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こころのみちしるべ  作者: 110108
アーケルシア編
49/102

047.『前夜』1

 虎狼会討滅を果たしたリヒトはその下部組織が主体となって運営していたコロシアムを廃止した。その広大な敷地と巨大な建造物は利用目的を失った。いっそ取り壊す案も出たが一部の施設については利用価値があるとの判断がなされた。その最たるものはコロシアムの裏に設けられた剣闘士の「控室」だった。コロシアムが廃止されたことで剣闘士たちは一般の刑務所に移された。その際、遊興(ゆうきょう)の道具として剣闘士という特殊な状況に身を置き死と隣り合わせの地獄の日々を送ることを強いられた彼らへの配慮がなされ、一般の受刑者と離れた独居房に収監されること、刑期が短縮されることが決まった。剣闘士が不在になったコロシアムの檻は重犯罪者の収監にあてがわれた。剣闘士の力をもってしても破壊できない頑丈さと、剣闘士の逃亡を阻止するための建物自体の堅牢(けんろう)な構造に利用価値が見出された。外部との接触も限られているため、国が機密扱いにしておきたい重犯罪者などを収監するのに都合が良かった。

 その日、そんな施設に新たな受刑者が収監されようとしていた。彼はまさに移送されている最中だった。彼は飄然(ひょうぜん)と鳥でも()でるように目を細めて歩いていた。一方彼を囲んで誘導する四人の兵士たちは脂汗を浮かべて緊張した鋭い目をその囚人・ゼロアに注いでいた。

「いい天気だな」

 ゼロアは突然口を開いた。兵士たちはその言葉にどぎまぎした。無視するべきか、注意するべきか。どちらにしてもゼロアのペースに乗せられそうで判断がつかなかった。

「口を開くな!」

 一人の兵士が怒鳴りつけた。しかしゼロアは涼しい顔をしてこう言った。

「そうびびるなよ」

 叱責(しっせき)がまったく効かなかった上に図星をつかれた兵士はいきり立つほかなかった。

「何だと!」

「見ろよ」

 ゼロアはそう言って彼に自身の手首にかけられた手錠を見せた。さらに立ち止まり、片足を上げて足枷(あしかせ)を見せた。

「四人の熟練の兵士に囲まれ手錠と足枷(あしかせ)をされ、これから幽閉される男に何ができる?」

 怒鳴った兵士は「いいからさっさと歩け!」と言うほかなかった。しばらく歩くとゼロアは再び何の気なしに口を開いた。

「それにしてもいい天気だな」

 誰も何も答えなかった。先ほどのやり取りから威嚇(いかく)叱責(しっせき)には効果がないことを知った四人は無視を決め込むことにした。しかししばらく歩くとゼロアはまた笑って口を開いた。

「何だお前らは口も利けないのか」

 先ほど怒鳴ったのとはまた別の兵士が応じた。

「さすがコソ泥は手癖だけじゃなく口癖も悪いんだな」

 威嚇(いかく)が駄目とわかった彼は「冷静に挑発する」という選択をとった。しかしゼロアの飄然(ひょうぜん)とした態度はまったく変わらなかった。

「そうだよ」

 すると涼しい顔をしたゼロアが急に足を止めて振り返った。挑発をした兵士は驚いて動けなくなった。二人は目が合った。ゼロアの表情には柔和で友好的な色があった。彼は下ろしていた手を突然上げて、それを兵士の手元にもってきた。兵士は思わず反射的に手を上げてそれを受け取ってしまった。兵士は自身の(てのひら)の上に何か固くて重いものが乗ったのを感じた。兵士は手元のそれを見た。それは黒い金属の(かたまり)だった。兵士はそれが何であるかを推測すると死を誰よりも怖れた。

「うあああああああ!」

 兵士はそれを投げ捨てて床に伏せた。周りの兵士たちもその兵士の反応を見て驚き(おのの)いた。金属の(かたまり)は床に落ちた。ゴトン、という重たく乾いた音がした。それが落ちた場所は()しくもゼロアの靴の先だった。

