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こころのみちしるべ  作者: 110108
アーケルシア編
45/102

043.『痛み』

 部屋は土煙に包まれた。そこに乾いた笑い声が響いた。

「はははははは…」

 声の主はゼロアだった。土煙で(よど)む空気の向こうでリヒトはうつ伏せのまま動かず、その盾は光になって霧散した。リサもまた仰向けに倒れたまま動かなかった。

「仲間一人守るためにご苦労なことだ」

 ゼロアがクライスをあえて殺さずにいたのは人質としての価値を見出していたからであった。その(たくら)みは見事に成功した。

「貴様らの吹き飛ぶ姿が見たくてシェイドを下がらせたんだ。ずいぶん楽しめたぜ、道化にしては上等だったぞ貴様ら」

「何だうるせえな」

 不意に声がしてゼロアの顔からぴたりと笑みが失せた。それはリヒトの声でもリサの声でもなかった。

「うるさくて寝れねえじゃねえか」

 ゼロアは目の前で平然と立ち上がるその男の姿を見て唖然とした。クライスだった。

「貴様、さっき倒したはずだぞ」

 クライスはゼロアの爆弾の爆風をまともに受け、気を失い倒れていた。クライスを殺さなかったのは先述の通り生かしておけば人質として使えるという算段の結果でもあったが、同時にもう彼が立ち上がることはできないという確信があったからでもあった。今まさにそれがあっさりと瓦解(がかい)した。クライスは首を(ひね)りその調子を確かめた。

「ああ!? 爆弾くらったぐれえで俺が死ぬわけねえだろ。まあ、結構痛かったけどよ…」

 それを聞いてつかのま呆然としたあと、ゼロアは歯噛みして(うめ)いた。

「バケモンが…」

 クライスは眉を上げた。

「まあ、俺から言わせればお前の性格の方がバケモンだけどよ」

 彼は笑って言い足した。

「それに、タフなのは俺だけじゃねえぜ」

 ゼロアは眉を(ひそ)めたが、すぐにその言葉の真意に気付いた。ゼロアの左手でリサが起き上がろうとしていたのだ。彼女は両脚に激しい裂傷を負って血を流していた。しかし命に別状はなく、まだ戦う意志を失っていなさそうだった。

「くそっ殺し損ねたか…。リヒトが気付きさえしなければ——

 するとクライスの後方から声がした。

「そいつぁ悪かったな…」

 ゼロアは目を見開きその声の主を見た。そこにはダメージを負いながらも立ち上がろうとするリヒトの姿があった。彼は足と背中に裂傷と火傷を負っていたが戦いに支障はなさそうだった。

「くそ、さすがにタフだな」

 そう言って歯噛みしたゼロアは怒り任せに叫んだ。

「だったら今度は三人まとめて吹き飛ばしてやるぜ!」

「いいや四人だ」

 その声は部屋の入口からした。リヒトもリサもクライスも振り向いてそちらを見た。

「久しぶりだなゼロア。元気そうじゃねえか」

 そこにあったのはアイシャの姿だった。ゼロアは顔に怒りを(にじ)ませた。

「くそっ、どいつもこいつも使えねえ…!!」

 アイシャはそのままゼロアの数メートル手前まで歩を進めた。リヒトは痛む体を押して立ち上がった。

「よっしゃ、四人でこいつさっさとやっつけてシェイドも倒そうぜ」

 クライスもリサもそれを聞いて瞳に闘志を(みなぎ)らせた。しかし意外な一言をアイシャが放ってみなを唖然とさせた。

「いや、こいつはあたしが一人で()る」

 リヒトが異を唱えた。

「いや、こいつは俺とリサ二人がかりでも——

 アイシャはそれに押しかぶせて言った。

「こいつには借りがある」

 アイシャの目は二人の間にある大きな因縁に決着をつけること強く望んでいた。リヒトはそれを見て野暮(やぼ)なことはこれ以上言うまいと思った。代わりにこう言ってアイシャにこの戦いの決着を託した。

