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こころのみちしるべ  作者: 110108
アーケルシア編
37/102

035.『咎』2

 これにはアイシャとユスティファだけでなく、リヒトまでもが唖然とした。会場の誰もが驚く中で、クライスだけが平然と佇立(ちょりつ)していた。リヒトは追撃を恐れて素早く後方に身を退いた。しかしクライスはそれを静観し、追撃を仕掛けてすらこなかった。彼はただぽつりと言った。

「負けを認めろ。お前は剣闘士ではない。ただの飛び入りだ。命まで取られる道理はない」

 それを聞いたリヒトは冷や汗を垂らしながら口の端を歪めて笑った。

「冗談じゃねえ」

 クライスは目を閉じ、その言葉を「残念だ」とばかりに静かに受け止めた。リヒトは自身を鼓舞(こぶ)するように叫んだ。

「うああああああああああ!」

 リヒトは折れて半分ほどの長さになった「新月の(またた)き」とともにクライスに向けて正面から突進した。これにはアイシャがたまらず叫んだ。

「リヒトやめろ!」

 しかしリヒトは止まらなかった。目を開けたクライスは無表情なままでロングソードを振り上げた。

 リヒトは急激に突進の勢いを殺し、クライスの数メートル手前で止まった。クライスの剣は空を切って地に落ちた。どん!という地鳴りのような音とともに土煙が舞った。うまく攻撃を(かわ)されたクライスだがさして驚きも慌てもしなかった。リヒトは手にした折れた刀をクライスの顔面に向けて投げつけた。これには少し顔色を変えたクライスだったが、しかし彼は冷静にそれを持ち上げたロングソードの腹で弾いた。しかしそのあとこそがリヒトの本当の狙いだった。

「新月の(またた)き」

 リヒトのその一声とともに、クライスが弾いて空中をくるくると回転しながら舞っていた剣は光となって霧散し、リヒトの胸から新たな刀が創出された。その刀は折れる前の元の長さを取り戻していた。クライスは目を見開いた。それを素早く(つか)み取ったリヒトはクライスに向けてそれを突いた。クライスもまた慌ててリヒトに向けて剣を振った。

 二つ剣が空を擦過(さっか)する音とともに、コロシアムに静寂が訪れた。リヒトの刀の切っ先はクライスの喉元に突き付けられていた。他方、クライスの剣の刃先はリヒトの首筋に据えられていた。

 静寂は一瞬にしてどよめきに変わった。リヒトは笑っていた。対照的にクライスはその顔に驚嘆(きょうたん)の色を浮かべていた。しばらくののちに二人は同時に跳び退いた。クライスが先に口を開いた。

「なるほど、何度も同じ剣を出せるのか。やっかいだな」

「お前こそデカいクセに正確で素早い剣戟(けんげき)をもってんじゃねえか」

 クライスはやや間を置いてから言った。

「お前が素晴らしい能力の持ち主であることはわかった。同時に素晴らしい使い手であることも」

 リヒトは笑ってそれを聞いていた。クライスはやや顔を上げて冷厳とした目をリヒトの双眸(そうぼう)に据えた。

「だがそれまでだ」

 クライスは硬い声で続けた。

「この国を変える力はお前にはない」

「言葉ではなくあくまでも実力で」と腹を決めたリヒトは無言で刀を構え直し、それを返事とした。クライスもまた剣を構えてそれに応じ、苦言を呈した。

「くどい」

 リヒトは叫んだ。

「妖魔刀術・這影(しゃえい)

 するとリヒトの刀は真っ直ぐクライスに向かって伸びた。クライスはその顔にわずかに驚きを見せ、ロングソードでそれを弾こうとした。しかし——

「妖魔刀術・歪棘(わいきょく)

 その声とともにリヒトの伸長した刃は素早く急激に曲がってクライスの顔でも胴でもなく足元に向かって伸びて行った。弾き返すために下半身に力を込めていたクライスはこれに反応しきれず、彼が足を引く前に刃先はそこに達した。衝撃がクライスの足元に走り、彼は(うめ)いた。

「くっ!」

 アイシャとユスティファは歓喜の声を上げた。

「やった!」

 リヒトが伸ばした刃は光となって霧散し、元の長さの日本刀がリヒトの手元に残った。会場の誰もがクライスの受けたダメージの度合いを気にした。しかし彼の足から血液がこぼれている様子はない。と、そのときだった。

——パリン。

 澄んだ金属音とともに彼の足枷(あしかせ)が割れ、乾いた音を立てて地に落ちた。先ほどのリヒトの攻撃は最初からこの足枷(あしかせ)を狙って放たれたものだったのだ。クライスはやや気色ばんでリヒトを(にら)んだ。

「どういうつもりだ」

 リヒトは不敵に笑った。

「全力のお前を全力をもって凌駕(りょうが)する。それが俺の流儀だ」

 クライスはふっと笑った。

「そうか。能力と技量だけでなく気構えも一流らしい」

 彼は剣を構え直し言葉を継いだ。

「だが見くびったな。足枷(あしかせ)のない俺はさらに速いぞ」

「それでいい」

 リヒトもまた構えた。

「それでこそ命の賭けがいがある」

 クライスは口の端を(ゆが)めた。

「見上げた男だ。その意気に俺も全力で応えよう」

 それで二人の会話は終わった。静寂がコロシアムを包んだ。

 またも先に仕掛けたのはリヒトだった。正面から突進し、跳び上がって大上段の構え。クライスは受ける剣を構え目を(すが)めた。

(最初と同じ攻撃…?)