「おいおい。人からの(ほどこ)しものを投げ捨てるなんて失礼だろ」

 そう言うとゼロアは手錠で繋がれた不自由な手でそれを拾い上げた。彼は面白そうでもあり退屈そうでもあった。

「ただの(なまり)(かたまり)に何びびってんだよ」

 ゼロアには絶対に調子に乗らせない、少しも規則を破らせない、当初そのように息巻いていた兵士たちはその覚悟を完全にくじかれた。「そんなものどうやって持ち込んだ」とゼロアを(とが)める気を起こす者はもういなかった。次こそ本当に爆弾を出しかねない。

「おいどうした。早く案内しろよ。お前らの仕事だろ?」

 そう言われて床に伏せた兵士はまだ息が整わず口を開けたままの顔を上げた。この男はこのようにして多くの者を畏怖(いふ)させて服従させてきたのか、兵士はそんなことをやっと巡り出した思考の中でぼんやりと考えた。ゼロアは鼻で笑って言った。

「こいつらもつまんねえな」

 そう言いつつゼロアは当座の退屈しのぎのオモチャを見つけて少し嬉しそうに笑った。




 ゼロアが収監されてから数日が経った。その間、彼の元を何人かの部下が訪れたが、彼らは常に騎士団から面を知られていない小物ばかりだった。大物は面会を許されないどころかその場で逮捕される。ゼロアの元を訪れた部下はゼロアの身を案じたり変わらぬ忠節を誓ったり虎狼会の再起についての提案をしたりした。しかしゼロアは彼らの訪問や言葉に何の感慨も示さなかった。虎狼会はすでに崩壊した。もとより何にも頓着(とんちゃく)しない性分(しょうぶん)の彼は虎狼会の再起にまったく興味がなかった。また、現実的にみても実際虎狼会の再起は不可能だった。その土地や施設、財産は騎士団により接収され、王城や兵器を除く大部分はすでに軍資金を得たい騎士団により商人に売却されていた。ゼロアの関心は仮にこの場所から自分が抜け出したとして、そのあと自分がどのように過ごすかにあった。一部の狂信的な部下に指示を出せばこの牢屋を抜け出すことは容易(たやす)い。アーケルシア騎士団の警備などその程度のもの。しかし彼自身そのあとに何をすべきなのかわからずにいた。いや、正確には何をすべきかではなく自身が「何をしたいか」。彼は自分自身の心を理解できずにいた。そもそも虎狼会を立ち上げたのはなぜだったのだろうか。最初は「必要から」始めたことであり「求められて」リーダーとなった。しかしそれをここまで拡大させ、ムーングロウ最大の犯罪組織にまで拡大させた理由は何だったのだろうか。それは彼自身にもいつしかわからないものになっていた。

 ゼロアがそんな思索に(ふけ)っていると不意に物音がした。表で一つ、ほどなくもう一つ。彼はその音をよく知っていた。暴力の音。それも非常に素早く、慣れた手つきで行われるプロの仕業。暗殺術、もしくは格闘術によるもの。心当たりはなかった。だがそれはこの広いコロシアムの敷地内において彼の耳に届く距離で行われたものであり、それはつまり看守と何者かが拳を交えたことを意味した。いや、音から察するにそれはプロが行った何かしらの有無を言わせぬ攻撃によるものであり、それをアーケルシア騎士団の生ぬるい看守が行えるはずがなく、つまりそれが「プロによる看守への一方的な暴力」であることは明白だった。さらにいえば、そんなことができる者はアーケルシアに、いやこのムーングロウ全体を見てもそう多くはないだろう。おそらくその「プロ」の狙いはこの俺の救出、もしくは抹殺。

