛茶は構わず独りごちた。

「しかしまあ、臣下として遅れをとってしまったことは恥ずべきことよのう。誠申し訳ない」

 少年は叫んだ。

「飛茶さん、逃げてください!」

 飛茶はそこで初めて少年を見下ろした。その表情はやはり長く伸びた眉毛と(ひげ)のため知れなかった。飛茶は(つぶや)いた。

「気丈な少年よのう」

 少年は呆然とそれを聞いた。飛茶の小さな体はふわっと宙に浮き二階建ての建物の上から舞い降りた。少年は肝を冷やした。カラン、と軽やかな下駄の音がした。喫茶店の前で彼に会った時には気付かなかったが、彼は下駄を履いていた。少年の心配は杞憂(きゆう)に終わり二階から飛び降りたにもかかわらず飛茶の足は無事で、彼は悠然と怪物の方へ歩を進めながら言った。

(わし)もその気丈さを今一度思い出さねばならん」

 怪物はその段になってようやく飛茶に向き直った。

「何だじじい、お前もわざわざ殺されに来たのか」

 少年は再び叫んだ。

「飛茶さん!」

 飛茶はそれには構わず言い放った。

「若造があまり大きなことを言うもんじゃないぞ」

 飛茶の眉の奥にある目が怪しく光った。そしてカラン、と一際大きく下駄の音が広場に鳴り響き、飛茶は足を止めた。次の瞬間に怪物の体が宙に浮いた。少年はそれに目を奪われた。この巨体でここまで軽々と跳び上がれるのか。

 しかし何か様子が違った。怪物は顔を仰け反らせ真上に跳び上がったまま飛茶に向けて攻撃を仕掛けてくる気配がなかった。何より先ほどまで少年の真横あたりを歩いていたはずの飛茶は怪物の(あご)の前で浮き、あの腰の曲がった老人のどこにこんな柔軟性があるのかと思うほど脚を思い切り振り上げていた。地に足を着いたあとの怪物はそのまま尻もちをついて仰向けに倒れてしまった。轟音と爆風が広場を覆った。飛茶が悠然と着地すると対照的にカランと高く澄んだ音がした。その段に及んで怪物の身に何が起きたのかを少年は頭の片隅でようやく理解できた。飛茶に(あご)を蹴り上げられたのだ。しかし飛茶の小さな体のどこにそのような膂力(りょりょく)がどうして備わっているというのか。その疑問に答えるように横合いの樹李の嬉々とした声が言った。

「飛茶はムーングロウで一番の脚力の持ち主なんだよ」

 少年はそれを聞いてもなお信じられなかった。樹李は楽しそうに言葉を継いだ。

「走って良し、跳んで良し、蹴って良し!」

 少年は呆然としたまま怪物と飛茶の動向へと視線を戻した。

「くそ…」

 (うめ)きながら怪物が上体を起こした。

「クソジジイがまったくどうなってやがんだ…」

 飛茶は(うそぶ)いた。

「まだまだ餓鬼には負けんわ」

 悔しそうにオーガは立ち上がった。体勢を整えた怪物は折れた棍棒を拾い上げ、それで何か飛茶に向けて攻撃を仕掛けようとした。しかし次の瞬間には飛茶に脚を後ろから蹴り払われて再び尻もちをついていた。地鳴りが少年の耳朶(じだ)を打ち彼を唖然とさせた。飛茶はとりわけ小柄な老人であり、その脚は短く細い。しかしそれはまるで怪物の持つ棍棒よりももっと太く長いもので怪物の脚を払ったかのような膂力(りょりょく)を生み出し、その巨体を軽々と(もてあそ)んだ。飛茶は怪物が倒れた足元にそのまま何事もなかったかのように佇立していた。怪物が倒れた際に生じた爆風が飛茶の長い眉毛や(ひげ)を吹き散らかしたが、やはりその表情は(うかが)い知れない。しかしおそらく何食わぬ顔をしているのだろうと少年は思った。

