033.『賭け』2
アーケルシアにはムーングロウ最大の歓楽街がある。飲食店、風俗店などが建ち並ぶその景観の中に一際異彩を放つ巨大な建造物がある。短い円柱の形をした白い石造りのその建物は中央がすり鉢状になっていて最大五百名を収容できるアーケルシア最大の娯楽施設だった。施設の名はコロシアム。罪人同士を戦わせ、その凄惨さと迫力を見世物と賭博のネタにする狂気の坩堝だ。石造りの巨大な建物のそこかしこには龍や鬼や虎を模したおどろおどろしい意匠の彫刻が施され建物全体に漂う狂気のほどを深めていた。コロシアムは週ごとに一度開催され、今日がちょうどその開催日だった。
先ほどの騎士団庁舎での会話の数時間後、リヒトとアイシャとユスティファは高くそびえる石の壁を並んで見上げていた。呆然とするリヒトとユスティファをよそにアイシャは誇らしげだった。リヒトはぼそりと呟いた。
「剣闘士か、なるほど」
ユスティファは呆然と言った。
「たしかに戦いのプロ…ですね…」
アイシャは得意げに言った。
「だろ?」
高い午後の日に照らされて、コロシアムの白い石造りの外壁はまぶしく輝いた。試合開始時間はすでに近く、立ち止まる彼らの傍らを何人もの客が過ぎて行った。彼らの多くはこれから興じる観戦と賭博に心を躍らせていた。異なる目的で来たリヒトも否応なく期待に胸躍らせた。たしかにここなら虎狼会討滅の切札が掘り出せるかもしれない。すでに観客席の歓声と熱気は場外の三人にまで伝わってきていた。
コロシアムの裏手には剣闘士の控室があった。リヒトはスタッフに騎士王の名を告げることでそこへ入ることを許された。足を踏み入れるとしかし控室とは名ばかりでそこは紛れもなく牢獄だった。戦力を発掘しに来た彼らだが、檻の中を見ると実に様々な者の姿があった。病気をもっているのだろうか、おかしな姿勢で何事かを呻きながら体を前後に揺すり続ける男。筋骨隆々で自身に満ちた笑みを浮かべる男。次の試合への備えか鉄格子で懸垂をする男。痩せて動かない男。
その中に取り分け異彩を放つ者が二人いた。一人は入口に近い房の中で静かに座っていた。身の丈二メートルにも及びそうな長身だが筋張ったシルエットに無駄のないしなやかそうな筋肉が宿っていた。彼が静かに放つオーラは紛れもなく戦場を駆け抜けた騎士のそれだった。リヒトは率直に強そうだなと思った。
もう一人は突き当りの房の隣の独居房にいた。彼もまた身の丈二メートルにも及びそうな長身の持ち主だったが、先ほどの男と大きく違うのは体重が百五十キロを超えていそうなほどの豊満な体の持ち主という点だった。彼は床に胡坐をかいていたが、リヒトを見ると眼光を鋭くしニヤリと不敵に笑った。
リヒトは通路の左右に並ぶその薄暗くむせ返るようなにおいに満ちた世界を見ながら歩いた。振り返ると集団房の誰もがリヒトに睨みを利かせていた。リヒトは今まで知らなかった剣闘士たちの生活の実情に触れてその苛酷さに少なからず驚いたが、表情には出さないようにした。先日のビュルクへの逗留といい、貧民街へ行った経験といい、この「控室」といい、リヒトはアーケルシアのまだ見ぬ側面が様々にあることを思い知らされた。リヒトはすべての房に聞こえるように呼びかけた。
「俺はアーケルシア騎士王リヒト。虎狼会討滅のために貴公らから助力を得たい。俺とともに前線で戦う意思のある者はいるか? その者には自由な暮らしを約束しよう」
すると後ろから一つ、声がした。
「へぇ、あんたがリヒトか…」