 そこまで思索が及んだとき、その「訪問者」は通路の奥に不意に姿を現した。ゼロアは目を(すが)めた。それはゆっくりと歩いて近づいて来る小さな黒衣の姿だった。ゼロアは笑った。何だ、後者か。ゼロアとシェイドは目が合った。シェイドもまた笑った。やがて檻の前までやって来た彼に向ってゼロアが第一声を放った。

「いつか来ると思ってたよ」

 シェイドは表情を変えずにこう返した。

「俺は意外すぎて驚いたよ。君がまだここにいるって聞いて」

 ゼロアもまた表情を変えずに返した。

「ここが意外と気に入っててね」

「君はもっと贅沢(ぜいたく)を愛する人間なんだと思ってた」

 ゼロアはしばらくぶりに心から笑った。

「俺もそう思ってたぜ」

 会話はそこで途切れた。つかの間の沈黙ののちにゼロアが口を開いた。

「さっさと用を済ませろ」

 シェイドは眉を上げた。

「何だ。退屈しのぎの相手をしてやってるのに」

「俺の退屈は病気だ。治らん」

 シェイドは一度目を閉じてから言った。

「そうか。なら本題といこう」

 ゼロアは眉を上げて目を閉じた。シェイドは神妙な顔で彼に(たず)ねた。

「オリビアの居場所を言え」

 ゼロアは下げた(まぶた)と顔を上げてシェイドを見た。

「何だそりゃ」

「何だそりゃじゃねえよ。話さねえと今度こそ殺すぞ」

 ゼロアは呆れ果てて笑った。次第にそれは哄笑(こうしょう)になった。

「あははははははは」

 シェイドは(いぶか)しそうにそれを見ていた。

「何を笑ってる。ホントに殺すぞ」

 ゼロアは笑いをこらえながら言った。

「いやすまん、しかしまあ用件がそんなものだとは」

 シェイドの顔に怒りが(にじ)んだ。

「そんなものだと…!?」

 ゼロアはかぶりを振った。

「いやすまん。はっはっは。そんなもん、牢屋に襲撃に来ずとも教えてやるわ」

「何だと?」

 ゼロアの笑いはやっと収まりつつあった。

「アーケルシア騎士団討滅後に教えると言ったのはウソだ」

 シェイドは眉を(ひそ)めた。

「は?」

「最初から教えるつもりだった」

 つかの間考えたあと、シェイドは(たず)ねた。

「それで俺がお前を裏切ったらどうするつもりだったんだ」

「裏切らんさ。お前はそういう人間じゃない。いやまあ裏切ったっていいさ。それも一興だ」

 シェイドはようやくゼロアという人間の本質を理解したような気がして呆れたように笑った。

「こんなとこにいるのも一興か?」

「ああそうだな」

「呆れた」

「流星団のアジトだ」

 シェイドの顔から笑みが消えた。

「オリビアの居場所だよ」

「なぜわかる?」

「貧民街出身の女が知人の借金の形に娼館に売られて拘束斑(こうそくはん)で売り物にならなくなって捨てられたって話を聞いたことがある。俺の古い知り合いにそんなヤツをほっとけねえおせっかいの馬鹿な女がいてな。どうせそいつんとこだ。中央の貧民街の武器密造工場の地下だ」

 シェイドはそこに嘘の響きがないことを確かめると(きびす)を返して足早に歩き始めた。が、急に立ち止まって振り返ってゼロアに(たず)ねた。

「おい、お前ホントに出なくていいのか?」

 ゼロアは手錠をかけられた手で「さっさと行け」と追い払うような仕草をした。

「いい。今日死んだって構わない気分だ」

 ゼロアがあまりにも晴れやかな顔をしているのでシェイドは重ねて呆れた。

「何だそりゃ」

 ゼロアは答える代わりに笑顔の目をシェイドに向けた。シェイドもそれを見て笑った。彼は音もなく虚空(こくう)に消えた。それを見届けたゼロアは再び訪れた退屈な時間をあえて楽しむようにベッドに横になって低く汚い天井を見上げた。やや神妙な顔をした彼はぽつりと(つぶや)いた。