「勝てよ」

 アイシャはようやくリヒトに目を向け、笑ってそれに答えた。

「任せろ」

 その一言を潮にリヒトとリサとクライスは部屋の奥の出口へと向かって行った。

「ふざけるなっ!」

 鼻に(しわ)を寄せたゼロアは部屋の奥へと向かう三人に向かって爆弾を一つ投げつけた。

「誰の許可を得て俺の後ろを通るつもりだ!」

 しかしその爆弾はダガーに弾かれてあらぬ方向へ飛んでいき、誰をも巻き込むことなく爆発した。つかの間目を見開いたあと、ゼロアは素早くアイシャの方を(にら)んだ。すると案の定彼女はダガーを投げた姿勢で静態していた。彼女は鋭い声で言った。

「誰の許可を得て三人に爆弾投げつけてんだ?」

 ゼロアは(うめ)いた。

「くっ…」

 アイシャは(うそぶ)いた。

「あんたの相手はあたしだ」

 その間に三人は奥の出口から部屋を出て行った。ゼロアはそれを見て哄笑(こうしょう)した。

「はははははははははは…」

 その哄笑(こうしょう)をアイシャは涼しい顔で聞き流した。

「貴様は自分が何を言ってるのかわかってるのか?」

 アイシャはそれには答えず、代わりにこうぽつりと(つぶや)いた。

「ずっと待ってたぜ」

 ゼロアは笑うのをやめて目を(すが)めた。アイシャは不敵に笑って続けた。

「てめえをぶっ飛ばす日が来るのをな!」

「思い上がるなよ小娘。貴様ごときコソ泥風情(ふぜい)雑兵(ぞうひょう)が俺に太刀打ちできるはずがなかろう」

 だがアイシャはその笑みを微塵(みじん)も崩さなかった。

「そういえばお前と戦うのは初めてだったな。何であたしがあんたの相手をしなかったかわかるか?」

 ゼロアは涼しい顔で先を促した。「安い挑発を言いたいなら言ってみろ」とその顔は言っていた。

「理由は二つ。あんたのことは昔から気に食わなかった。だがあんたには利用する価値があった」

 ゼロアは予想外の口上に眉をぴくりと動かした。

「あんたは賢い。悪知恵っていうのかな。それにリーダーシップもカリスマ性もある。まあ恐怖政治によるものだけどな。アーケルシア騎士団は腐ってたし弱者の声を政治に届けるには虎狼会が必要だったし、弱者のリーダーとして立つ力があんたにはあった」

 ゼロアは表情を変えなかった。アイシャは鋭い声で言った。

「でももうあんたは必要ない。アーケルシアにはリヒトがいる」

 ゼロアはつまらない口上を聞いたとばかりに鼻で笑った。しかしアイシャの言葉はさらに続いた。

「もう一つの理由は簡単だ。あんたがあたしよりも弱くて殴る価値もねえからだ」

 ゼロアは呆れて眉を吊り上げた。

「貴様がリヒトに心酔(しんすい)してるのはわかった。だがそんなリヒトでさえ俺には傷一つ付けられなかった。最強の剣闘士にして軍神のクライスも。さらにビュルクの狩人リサも。万全の俺に貴様ごとき雑兵(ぞうひょう)が一匹でどう太刀打ちできるというんだ?」

 アイシャはニヤリと笑った。

「お前は万全じゃない」

 ゼロアの顔から笑みが消えた。

「お前は消耗(しょうもう)してるさ。お前の武器である爆弾をな」

 ゼロアは顔を(しか)め、アイシャの指摘を否定するかのように(ふところ)から爆弾を取り出した。

「貴様ごとき小物を消し飛ばすには爆弾なぞ一つもあれば十分だ」

 彼は言葉の通り爆弾を一つアイシャに向けて投げつけた。戦端はそれで開かれた。アイシャはニヤリと笑って走り出した。前方に向かって素早く。ゼロアは目を見開いた。それは今まさに爆弾が迫って来る方向だった。ぱん、と音がした。それはアイシャが爆弾を拳で弾いた音だった。爆発する前に弾かれた爆弾は逆にゼロアに向かって飛んで来た。ゼロアは慌てて後方に大きく跳び退いた。爆弾は彼がもといた位置で爆発を起こした。ゼロアは爆風を完全には避けきれず、その一部に体を巻き込まれ(うめ)いた。

