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こころのみちしるべ  作者: 110108
アーケルシア編
28/102

026.『深い森』1

 アストラは笑顔を男に向けた。

(いさぎよ)く出て来たか。まあその意気だけは認めてやろう」

 一方の賊は潜入を看破されたことにさして驚いた様子もなかった。

「よく気付いたね。さすがは元アーケルシア騎士王」

 アストラは片方の眉を吊り上げた。

「そういうお前は誰だ? まあ、暗殺者か何かなんだろうけど、人の素性を調べといて自分は名乗らねえってのはねえよな」

 賊は少し間を置いてから挑発的に言った。

「死体に聞かす名前はねえよ」

 アストラは口の端を吊り上げて立ち上がった。彼が立ち上がると膝掛けと肩掛けはするりと床に落ちた。その拍子に暖炉の火がゆらめき、(まき)はばちっと乾いた音を立てた。立ち上がると彼の体躯(たいく)の大きさは小柄な賊に比して際立った。

「つまり暗殺者か。まあ、あんまり感心しねえな」

 アストラは悠然と壁際へ歩を進めた。そこには大きな槍が掛けてあった。

「こそこそ隠れて人の命を狙おうっていう根性がまず気に入らねえ」

 侵入者の男は何をするでもなくアストラの様子をただ眺めていた。アストラは槍を手に取るとその重さと長さを確かめた。次に彼は目を細めて刃先の鋭さを確かめた。

「そもそも暗殺者という職業が気に入らねえ。相手に名を名乗らねえという根性も気に入らねえ」

 彼は少し壁から離れると二三度槍を振り回した。それは常人の筋肉と技術では到底成し得ない素早い槍(さば)きだった。びゅんびゅんと穂先(ほさき)が風を切る音が鳴り、やや遅れて暖炉と燭台(しょくだい)の火が大きくゆらめいた。アストラは自身の腕に狂いがないことを確かめてから男を見た。

「何より、お前ごとき小物が俺に勝てると思ってるところが気に入らねえ」

 賊はそう言われてなお挑発的な笑みを崩さなかった。アストラは目を(すが)めた。

「語る口もねえか。なら行くぜ」

 アストラはやや腰を落とした。彼は部屋の入口に佇立(ちょりつ)する賊に対し、到底槍が届かない遠い間合いから槍を突いた。すると突きの衝撃波が賊の顔面へと迫った。男は目を見開き跳躍した。賊は紙一重でそれを(かわ)し、衝撃波は賊の足元を通り抜けていった。その先にある廊下の壁には大きな放射状の陥没ができた。攻撃を(かわ)されたアストラだが、しかしそこからが彼の真の狙いだった。賊は中空で身をひねりながら目だけアストラへ向けた。するとアストラの目には獲物を仕留める獰猛(どうもう)な獣の赤い光が灯っていた。アストラは先刻よりさらに深く腰をかがめ、すでに突きの構えに入っていた。彼は空中から落ちてくる賊の体を先刻と同じ衝撃波で穿(うが)とうとしていたのだ。アストラが一瞬ののちに突きを放てば男の腹には深く大きな穴が開く。

 しかし決着はそのようにはつかなかった。地に足をつけた賊は衝撃波が彼の体を貫くよりもほんの一瞬だけ早く消えたのだ。アストラは目を(すが)めた。それはまさに「消えた」と形容すべき事象だった。賊は目にも止まらぬ速さで空間を移動し始めたのだ。アストラは心中で(つぶや)いた。

(想像以上の速さだ…。こいつぁ早めに仕留めとくか…)

 賊は部屋の中を素早く移動し続けつつ、アストラとの間合いをはかっていた。アストラはその動きを目と感覚で追った。常人ではできないことだが、常人ならざる彼には可能だった。彼は槍を構え直し、タイミングを見計らった。やがてついにそのときは訪れた。

(今だ…!!)