「そういうお前は自由になったあとどうするつもりだ」

 答えはどこからも返ってこなかった。彼は静かに目を閉じた。




 流星団は貧民街で弱者を救うためにアイシャが作った組織であり、その弱者には傷病者も含まれる。彼らに医療を(ほどこ)すためにアイシャはアジトの地下に大きな医療施設を造り、貧民であるがゆえに正規の医師の資格を得られず潜りで医療活動を行っているいわゆる闇医者を複数名雇った。その医療施設の存在や活動は弱者を救うという流星団の理念そのものだった。アイシャは患者にまともな医療を(ほどこ)し彼らを救うために地下格闘技や窃盗行為や武器の密造などで金品を稼ぐことに腐心し、患者を元気づけるために毎日彼ら全員に会って声を掛け続けた。しかし貧民であるがゆえに患者の栄養状態は良好ではなく、また闇医者の医療従事者としての質は決して高くなく、流星団の医療施設に入っても治療の甲斐(かい)なく亡くなる者が出る確率は国の正規の医療機関のそれに比べてはるかに高かった。

 その日、また一つの別れがあった。闇医者が彼女の死を確認すると彼女は霊安室に移された。霊安室のベッドの脇に立ち、亡骸(なきがら)を見下ろすアイシャは涙を流し、そこを離れることがいつまでもできなかった。アイシャに気を使って彼女と彼女の(かたわ)らで眠る亡骸(なきがら)のみを残して部下たちはみなそこを去った。彼女はそこで何人もの人との別れを繰り返してきたが、それに対し彼女の悲しみを感じる心が麻痺することは決してなく、別れは常に彼女の心を責め(さいな)んだ。彼女は仲間を、いや家族を失うたびにそうやってそこにひたすら(たたず)み、涙した。アイシャはその亡骸(なきがら)顔貌(がんぼう)に涙で(にじ)んだ視線を落とし、枯れた声で(つぶや)いた。

「イザベラ、よく頑張ったな」

 アイシャはそこに横たわる物言わぬ女の髪を撫でた。

「ありがとう」

 イザベラは痩せていて唇は紫に変色し、目は落ちくぼんでいた。首筋に浮かんだ拘束斑(こうそくはん)(まだら)模様は悪趣味な刺青(いれずみ)のように黒く染まりきっていた。しかしその顔は穏やかだった。誰かがその顔の横に一輪の黄色い花を添えていた。

 アイシャはどれほどそこでそうしていたことだろう。彼女は時が経つのも忘れてイザベラとの別れを惜しんでいた。アイシャがふと部屋の入り口に視線を移したのは憔悴(しょうすい)しきった彼女の思考にそれでも危険な何かを察知させるものが働いたからだ。それは「気配」であり同時に「足音」でもあった。その主はこともなげに部屋の入口に姿を現した。黒衣を(まと)った小柄な姿に彼女は見覚えこそあったが、しかし彼を何か初めて見る人物であるかのようにも感じていた。「誰?」と(たず)ねようとするより先にその人物の危険性を記憶が告げた。彼女は突如として慄然(りつぜん)とした。

「シェイド…!?」

 名を呼ばれた男はしかしベッドの上に横たわる細い亡骸(なきがら)を見て絶望に打ちひしがれているように見えた。思わず戦闘態勢をとりかけたアイシャをそれが押しとどめた。困惑するアイシャは(たず)ねずにはいられなかった。

「お前…何しに…」

「イザベラじゃない…」

 それはかすれるような声だった。低く腰を落とし身構えた体をアイシャは元に戻してシェイドの次の言葉を待った。

「オリビアだ」

 シェイドはそう言って歩を進めた。貧民街でアイシャに拾われたときすでに重度の拘束斑(こうそくはん)だったオリビアは自身の名さえ思い出せなかった。そんな彼女にアイシャが付けた名がイザベラだった。アイシャはこのときオリビアの本当の名をようやく知った。