「誰が立って良いと言った。目障りだから寝ておれ」

 飛茶はそう怪物に向けて吐き捨てた。

「くそが…」

 怪物はそう言って上体を再び起こした。しかし次の瞬間には(あご)を飛茶に思い切り蹴り上げられて首を仰け反らせ、そのまま大の字に倒れた。少年は唖然とするほかなかった。

(何もさせてもらえない。あれだけ強かった怪物が…)

 少年はちらとリヒトに視線をやった。神楽が彼を介抱していた。

「リヒトなら大丈夫。神楽様は治療もできちゃうからね」

 少年の思考を察知して樹李がそう言った。不思議なことに神楽の手からは緑色の光が発せられていた。それが樹李の言う「治療」なのだろうか。神楽もまた特別な力の持ち主なのだろうか。樹李が楽しそうに付け加えた。

「あとは飛茶があのデカブツやっつけるの見届けたら一件落着!」

 飛茶は怪物を見上げた。

「さて、それでは終いにするかのう」

 怪物は(うめ)きながら上体を起こした。

「お主はいささか頑丈にできておる。普通に蹴っていては時間がかかる。だがどんな物にも弱点というものがある。それを潰せば物は容易く壊れる。人間ならば心臓。そしてお主なら——」

 風に吹かれた飛茶の白い眉毛の奥に覗いた鋭い眼光が閃いた。

「その体の奥にある核じゃ」

 ようやく立ち上がることができた怪物は自身の弱点を看破されてその顔に焦りを見せた。飛茶はさらに低い声で(うそぶ)いた。

「容赦はせぬぞ小僧。一思いに殺してやるわい」

 すると飛茶は駆け出した。少年も樹李もそれを見守った。飛茶の疾駆は風よりも速かった。怪物は目を恐怖で見開き防ぎ得ぬ自身の命の危機を察して叫んだ。

「くそがああああああ!」

 飛茶は叫んだ。

「風天武術・流閃(りゅうせん)蹴脚(しゅうきゃく)

 それはまさに一瞬の出来事だった。彼は跳躍し、その勢いのまま蹴りを放ち、吸い込まれるように怪物の心臓の辺りにめり込んで行った。怪物は痛みに目を見開き(うめ)いた。

「ぐがあああああ…!」

 飛茶の蹴りの威力はそれでも失われず、その小さな体は弾丸さながらにさらに深く深く怪物の体の奥へ入って行った。怪物の体の中央に至ってもその威力は微塵(みじん)も失われなかった。怪物は喀血(かっけつ)した。

「ぐはぁっ!」

 さらに勢いの衰えない飛茶の体は怪物の背中に至りついに怪物の体を突き破る寸前にまで達した。すでに怪物の背中は大きく(ゆが)み、その膨らみの先端には飛茶の下駄の歯の形がくっきりと浮き出るほどだった。あとはそれが背中の皮を突き破れば飛茶は怪物の分厚い体を貫通する。怪物は白目をむいていた。しかしそこで飛茶の蹴りの勢いがぴたりと止まった。急に怪物がおどけるような声を上げた。

「なーんてね!」

 すると背中まで至っていた飛茶は押し戻された。怪物の背中の膨らみはあっさり失われ、それは平素の形状を取り戻した。飛茶はどこから出てくることもなく怪物の体の中に取り残されてしまった。飛茶がめり込んだ胸の穿孔(せんこう)も怪物の肉に埋まって消え、綺麗なつるりとした平素の形状を取り戻してしまった。よく見ればリヒトが付けた目の傷さえも治ってしまっている。少年も樹李も神楽も唖然とした。怪物は哄笑(こうしょう)した。

「はっはっはっはっは! 俺様の強さはその柔軟性と回復力にこそあるのだ。このじじいは俺の養分にして吸収してくれるわ!」

 怪物の体の中からは飛茶の(うめ)き声がかすかに漏れ出てきた。

「なんと…この化け物めが…くそ…」

「はっはっはっは! お前の力はこの俺がありがたくいただくぜ!」

 怪物はむしろ攻撃を受ける前より快活そうだった。中からは飛茶の声はもはや聞こえてこなかった。その顛末(てんまつ)を見ていた少年は愕然(がくぜん)としていた。

「そんな…飛茶さんが吸収されちゃうなんて…」


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