 リヒトは振りかぶった刃を思い切り振り下ろした。クライスはそれを受け止めようとしたが、その腕と剣が受けるべき衝撃はリヒトが地に降り立っても伝わってこなかった。クライスは目を見開いた。空中でリヒトは剣を消したのである。

「新月の(またた)き」

 リヒトが地に降り立つのと彼が胸に手を当てて光の剣を創出するのは同時だった。彼は素早く空中の剣を(つか)み取った。しかしそこはすでにクライスの間合いの内だった。やや(きょ)()かれたクライスだが、相手が間合いの内にいるなら先に斬れば良い道理。彼は攻撃を受けるために刃を上に向けていた剣を素早く寝かせてリヒトの首を跳ね飛ばすべくそのまま横に()ぎ払った。しかしリヒトは素早くしゃがみ、クライスの()ぎ払いは空を切った。リヒトは叫んだ。

「妖魔刀術・閃影(せんえい)

 すると彼の剣から急激にまばゆい光が発せられた。クライスは目を開けていられぬほどだった。しかしそのまま立ち(すく)んでいてはリヒトに斬られてしまう。目が見えなくなった彼は自身の直感を信じて剣を振り下ろした。素早く後方に跳び退いたリヒトはわずか数センチの差でクライスのその攻撃を(かわ)していた。大きくクライスから距離を取ったリヒトは叫んだ。

「妖魔刀術・這影(しゃえい)

 リヒトの刀はクライスに向かって伸長した。クライスはその技を覚えていた。彼は歯噛みして胸中で独りごちた。

(伸びる剣か…。ならば気配を探るのみ)

 まだ目の見えない彼は神経を研ぎ澄ました。彼の超人的な感覚は真っ直ぐこちらの頭に向かって伸長する刀身の気配を正確に感じ取っていた。クライスはそれを弾こうと剣を構えた。しかし——

「妖魔刀術・歪棘(わいきょく)

 その一声とともに刃はぐにゃりと曲がった。クライスは焦った。剣の軌道が変わり急激に気配を辿りづらくなったためだ。歯噛みした彼はならばと一か八かの策をとった。すなわち、突進である。相手の刃の軌道が読めないなら、相手の刃が当たる前にこちらが相手を仕留めれば良い。クライスは素早くリヒトとの距離を詰めた。

 クライスは剣を振り上げた。ちょうどその頃クライスの視力は戻りつつあった。薄く開けた目で彼はリヒトを視認していた。しかし同時にリヒトの刃が横合いから自身に迫って来る気配を感じてもいた。こちらの攻撃が当たるのが先か、それとも相手の刃がこちらに当たるのが先か。素早く頭の中でシミュレーションしたクライスは結論として後者であると判断した。クライスは攻撃をやめ、横合いから迫る刃を弾くために体勢を整えた。クライスは向かってくる刀身に合わせて剣を振った。しかしこのとき彼の視力は万全ではなく、まだ彼は目を(すが)めながら戦っており、視野は狭かった。リヒトの刃はさらにぐにゃりと曲がり、下方に伸びた。クライスはそれを視認できず、彼には刃が消えたように見えた。下方に伸びた刃は再びぐにゃりと曲がって上方に伸びた。それはクライスの喉元に達して伸長をやめた。クライスは目を見開き、動くのをやめた。妙技の数々と圧巻の決着を見せられて唖然とした客はまだまともにどよめくこともできずにいた。クライスは笑った。

卑怯(ひきょう)な技だな」

 リヒトも笑った。

「クライス、一度でいいから俺に力を貸してくれ。それだけの力だ。せめて一度くらいいいことのために使ってみろ。その上でもし俺のやり方が気に入らないなら俺を見捨てて構わない。ここに戻って来たいならそうすればいい」

 クライスはあと数センチのところで繋がっている自身の命について考えた。思い返せばそれは兵士になると決めた日に捨てると覚悟したものだった。さらに剣闘士になった日に諦めたものだった。どうせ捨てるくらいなら、諦めるくらいなら、一つ賭けでもしてみようか、このわけのわからない男に。クライスはこの期に及んで自身の内に芽生えた遊び心に自嘲(じちょう)した。彼は闘技場のほこりっぽい地面を見た。観衆の下卑(げび)た笑みを見た。耳障りな声を聴いた。石造りの建物の彫刻の悪趣味な意匠(いしょう)を見た。その上に広がる青い空を見た。彼は晴れやかな顔で言った。