「ぐあっ!」

 彼は体の各所に裂傷を負った。つい先刻まで何の乱れもなかったゼロアのローブはボロボロになっていた。ゼロアはうずくまりながら顔を上げ体勢を整えた。彼の視界の中で悠然と仁王立ちするアイシャは平然と言った。

「リヒトたちがどうして苦戦したか知ってるか? そりゃあんたの手品を初めて見たからさ」

 自身の切札を『手品』と言われゼロアは気色ばんだ。

「だがあたしはあんたの手の内を知ってる。たとえば爆弾がどれくらいのタイミングで爆発するかもな。いつ爆発するかがわかっていればあんたの爆弾なんて怖くもない」

 返す言葉のないゼロアは立ち上がり歯噛みした。アイシャは笑った。

「さて、今度はこっちが反撃する番だな」

「くっ…」

 ゼロアは(うめ)いた。アイシャはゼロアに向かって真っ直ぐに走り、右の拳を引いて突きの構えをとった。しかしそれが届く前にゼロアは(ふところ)から一本のナイフを取り出し、笑った。アイシャは(いぶか)しそうにそれを見た。しかしゼロアがそれを投げたとしても振ったとしてもそれを(かわ)す自信をもっていたアイシャは気にも留めずに走った。

 ところがアイシャの予想に反してゼロアはそれを天井に向けて投げた。アイシャはその軌道に目を見張った。天井に刺さったナイフは「鍵」の役割を果たしその部屋全体に(ほどこ)された仕掛けを作動させた。アイシャは何かの気配を素早く感じ取り両脚で踏みとどまった。部屋全体が震動を起こした。アイシャがそのままゼロアに向かって突き進んでいれば通過するはずだった場所に天井から重量物が落ちてきた。それは鋼鉄の檻だった。彼女の数十センチ先で檻がずしりと地を踏み鳴らした。その大きな檻は王の間の端から端に及び、アイシャがいる手前側の空間とゼロアのいる奥側の空間を完全に二分した。アイシャは部屋を出ることを思いついたが後ろを振り向いたときにはすでに遅かった。同じ仕掛けにより入口の重い扉が閉まったのだ。扉もまた鋼鉄でできていた。王の間の手前半分の空間に閉じ込められる格好になったアイシャは歯噛みした。

「くそっ! こいつを上げろ!」

 ゼロアは顔を愉悦(ゆえつ)(ゆが)ませると胸元から爆弾を取り出した。その数は三。アイシャはゼロアの意図を察して目を見開いた。アイシャを狭い空間に閉じ込めて爆弾で確実に(あぶ)り殺す気だ。彼女は(うめ)いた。

「くっ…」

 ゼロアの(あざける)るような声が響いた。

「言っとくが檻も扉も鋼鉄製だ。貴様とて破れるものではない」

 彼はそれだけ言うと肩の力を抜いて爆弾を三つ檻の中にゴミのように放り込んできた。小さな爆弾は檻の隙間を通り抜けてアイシャの側に入り込んで来た。爆弾は檻の中をできるだけ広く爆風に巻き込めるよう、三様の方向に投げられていた。アイシャは慌てて跳び退いた。光輪の花が三つ次々と咲いた。アイシャは部屋の隅に素早く移動することで辛うじていずれの爆風からも逃れていた。しかしアイシャが安心したのもつかの間、素早くゼロアに視線を走らせた彼女は大きく目を見開いた。ゼロアはすでにその両手に八つの爆弾を用意していたのだ。それは檻の中を焼き尽くすのに十分な数だった。ゼロアは美術品でも耽美(たんび)するような陶然(とうぜん)とした笑みを浮かべた。