 彼は突きを放った。それは空間を素早く移動していた賊の左肩を(かす)めた。

「くっ…」

 賊は痛みに(うめ)いた。彼の体は床を転がり壁へとぶつかった。彼は素早く目を開け上体を起こした。

 しかしそのときにはすでに目の前にアストラの槍の穂先の白刃の(ひらめ)きがあった。賊は目を見開いた。上からアストラの飄々(ひょうひょう)とした言葉が降って来た。

「さて、今度こそいろいろ答えてくれるよな?」

 槍の穂先は男の喉に据えられており、アストラがほんの少し力を込めて槍を押し出せば賊は絶命するという状況だった。賊は肩を押さえながらアストラを(にら)み上げていた。

「お前の目的は俺を暗殺することか?」

 賊は痛みに(うめ)きつつ答えた。

「それもまあ一つだ」

 アストラは満足そうに(うなず)いた。

「他にもまだあると?」

 賊は言った。

「禁書はどこだ」

 アストラは笑った。

「なるほど。俺の命と禁書か。まあ暗殺家を差し向けるには妥当な理由だな。だがまあ禁書はもうこの家にはない。場所を教える気もない」

 賊は痛みに(うめ)きながら笑った。

「ちなみに次にお前に雇い主を聞こうと思ってたところだが今のでお前の雇い主が誰かもわかった」

 アストラは続けた。

「で、お前の名前は?」

 賊は一拍置いてから答えた。

「シェイド」

 アストラは眉を吊り上げた。

「そうか。ようやく答える気になってくれたか。まあ感心だな。シェイドっていや大陸一の暗殺家として有名じゃねえか」

 シェイドと名乗った賊はそれには何も答えなかった。

「で、お前金で動いてんのか?」

 シェイドは(いぶか)し気にアストラを見た。アストラは楽しそうに言った。

「お前ほどの力があるなら騎士団で厚遇できるぜ。まあ、俺は騎士団もう辞めてんだけどな」

「目的は金じゃねえよ。金もらってんのは事実だけど使う気もねえし」

「そうか」

 アストラは少し考えてから神妙な声音で(たず)ねた。

「お前は人生に意味があると思うか?」

 シェイドは再び目を(すが)めた。

「唐突な質問だね」

「いや、まあお前ならわかってくれるかと思ってな」

 シェイドは少しだけ考えてから答えた。

「そりゃこっちが聞きてえよ」

「なるほど。そりゃそうか」

 しばしの沈黙が訪れた。先にアストラが口を開いた。

「これ以上の会話は意味がなさそうだ。そろそろ終いにするか」

 シェイドはそれを聞いて諦めたように笑った。

「そうだな」

 その顔をアストラはじっと見た。

「なかなか(いさぎよ)いな。誰のことを恨む必要もない。お前はお前なりに必死に生きた」

 シェイドは笑った。

「あんたもな」

 アストラからはもう言葉はなかった。代わりにアストラは槍を握る手に力を込め、肘を少しだけ引いた。シェイドは静かに目を閉じた。目と下半身に力を込めたアストラは引いた肘を一息に伸ばした。暖炉の火に照らされて白刃が(ひらめ)き、血しぶきが(ほとばし)った。




 アストラの翌日の食事のため食材の買い出しをしていたマリアが(やしき)に帰って来たのはそれから数分後のことだった。彼女は外出していたため二人の戦いによる一連の物音を聞かなかった。彼女はしかしその日来客がないはずであるにも関わらず、(やしき)の中に別種の気配があるのを玄関で察知した。彼女は玄関を入ってすぐ右手の廊下の奥を見た。明るい金持ち然とした家をアストラが嫌ったため、(やしき)はいつも暗かった。しかしその日の廊下にはいつもと違う「暗さ」があった。いつもの暗さはあくまで自然が織りなす夜の闇だが、今マリアがその廊下に立って感じているのは何者かの作為によって人工的に染められた隠微(いんび)な暗がりだった。彼女はそれを見つめたまま立ち止まっていた。その先は危険だと本能が伝えていた。

 しかしその先に危険があるならば、その先に居室をもつアストラは今まさに危険にさらされていることになる。彼の安否が気がかりになった彼女は玄関に買い物袋を置き、本来向かうべき調理室ではなくアストラの書斎へと歩を進めた。彼女は嫌な予感がただの杞憂(きゆう)であることを願った。しかしそう片付けることのできないほどの(ばく)としながらもねっとりと肺腑(はいふ)にこびりつく予感が彼女にはあった。彼女の足取りは早くなった。

 それは彼女が廊下の途中の丁字路を横切ろうとしたときのことだった。彼女は何かの気配を左手に覚えぞくりと背筋を震わせ立ち止まった。彼女は恐る恐るそちらに視線を向けた。そこには何か黒いものがあった。黒い点。いや、影。それはゆらめいていた。「生きている」と彼女は感じた。それは視線を放ち、それをマリアに据えていた。両者は目が合った。それは日常の景色に紛れ込んだ異質な何かだった。見たこともない人影。マリアは逡巡(しゅんじゅん)しながらも「あなたはどなたですか?」と聞いてしまいたくなった。しかし声はむしろ向こうが発した。

「ちょっと聞きたいんだけどさ、あの中庭の花って誰が育てたの?」

 それは若い男の声だった。飄々(ひょうひょう)として屈託のない、子どものような声。マリアは唇が震えてうまく声を出せなかった。細い階段から男は腰を上げた。周囲の闇よりも一層暗い陰惨(いんさん)な気配がわだかまり、マリアは(おび)えのせいでうまく動けない体で一歩だけ後ずさりした。歩を進めたシェイドは暗がりから出て来た。月明かりに照らされて浮かんだ彼の顔は友好的に笑っていた。