「それが彼女の——

 そう(たず)ねかけたアイシャが言葉を失ったのはオリビアの足元に立ったシェイドの双眸(そうぼう)から涙がこぼれるのを見たからだった。彼は何か言葉を発しようとしていた。しかしその唇は震えて声にならなかった。彼はアイシャの向こう側に歩を進め横たわる亡骸(なきがら)の脇に立った。

「お前が言ってた人ってイザベラの——この子のことだったのか」

 イザベラの——オリビアの顔をじっと見つめるシェイドは答えなかったが、赤く充血する瞳を不意にアイシャに向けると(たず)ねた。

「どんな最期だった」

 何かを強くこらえるように力んだ双眸(そうぼう)だった。アイシャは答えた。

「穏やかだった。看病する者をむしろ(はげ)ますほど気丈で明るい人だった」

 彼はそれを聞いてもう一粒涙をこぼした。「そうか」と答える声は(にじ)んでいた。アイシャは掛ける言葉を見つけられずにいた。

「お前が——お前たち流星団がずっと彼女を()ていてくれたのか」

「数週間前に彼女を路上で見つけた。そのときにはもう末期の拘束斑(こうそくはん)だった。それからここで看病していた」

 それを聞いたシェイドはもう一度オリビアの顔に目を落とした。何かを噛み殺すように一度深く瞳を閉じた彼はそれを開くと再び冷ややかな暗殺家の瞳の色を取り戻していた。彼は何かを諦めるように一度眉を上げると部屋の出口に向けて(きびす)を返して淡々と歩き出した。しかしそこに辿り着く前に彼は何かを思い出したかのように歩を止めた。アイシャはその動向をぼんやりと眺めていた。

「ありがとう」

 背中でそうぽつりと言ったシェイドは再び出口へと向かった。アイシャは慌てて彼を呼び止めた。

「シェイド!」

 彼は再び歩を止めた。呼び止めた彼女自身が驚き戸惑ったが、しかし聞きたいことはすぐに声に出た。

「お前、どこに行くんだ…?」

 シェイドは少し考えているようだった。迷っているようにも見えたが背中からはその胸中は(うかが)い知れなかった。

「知らない」

 そう言ってなお歩き出さない彼の背中をアイシャは見守っていた。彼は顔だけ振り返った。その顔は自嘲(じちょう)気味に笑っていた。

「俺にもわかんねえ」

 眉根を寄せたアイシャはしかし彼に何と声を掛ければ良いかわからずにいた。シェイドは今度こそ歩き去って行った。




 大きな窓から差し込む夕日に染まるアーケルシア中央騎士団庁舎の修練場にはもうすでにアーケルシア兵の姿はなかった。怠惰(たいだ)で練習嫌いな彼らは夕方より早く「片付け」と「帰り支度」を始めてそこを去るのを慣習とした。ただそこには一人ベンチに座るクライスの巨躯(きょく)があった。大柄でアーケルシア騎士団に馴染みのない彼にとってはむしろアーケルシア兵が出払った後の方が伸び伸びと鍛錬に(はげ)むことができた。アーケルシアの修練場は広かったが超人的な戦闘力をもつ彼にとっては誰もいなくなってこそちょうど良い広さになった。そのため彼は早朝と夕方にその場所を使うことを習慣とした。彼が誰もいないその場所で剣を磨いていると、そこへ一人の男がとぼとぼと歩いて来た。クライスはそれに気付いているのかいないのか、男の方を見ようとはしなかった。対照的にユスティファはクライスを見て真っ直ぐに近づいて来ていた。西日は広い修練場の床に二人の影を目一杯長く伸ばした。二人の体の大きさは対照的だった。