「俺さ、お前の体も燃やしてみたかったんだよね」

 アイシャは叫んだ。

「くそ外道が!!」

 ゼロアは目を()いた。

「アディオス」

 爆弾は彼の手を離れた。それは檻の中の空間に均等にばらまかれた。アイシャはただ呆然とそれらが描く放物線の軌道を見ていることしかできなかった。一瞬ののちに我に返ったアイシャは(うめ)きながら少しでも爆風の力から逃れるため必死に部屋の隅で体を伏せた。ゼロアは嘲笑(あざわら)うようにそれを見ていた。爆弾は空中で次々と()ぜた。その爆風にアイシャの小さな体も飲まれ、彼女は痛みに叫んだ。

「ぐあああああっ!」

 爆風が止むと部屋は煙で満たされた。それが落ち着くともはや動く気配もなく地に伏せるアイシャの姿があった。ゼロアは満足そうにそれを眺めた。

 しかしアイシャはこのとき死んではいなかった。痛みに(うめ)きながらも彼女は手足を鈍く動かし始めた。ゼロアはそれを見てむしろ(よろこ)んだ。

「へえ、まだ動けるのか。(むし)みてえにしぶてえな」

 アイシャは感覚の薄れた震える体で起き上がった。骨や内臓や筋肉に異常はなさそうだった。しかしいたるところに裂傷が走り、血が滴り、打撲を負っていた。彼女は立っているのがやっとに見えた。しかし立ち上がった彼女は薄い笑みを浮かべた。ゼロアはそれを見て(いぶか)し気に問うた。

「何がおかしい?」

 アイシャは痛みをこらえながら口の端を吊り上げた。

「今ので爆弾は使い切ったんだろ?」

 ゼロアは「何だそんなことか」と言わんばかりに鼻で笑った。

「それがどうした。お前は虫の息。閉じ込められて死を待つのみ。放っておけば失血死。そうでなくても餓死」

 アイシャは目を閉じた。ゼロアはそれを諦めによるものと考えた。しかし目を開いたアイシャの次の言葉はその予想に反するものだった。

「あたしは諦めない」

 ゼロアは「面倒臭いな」と言わんばかりに嘆息し、吐き捨てた。

「そうかよ。じゃあ頑張れ」

「ああ頑張るさ。お前に踏みにじられた希望にあたしが報いるんだ」

 ゼロアは呆れて笑った。

「たいそうな理念だな。何故そんなことをほざく? 聖人にでもなったつもりか?」

 しかし今度はアイシャが笑う番だった。

「理念? 聖人? そんなもんクソ喰らえだ。『何故』だって? 決まってらあ。ただてめえが気に食わねえし、ただあたしがそうしてえからだ!」

 そう言うとアイシャは部屋の側面の壁際まで歩を進め、静態した。やがて彼女は深く腰を落とし、拳を引いた。その意図が理解できないゼロアは(いぶか)った。アイシャは目を閉じて大きく息を吸い込んだ。やがて目を大きく開くと彼女は拳に力を込め壁に向かって突きを放った。大きな音が鳴り響き、部屋全体がわずかに震動した。しかし壁には何の変化もなく、案の定アイシャの拳には痛みが走り、彼女は(うめ)いた。

「痛っ!」

 微笑ましい愛玩(あいがん)動物でも見るようにゼロアはそれを眺めていた。

「やめておけ。王城だぞ。もともと頑丈にできている上に俺が補強してある。さっきからどんな爆発が起きてもヒビ一つ入ってないのがわからないのか?」

 アイシャはゼロアの言葉に耳を貸さなかった。思わず痛めた右の拳をかばうように左手を添えたアイシャだが、しかし彼女は息を一つつくと再び壁に向かって構えをとった。彼女は先ほどよりもむしろ強い力で壁を突いた。すると壁にわずかに亀裂が走った。ゼロアは目を見開いた。

「嘘だろ…?」

 アイシャは痛みに(うめ)きながらも息を整えると再び突きの構えをとった。ゼロアは歯噛みし胸元からナイフを取り出すとそれをアイシャの背中目がけて投げ付けた。それは檻の隙間を素早く通り抜けてアイシャの背中に真っ直ぐに刺さった。