「安心してお姉さん。俺はあんたの命を奪おうとは思わないからさ」

 マリアは言われた通り落ち着こうと思って顔を引きつらせたままゆっくりと呼吸をすることを心がけた。彼女はようやく口を利くことができた。

「あれは…前に…ここで働いていた方が…」

 しかしそれ以上うまく声を出すことができなかった。彼女の直感は目の前の一見小柄で飄々(ひょうひょう)としている男が、その実もっと恐ろしい存在だと告げていた。シェイドはそんなマリアの反応を微笑ましそうに眺めた。

「ちょっと気になっただけさ。暗くてよく見えなかったけど、素敵な中庭だなって」

 マリアはこの賊の目的が何であるかと思考を巡らせた。中庭を見たというが、わざわざ庭に用のある賊などいないだろう。中庭がもっともよく見える部屋といえばアストラの書斎だ。そこが賊の標的だとしたら、それは恐ろしい犯行を想起させる。しかしマリアは彼に直接それを問い(ただ)すことはできなかった。彼女にできることはただ黙して賊の機嫌を損なわないように調子を合わせることと、アストラが無事であることを願うことだけだった。シェイドは急に遊び飽きた子どものように言った。

「まあいいや、もうここに用はないし、君にも用はないから」

 マリアはその言葉に対してもうまく返すことができなかった。「早く出て行け」とも言えないし、かといって「お構いもしませんで」と言えば皮肉のようにも聞こえる。

 歩を進めたシェイドはそのまま去るかに思われたが、しかしマリアの横を行きすぎるあたりで足を止め、彼女の横顔を見た。目の端で賊を見ていたマリアは肝を冷やした。彼女の全身の毛穴からは冷や汗が噴き出していた。何か間違った選択をして賊の機嫌を損ねただろうか。しかしシェイドが次に発した言葉は意外なものだった。

「君によく似た人を知ってる」

 マリアは驚いて賊に顔を振り向けた。賊はマリアを見ながら遠い目をしていた。マリアには急に彼が先ほどまで想像していた恐るべき犯行の主に見えなくなった。遠い目を彼女に向けるその小柄な男はどこにでもいる普通の人間に見えた。

「君は君をもっと大切にして、君のために生きろ」

 マリアはやはり何と答えて良いかわからなかったが、気遣いの言葉には感謝を言って相手の機嫌を損ねることはないだろうと(おび)えた思考の中でも判断できた。

「ありがとう…ございます…」

 シェイドはさわやかに笑った。

「じゃあね」

 彼はマリアを残して歩を進め(やしき)の玄関を出て行った。それからしばらくマリアは何かの拍子に賊が考えを変えて自分を殺しに戻って来るのではないかという恐怖に(さいな)まれた。やがて彼女は糸の切れた人形のように床にへたり込み、急いで後ろを振り返って誰もいないことを確認した。ずっと息を殺していた彼女は何百メートルも全力疾走したかのように荒く息をつき、こめかみから冷や汗を垂らした。

 彼女はしかしいつまでもそうしてはいられなかった。彼女は震える脚で立ち上がり、ふらつきながら書斎へと走った。(やしき)を走るのはそれが初めてだったが、その無礼も気にしていられないほど彼女は一刻も早くアストラの無事を確かめたかった。

 彼女は書斎のドアをノックもなしに開けた。このとき彼女は慌てていた上に廊下が暗かったため、廊下の壁の大きな陥没を見落としていた。

「アストラ様!」

 いつも彼が掛けている書斎の籐椅子に彼の姿はなかった。彼女は荒い息を吐きながらアストラが執務室を留守にしていて賊に出くわさなかった可能性を考えた。賊の目的は物盗りであって、彼の命ではなかった可能性だ。しかしだとすれば賊は一刻も早く(やしき)を出ようとするはずだ。にもかかわらず廊下でマリアと悠長に話していた理由は何だ。

 マリアは賊の目的が書斎や他の部屋の高価な調度品を盗むことだったとしたら、この部屋にも何かしらの形跡があるものとみて、それを確かめるべく部屋へと足を踏み入れた。読書用の燭台の灯りが消えているため部屋はいつもより暗かった。月明かりと暖炉の灯りだけが部屋をうっすらと照らしていた。部屋の中は荒れていた。しかもそれは盗難のための荒れ方では決してなかった。戦闘による荒れ方だと戦闘に関しては素人である彼女にもはっきりとわかった。そう判断できる理由は二つあった。一つは金目のものまで破壊されていたこと。物盗りがそんなことをするはずがない。もう一つはあまりにも執拗(しつよう)に破壊されていること。床や壁の傷の一つ一つはあまりにも深く、その数も尋常(じんじょう)ではなかった。