「いつも一人で練習してるんですか?」

 クライスはユスティファに目をくれずに少し迷ってから答えた。

「コロシアムの独房に慣れちまったからな。いや——

 クライスは少し言い(よど)んで遠い目をした。ユスティファは彼の隣に腰掛けた。

「コロシアムに来る前から一人だったな」

 ユスティファは前方の虚空(こくう)を見てクライスの言葉について考えた。修練場の壁は夕焼けの逆光で暗かった。ユスティファはクライスが「軍神」と(たた)えられながらも傭兵として扱われ続けた過去を知っていた。彼はそれを気の毒に思いながらも、どこか貧民街出身の自分の境遇に重ねていた。

「不公平ですよね。軍神とまで呼ばれたのに傭兵として扱われるなんて」

 ユスティファはクライスへの同情を示したつもりだが、すぐに人の過去の不遇を軽々しく語った不敬に気付き慌てた。しかし当のクライスはまったく気にしていないようだった。

「お前も不平を感じることはあるか?」

 クライスはユスティファが今日彼の下を訪れた理由を看破していた。それを知ったユスティファはクライスに感服した。

「実は、少し…。いえ、かなり感じています…」

 クライスは黙って先を促した。ユスティファは少しずつ自分の内側に渦巻く思いを言葉に吐き出していった。

「自分が弱いのは分かっています。それこそクライスさんや、リヒトさんや、リサさんやアイシャさんに比べれば。だから不平とはちょっと違うかもしれません」

 クライスは剣を磨く手を止めずに耳を傾け続けた。

「もっと…」

 ユスティファはそこで言い(よど)んだ。

「…自分は傲慢(ごうまん)なだけかもしれません」

 クライスは問うた。

「もっと認められたいか?」

 ユスティファはクライスを見た。クライスは相変わらず剣を磨き続けていた。ユスティファはうつむいた。虎狼会への奇襲作戦のメンバーから外さたことは彼にとって大いに不本意だった。彼はゼロアやシェイドが相手でも自身は役に立てると思っていた。だからこそ最後のシェイドとの戦いの際に命令にもなく戦線に跳び込み、シェイドのナイフを弾き落とした。実際彼の参戦はリヒトたちにとって僥倖(ぎょうこう)そのものだったはずだ。しかし彼の実力をあらためて見直す向きはその後のリヒトにはなかった。彼はそこにさらなる不服を覚えていた。クライスは「軍神」と怖れられたほどの傭兵であり、剣闘士としては歴代最強だった。アイシャもこの世界の第二の犯罪組織流星団のリーダーであり、地下格闘技の最強選手だった。リサもビュルク一の狩人だった。ユスティファは彼らの実力を認めつつも、自身もまたリヒトの右腕として頼られたいという欲にかられていたし、それに値する実力を持ち合わせている自負があった。だがどこかで前三者との実力の差を感じてもいた。彼はそのジレンマの中にいた。

「…はい」

 クライスは剣の磨き具合を西日にかざして確かめながらぽつりと言った。

「それが騎士だろ」

 クライスはユスティファを見た。二人は目が合った。クライスは笑った。

「俺もずっとそう思ってたぜ」

 クライスは立った。剣の手入れを終えた彼はそのまま闘技場を去るものとユスティファは思った。しかしクライスは修練場の中央に立つと振り返った。

「剣士なんてそんぐらいでちょうどいいんじゃねえか? 出世欲、沽券(こけん)見栄(みえ)、大いに結構じゃねえか。いつか最強の剣士になれよ」

 そう言うとクライスは磨いたばかりの剣を構えた。

「来い。相手してやる」

 夕闇を背にそう言ってクライスは笑った。ユスティファは気が晴れていくのを感じた。

「はい!」

 彼は思った。強くなってやる。この人みたいに。同時に彼は感じていた。心の広さでも体の大きさでも敵わないなと。ユスティファは剣を抜き、クライスに向けて力強く一歩踏み込んだ。

「俺の壁は簡単には超えさせねえ」

 クライスはそう(うそぶ)いた。ユスティファもまた自分の気持ちを素直に口にした。

「超えて見せます!」

 素早い踏み込みとともに一撃目をクライスの大きなロングソードに叩き込むとき、彼はもう迷ってはいなかった。

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