「ぐっ!」

 アイシャは(うめ)き、あまりの痛みに片膝をついた。しかし彼女は背中のナイフを「邪魔だ」と言わんばかりに後ろ手で一息に抜き捨てた。彼女は再び立ち上がり壁に向かって突きの構えをとった。彼女は大きく息を吸い、再び壁を突いた。ミシミシと鈍い音がした。震動はゼロアの足元にまで伝わってきた。少し遅れて天井から土煙がボロボロと落ちてきた。ゼロアは唖然として自分の勝利が揺らぐのを感じた。アイシャが殴った壁を見るとそれは大きくひしゃげていた。ゼロアは焦りを顔中に(にじ)ませながら再び胸元からナイフを取り出した。彼は憎悪の(しわ)を顔に刻んでアイシャの背中に再びそれを投げつけた。ナイフはアイシャの背中に深く刺さった。

「あああああああああ!」

 アイシャは痛みに(うめ)いた、かに思われた。しかしそれは痛みに(うめ)く声ではなく、痛みに耐え、痛みを忘れ、さらに壁を殴るためのアイシャの気合の咆哮(ほうこう)だった。

「あああああああああああ!!」

 アイシャはさらに壁に向かって構え、殴った。しかし今度の突きは壁にいかなるダメージも与えなかった。彼女はそのまま背中を丸めて座り込んでしまった。ゼロアは赤い双眸(そうぼう)(ゆが)めて(わら)った。

「力が入らないか? 今投げたナイフには毒が仕込んであるんだ」

 彼は再び自身の勝利が揺るがぬものになったことを確信した。

 しかし彼の視界の中でアイシャが静かに立ち上がると、その確信が揺らぐ感覚を彼は味わった。ナイフが背中に刺さったままの彼女は大きく息を吸って吐いた。再び壁に向かい拳を構えた彼女はぽつりと(つぶや)いた。

「力じゃねえ。不可能を可能にするのは」

 ゼロアは部屋の隅に立つ小さな女を脅威に感じていた。アイシャは(つぶや)くように付け加えた。

「心だ」

 アイシャは疲労する体の奥から湧き出る闘志を双眸(そうぼう)の鋭い光に宿して再び壁を打った。壁には深い亀裂が走った。ゼロアは呆然とした。しかしその代償は大きかった。アイシャの拳から血が噴き出たのだ。

「ぐあっ!」

 アイシャは自身の拳を押さえて座り込んだ。ゼロアはそれを見てアイシャの拳がすでに壊れていることを願った。彼女が二度と立ち上がらないことを願った。彼はもうナイフも爆弾ももっていなかったのだ。

 しかしアイシャは立ち上がった。このときアイシャの拳の骨にはヒビが入っていた。しかしアイシャはその痛みに頓着(とんちゃく)しなかった。

「そんなことして何になる。自分の拳を痛めて。馬鹿々々しい!」

 ゼロアがそう叫んだ。しかしアイシャは(つぶや)くように答えた。

「拳の痛みなんてどうでもいい。もっと痛ぇ思いをしてる奴らがいるんだ」

 アイシャはこのときイザベラをはじめとする彼女がかくまっている傷病者たちの姿を思い浮かべていた。ゼロアは再び叫んだ。

「それはそいつらが弱ぇだけだろ!」

 アイシャはゼロアの方も見ずに、ただ壁の方だけを向いて平然と言い返した。

「そうさ。だから守るんだ」

 アイシャは一つ大きく息を吸うと渾身の力を込めて壁を突いた。先刻ゼロアが投げたどの爆弾よりも派手な音を立てて壁はついに崩れ落ちた。そこにはアイシャが通れるだけの大きな穴が開いており、それは廊下に通じていた。ゼロアは慄然(りつぜん)としつつも声高らかに笑った。

「ははは。大した馬鹿力だな怪力メスゴリラ! だがさすがに今のでお前の拳は壊れてしまっただろ? 理解してるのか? 俺の下まで辿り着くにはもう一枚壁を破らなければならないんだぞ! 不可能だろ? そのままその穴を出て家に逃げ帰っちまえ!」

 アイシャはそれを聞いて一瞬だけゼロアの方を振り向き、疲労でうまく動かない体をひきずるように歩いて穴から部屋を出て行った。それを満足そうに見送ったゼロアだが、数十秒ののちに彼の顔には再び恐怖の色が(にじ)んだ。