リヒトはその挑戦的な声のした方へ冷徹な目を向けた。それは突き当りの隣の独居房のあの巨漢だった。巨漢はやおら立ち上がった。するとその迫力は倍するほどに増した。
「俺はダルトン。元アーケルシア騎士団東方分隊長。俺を知らない者はいないほどの歴戦の猛者だ」
ダルトンと名乗った巨漢はそう言って威圧したがリヒトはまったく動じなかった。
「そうか。ぜひ力を貸してくれ」
ダルトンはリヒトの誘いを鼻で笑い飛ばした。
「馬鹿かお前。見ろこの牢獄を」
ダルトンはそう言って周囲の牢獄を見渡した。リヒトもそれに促されて周囲の薄暗い世界を見た。そこには深い闇と金属と土の無機質さと絶望に苛まれ鬱屈したまばらな瞳があった。
「ここに騎士道なんてねえんだよ!」
リヒトは再び冷厳とした瞳をダルトンに据えた。
「あるのはこのコロシアムで殺戮と頂点を極めてえっていう欲望と、せめて楽に死にてえっていう末期の祈りだけだ! それにな、コロシアムで頂点を極めた者は貴族の私兵として自由を手に入れられるってルールがあんだよ。わざわざてめえと今さら騎士道ごっこやる理由なんて微塵もねえんだよばーか!」
リヒトはダルトンの挑発をまったく意に介さず呼びかけた。
「他に希望者はいないか?」
しかしリヒトとは対照的に剣闘士たちはダルトンに気圧されたようで、その呼びかけに応える者はいなかった。入口の巨漢はリヒトに目もくれていなかった。
「ちっ、交渉決裂か」
アイシャは舌打ちをした。三人はそれを潮に控室棟をあとにした。
控室の外に出るとすぐにユスティファがアイシャに詰め寄った。
「おい、どうすんだよ!」
しかしアイシャは冷静だった。
「安心しな。剣闘士を幕下に加える方法はひとつじゃない。むしろこれから取る手段の方が正当なものだ」
アイシャはそう言うとコロシアムの入場ゲートへと進んで行った。やや戸惑いつつも二人もそれに続いた。賭博場であるコロシアムに騎士団員である自分たちが入場できるのかとユスティファは心配したが、実のところ入場料さえ払えば相手の身分は問わないらしく、すんなり入ることができた。周りを見渡すとアーケルシア騎士団と思しき人物は自分たちの他にもちらほらと見かけることができた。
観客席のゲートをくぐるとその歓声のボリュームは耳をつんざくほど大きくなった。二人は唖然としたが、アイシャは慣れているのか二人を置き去りにして予約席へと迷わず歩を進めて行った。二人はスタジアムの熱気に気圧されつつもその小さな背中に続いた。
不意に金属のこすれ合う重たい音が響いた。選手の入場口の巨大な檻が開いたのだ。それを潮に観客席はさらに沸き立った。コロシアムは内壁も石でできており、その入場口にも悪魔の口を模した彫刻が刻まれていた。そこから燕尾服の男が現れた。彼は闘技場の中央へと悠然と歩を進め、観客に向けて慇懃なお辞儀をし、その挙動に似合わぬよく通る大きな声を轟かせた。
「紳士淑女のみな様、ようこそおいでくださいました。本日も咎人の殺し合いを心ゆくまでお楽しみください」
三人が席に着くと、剣闘士制度をよく知らない二人のためにアイシャが説明の口を開いた。
「この国は囚人同士を殺し合わせてそれをギャンブルのネタにし、税金を稼いでる。ここの運営にも虎狼会が一枚噛んでるって噂だ。国と虎狼会は対立してるようでいて実は密接に繋がってる部分もある」
二人は言葉を失った。進行役の男の話は続いた。
「戦いはいずれかが死ぬまで続きます。もちろん観客席からの飛び入り参加も結構でございます。ただし飛び入り参加の場合はどちらかが負けを認めればそれで試合を終了といたします。飛び入りの方が勝った場合は負けた囚人の生殺与奪を好きにできます。逆に飛び入りの方が負けた場合はこの限りではございません」