「いや、もうここには興味がない。どこへなりとも連れて行け」




 こうして最強の剣闘士クライスと最強の飛び入り参加者リヒトとの決闘はリヒトの勝利で決着を見た。リヒトはクライスの身柄を引き取ることをコロシアムの運営に申し出た。クライスはリヒトと主従関係を結び、その日のうちにリヒトが騎士団庁舎の兵舎に居室を借りてクライスをそこに引き移らせた。クライスがコロシアムの外の空気を吸うのは三年振りの出来事だった。

 その翌日、クライスは何の感慨もなく騎士団庁舎の二階の中央廊下を歩いていた。長く傭兵を務めていた彼だがそこを歩くのは初めてだった。最前線に立たされる傭兵稼業の者にとってその建物は縁のないものだった。彼らにとって中央の騎士団庁舎は「前線に(おもむ)くことのないエリートたちの引き(こも)る安全な場所」だった。歩くクライスの巨体を見る騎士たちは好奇と驚異のいずれかの視線を彼に向けた。彼らの目はこう言っていた。これが傭兵か。何だこの巨体は。なぜこのような野蛮人がこの聖域にいる。クライスはそのような視線に慣れていた。コロシアムはまさに大勢の観衆からそのような視線を向けられる場所だった。コロシアムの客には上流の市民が多かったが、今それが市民から兵士に変わっただけのこと。クライスはそのような達観とともに通路を足早に通り抜けた。彼はその通路の最奥の部屋に辿り着くとノックもせずにドアを開けた。彼はそのまま空いている席に挨拶もせずに座るつもりでいた。会議中にもほとんど口を開かないつもりでいた。俺は物言わぬ傭兵。作戦なら騎士王が勝手に決めればいい。俺はそれに従うのみ。会議など最前線を知らぬ者の(たわむ)れ。

 部屋に入った彼の視界に最初に飛び込んできたのは奥に座すリヒトの笑顔だった。

「よお」

 クライスは何かそこに不思議なものを感じた。

「ああ」

 そう言って彼は気のない返事をした。次に目についたのは窓際に座るポニーテールの女の笑顔だった。彼女は自身の隣の席をバンバンと叩いて言った。

「立ってねえで座れよ」

 クライスは呆然としながら答えた。

「ああ」

 彼はやや戸惑いながら歩を進め、言われるままに彼女の隣に座を占めた。巨体の彼には小さな椅子だったが、彼が座っても壊れそうにはなかった。女は小柄だが、大男が隣に座っても何も感じていないどころか、むしろ彼女は機嫌が良さそうだった。

「紅茶でいいですか?」

 若い騎士らしい男が反対側からクライスにそう問いかけた。彼は手にティーカップとポットを持っていた。クライスは味も知らない紅茶とかけられたことのない気遣いに恐縮しながら言った。

「ああ…」

 紅茶を注ぐ青年にもクライスに対する驚異や好奇の視線を感じなかった。

「どうしたお前さっきから「ああ」しか言ってねえぞ」

 そう言ってリヒトがクライスを茶化した。クライスはリヒトに目を向け、やや戸惑いながらこう(たず)ねてみた。

「お前ら…俺が怖くないのか…?」

 三人は互いの顔を見合わせた。やや間をおいてリヒトが(いぶか)し気に答えた。

「怖かったら仲間にしねえだろ」

 クライスはアイシャとユスティファを見た。二人ともリヒトと同じ顔をしていた。クライスはぽつりと言った。

「ああ。そうだな…」

 彼は会議が始まると戸惑いがちに紅茶を口にした。初めて飲む紅茶は甘く、その温かさが体に染みた。




 アーケルシアの中央には王城がある。旧時代的な黒々とした石造りのそれは大きく荘厳(そうごん)で、王の威厳(いげん)を示すには良い面構えをしていた。だがその実質的所有者は騎士王ではなかった。また、それは先代騎士王が先日崩御(ほうぎょ)したからではなかった。約一年前に騎士団がルクレティウスとの戦争に腐心する間隙(かんげき)を衝かれ、その所有権を力づくで奪われたからだ。この国の、いや、この世界の最大の犯罪組織・虎狼会によって。

 その最上階の「王の間」は非常に広く、しかしそこからは本来あった絨毯(じゅうたん)も調度品もシャンデリアも取り払われ、玉座くらいしか残されておらず、そこは昼でも薄暗かった。虎狼会の首領・ゼロアは足を組み、(あご)を手に乗せ玉座に位置を占めていた。先日先代騎士王の葬送の際にリヒトに視線を送った赤い瞳の男である。彼はすぐ脇に女を一人立たせていた。目だけを隠すようにヴェールを被った美しく白い肌と細長い手足をもつ女だ。また彼は正面に三名の屈強な部下を(ひざまず)かせていた。ゼロアは彼らを睥睨(へいげい)して言った。

「よく来たな」

 ゼロアの赤い瞳は薄暗い部屋の中で怪しく輝いた。彼は口の端を吊り上げて(わら)った。

「さあ決めよう。この世界の趨勢(すうせい)を」

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