 ドン。鈍く重い音が彼の脇の壁から発せられたのだ。ゼロアは様々な可能性にすがったが、それは考えれば考えるほどアイシャが廊下から壁を突く音に他ならなかった。

「よせ…」

 ドン。天井から再び土煙が降ってきた。

「やめろ…」

 ドン。今度は土煙に混じって(れき)の大きさの破片が落ちてきた。それは部屋全体が彼女の突きにより大きなダメージを受けてもろくなっていることを意味していた。

 しかし廊下からする轟音(ごうおん)はそれを潮に止んでしまった。ゼロアはついにアイシャが力尽きたものと信じて笑った。

「はは、ははは…。ついに力尽き——

 しかしゼロアの言葉と期待は次に壁の向こうから聞こえてきた咆哮(ほうこう)により霧散した。

「うぉおおおおおおおおおおおお!!」

 その声は、かつてないほど力強いアイシャの突きをゼロアに想起させた。その一瞬ののち、ゼロアは正面から吹き飛んできた石の(かたまり)により顔を体を強く打っていた。彼は(うめ)いて仰向けに倒れた。

「くっ…」

 致命的なダメージを(まぬか)れたゼロアは上体を起こした。彼が鈍く痛む体で正面を見ると彼の顔は恐怖にひきつった。そこには壁の穴の向こうで仁王立ちするアイシャの姿があった。うつむく彼女は体のあちこちに裂傷を負い、拳からは血を滴らせていた。痛々しい打撲のあとも体中にあり、爆発により(すす)を浴びて黒ずんでいる箇所も多かった。彼女は顔を上げてゼロアの目を見た。凄惨(せいさん)な傷を負っていながら彼女の瞳の闘志はむしろ強まってさえいた。ゼロアは彼女がすでに戦える状態ではないことを願った。そう自身に信じ込ませようとした。彼は立ち上がって笑った。

「はっ。何だボロボロじゃねえか。俺の目の前まで迫れたことは認めてやる。だがお前は骨折に毒に失血に打撲に火傷。まともに戦える状態じゃ——

 彼の言葉が終わる前にアイシャの拳が彼の腹を深く打っていた。その勢いのまま部屋の奥まで吹き飛ばされたゼロアはうずくまりながら喀血(かっけつ)した。アイシャは悠然と歩を進めゼロアの眼前に立った。ゼロアはそれを呆然と見上げて(うめ)くように言った。

「また俺の子分に戻してやる。いや、何なら虎狼会はお前にやる。それでどうだ? 世界をお前の意のままにできるぞ?」

 それを見下ろしながらアイシャは吐き捨てた。

「なんであたしが虎狼会を抜けたと思う?」

 ゼロアは取り(つくろ)うような笑みを浮かべて口走った。

「俺のやり方が気に食わないならお前が——

「自分で守る覚悟ができたからだよ」

 ゼロアは返す言葉を見つけられなかった。

「もうあんたも虎狼会もいらねえ。あたしはあたしの力で守るべき者を守る」

 ゼロアは焦った。

「そこに組織があればさらに——

「組織に頼るからあんたは弱いままで、組織に頼るのをやめたからあたしは強くなれたんだ」

 もはやゼロアに残された手段は嘆願することだけだった。

「アイシャ待て! 一緒に弱者を——

 アイシャは砕けた拳でゼロアの顔面を殴った。彼は反応することすらできずにそれをまともに受けた。顔を仰け反らせ脳震盪(のうしんとう)を起こした彼はそのまま仰向けに倒れて動かなくなった。アイシャは大の字に倒れて動かない男に向けて吐き捨てるように言った。

「弱者はお前だザコが」

 しかしすでに体力の限界を超えていたアイシャも膝から(くずお)れ、うつ伏せに倒れてしまった。中でも失血と毒は彼女の体をゆっくりとしかし確実に死に向けて押し進めていた。彼女は途切れそうな意識の中で(つぶや)いた。

「リヒト…すまねえ…」

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