ユスティファは嫌な予感がしてアイシャを見た。彼女は不敵に笑っていた。
「それでは早速参りましょう。第一試合、選手入場! 東、本日が初戦となります、窃盗罪懲役三十五年、貧民街出身、ハビエル!」
司会が現れたのとは反対側の壁の入場口の檻が開いた。すると進行役の男に負けない大声が響いた。
「いやだあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ボロ切れを着た痩せた男が兵士たちに杈で押し出されて闘技場に現れた。男は必死に抵抗するがもともと痩せている上に屈強な兵士三人に杈で押されては敵わない。するとアイシャたちの前の席で二人の兵士が笑いながら話し出した。
「あいつ俺が捕まえてやったんだぜ」
「どうせ濡れ衣だろ?」
「当たり前だろ?」
「悪いヤツだなハハハハハ」
リヒトとユスティファのためにアイシャは言葉を補った。
「兵士たちは私怨や享楽のために罪をでっちあげ無実の人を闘技場で戦わせることがある」
ユスティファは眉を顰めて目を伏せた。リヒトは憎悪の念を顔中に滲ませた。痩せた男は一メートル、一メートル五十センチ、二メートルと徐々に入場口から遠ざけられていった。
「あ、あ、やめて、やだ」
三人の兵士はタイミングよく息を合わせて杈を引いた。男の体は急に自由になり、それによって前のめりにバランスを崩し、伏して倒れた。そこで門の脇の裏に立っていた兵士が慣れた手つきでタイミングよく檻を吊り上げる鎖の留め具を外した。男は必死に体を伸ばした。すると勢いよく降りて来た檻の下端の鏃の一つが男の右手の甲の真ん中を貫いた。
「ぐあああああああああああああああ」
男の呻き声が響いた。観客席からは笑いが起きた。続けて進行役の男の声が響いた。
「西、十五戦十五勝! 現役二位のランカーです! 強姦罪三年! ダルトン!」
歓声が沸いた。開け放たれたままになっていた反対側の入場口から、じゃらりじゃらりと足枷を引きずる音を立てて先ほど「控室」でリヒト相手に豪語したあの二メートルに達する屈強な大男が現れた。右手に巨大なシミターを携える大男は観客席に向かって笑顔で両手を突き上げた。それに呼応して歓声も一際大きくなった。アイシャは冷ややかな目で闘技場を見下ろし呟くように言った。
「これが今のアーケルシアだ」
ユスティファは愕然とした顔をアイシャに向けた。進行役の男は邪な笑みを浮かべ一礼し、ダルトンが登場したゲートに消えて行った。ハビエルと紹介された痩せた男は手を射抜かれたまま必死に後ろを振り返った。ダルトンの巨体とスタジアムの歓喜を目の当たりにした彼は自身が逃れようのない「公開処刑」に瀕していることを悟った。ハビエルは檻を見上げた。そこには三つの下卑た笑顔があった。
「け、剣をくれ! 相手も武器を持ってるんだから!」
一人が笑顔のまま困ったように眉根を寄せて言った。
「え~、どうしよっかなあ……………………」
「は、はやく!」
「え~、しょうがないなあ……………………」
兵士はたっぷりと時間を使って困惑したフリをし、たっぷりと時間を使って剣を檻の隙間から闘技場の地面に落とした。だが剣が落ちたのはハビエルの左手がわずかに届かないところだった。彼は愕然とした。
「何で!」
彼が兵士たちを見上げると先ほどより愉しそうに笑う顔が三つ並んでいた。ハビエルは振り向いた。巨大なシミターを携えた巨体はすぐそこまで迫って来ていた。彼もまた観客たちや兵士たちと同じ笑みを浮かべていた。
「い、い、いやだ!」
ハビエルは必死に左手を剣に伸ばした。だがあと数センチ剣に手が届かなかった。彼はそれでも無理に手を伸ばした。すると自然と右手の傷が開く格好になった。
「ぐあああああああああ…」
彼は呻いた。汗とも涙ともつかないものが彼の顔から滝のようにこぼれて乾いた土に小さな染みをいくつもつくった。彼の左手はやっと剣に触れた。彼は痛みをこらえてさらに手を伸ばした。彼の右手からは肉とも骨ともつかないものが引きちぎれる音がした。
「ぐぅううううう…」
彼はこめかみに血管を浮かび上がらせ、顔を紅潮させ、目を血走らせながら狂ったように声を上げた。それを見ていた兵士たちはきゃっきゃと歓喜の声を上げた。観客も同様だった。ハビエルの左手の指がついに剣にかかった。彼はその指先に必死に力を込めてそれを手繰り寄せた。
「ぐんんんん…」
剣は数センチ手前にずれた。そこからは速かった。指の第一関節が剣の柄にかかり、指全体がかかり、ついに彼は剣を手繰り寄せて握った。彼はほんの少し哀しげな笑顔を見せた。死に際に神様でも見たような笑顔だった。彼は剣を自身の首筋に当て、固く目を閉じた。
しかし次の瞬間、剣は彼の手を離れて十メートルほど先の空中を舞った。ダルトンがシミターで弾き飛ばしたのだ。ハビエルの剣は棒切れのように音を立てて地を跳ねた。ハビエルは呆然とした。その日一番の笑い声が三百六十度の客席から彼の耳に降り注いだ。客の声に割って入るように低く重たい声がハビエルの耳を叩いた。
「ダメじゃねえか。ちゃんと戦わねえと。剣闘士なんだからさ」
ダルトンは眉根を寄せて困ったような笑顔を作ってハビエルを見下ろしていた。ハビエルは自分の頭上に佇立する巨体と笑顔を見て自身の運命を悟った。彼は嘆願するように言った。
「…殺してくれ」
そこには「せめて楽に」という意味が言外に添えられていた。それを聞いてダルトンはがっかりしたような顔をした。彼は何気なくシミターをハビエルの足の裏に突き立てた。ハビエルは呻いた。
「あああ…!」
「アハハハハハハ。ずいぶん元気になったじゃないか。人間元気が一番!」
ダルトンは高笑いした。檻の向こうの兵士も腹を抱えて笑った。ハビエルに罪を着せた兵士たちも笑った。客席中が笑った。
そのとき、リヒトははっきりと自身の心音を聞いた。それとともにリヒトの思考の中央で黒い靄のようなものが首をもたげ、わだかまった。それはマリアが誘拐されたときにケーニッヒに対して覚えた憎しみと似た感覚だった。黒い靄は透明な水の中をゆっくりと広がり、十年、百年経っても自然の浄化作用では到底元には戻らないような濁りを生んだ。それは不快な感情だった。だがどこか心地よくもあった。リヒトはそれを恐れた。だが同時にそれに陶酔し、それに身を委ねた。
彼は立ち上がった。それを見上げたユスティファの胸中がざわついた。
「ちょっと、どうするつもり——
しかしユスティファがリヒトの袖を掴むより早くリヒトは跳び上がって闘技場と客席とを隔てる塀の上に着地した。
「リヒトさん!」
ユスティファが呼びかけた。アイシャも唖然としていた。リヒトは一度だけ振り返って二人に笑顔を向けた。彼は次の瞬間にはすとん、と猫のように闘技場に舞い降りた。それに気付いた一部の客がざわついた。リヒトは構わず闘技場の二人のところへ歩を進めた。西側の入場口の檻が開いた。そこから慌てて進行役が出て来た。
「一体何ですか! あなたは誰ですか!?」
リヒトは平然と答えた。
「俺は騎士王のリヒトだ。飛び入り参加を申し込む」