 彼女は部屋に二、三歩入ったところでさらに大きな異変に気付いた。視界の右端に何か大きな違和感を覚えたのだ。直感はそれが何であるかを告げていた。しかしそれを否定する心理が彼女の思考と体をこわばらせた。彼女は勢いに任せてそちらに一気に顔を振り向けた。それを視認したマリアは悲鳴をあげて床に座り込んだ。そこにあったのは目を見開き、首から血をこぼし、床に仰向けに倒れるアストラの姿だった。マリアは彼がまだ生きていることを信じて彼に這い寄った。しかし彼の首に深々と長い傷が刻まれていること、そこからこぼれたであろう血だまりが人体にこれほどの血が入っているものかと驚かされるほど大きいことに(かんが)みて、彼女は本能的に彼の命がすでに失われていることを理解していた。

「アストラ様、アストラ様…!」

 マリアはただただ彼の名を呼び彼の首元の傷を押さえることしかできなかった。しかしこのときすでに彼の血は出尽くしており、彼の拍動は止まっていた。

「アストラ様、どうか…!!」

 マリアは涙をこぼしながらこの出来事が何かの冗談であることを願った。(やしき)にはそのとき他に使用人はいなかったため彼女は外に助けを呼びに行かなくてはと思った。しかし外に助けを呼びに行っていてはアストラは助かりそうにない。そんな思考の繰り返しが彼女の心をいたずらに責め(さいな)んだ。おおらかでユーモアに富んだ彼は彼女にとってアーケルシアというまだ住み慣れない国での生活の大きな心の拠り所だった。恐慌と混乱に(おちい)った彼女はただただ涙をこぼし彼の名を呼び続けた。

「アストラ様…、アストラ様…!!」




 噂が広まるのは早かった。先代騎士王の突然の崩御(ほうぎょ)によりアーケルシア全土は衝撃と哀しみに包まれた。反応は人や立場によって様々だった。哀しむ者、ただただショックを受ける者、(いきどお)る者、喜ぶ者。死因は喉を裂かれての失血死。他殺。アストラが元騎士王であることを考えれば彼を殺せる者は相当な手練れ。数は限られる。場所が中央でないことから犯人は中央を活動拠点とするかの有名な暗殺者「シェイド」ではないという意見と、アストラを死に至らしめる手練れといえば彼くらいであるという意見が半々に別れた。




 葬送は死の二日後に執り行われた。空は薄曇りだった。それを見上げたリヒトは雨が降るかもしれないな、とぼんやりと思った。中央の騎士団がほとんど総出で大通りに列をなして先代騎士王の(ひつぎ)を見送った。甲冑(かっちゅう)を身に(まと)いアーケルシアの旗を掲げる彼らの多くは騎士王時代に接して彼の人柄をよく知っていた。直接面識のある者も多かった。騎士王でありながら気さくでおおらかな彼は多くの者から(した)われていた。普段は「強壮な騎士」然と振る舞う彼らの中にもこの日ばかりは涙を流す者も多かった。毅然(きぜん)と列を成すことを任務として強く自らに課す彼らは隊列も姿勢も乱さず、声を殺して嗚咽(おえつ)を押さえ、ただただ(かぶと)の奥で静かに涙をこぼし続けた。

 物珍しさから見物に来るいわゆる野次馬も多かったが、しかし同時に彼の死を(いた)む市民の数の方が圧倒的に多かった。歴代の騎士王の中でも彼は一際人々の信望を集めた人物だった。王に近しい者たちは王の(ひつぎ)(かたわら)を歩くことを許された。その中にはリヒト、ケーニッヒ、タルカス、ユスティファ、マリア、その他の王の世話係、貴族、宗教家、商人の姿もあった。マリアは近くに自身を誘拐した張本人のタルカスとそれを命じたケーニッヒがいることに強い心理的警戒を覚えたが、先代騎士王の葬儀の場とあって恐怖で取り乱さぬよう自身に言い聞かせた。何よりタルカスやケーニッヒへの恐怖よりもアストラの死への哀しみの方が激しく心を支配し彼女はむせび泣いた。ケーニッヒも男泣きしていた。タルカスもいつもの平板な目にどこか悲しみの色を浮かべているように見えた。

 リヒトは列の中心を王の(ひつぎ)とともに悄然(しょうぜん)と歩きながら、ふと脇道を見た。そこには哀しみにくれる人々や、ただの野次馬が大勢立ち並んでいた。貧民街の者も多く立ち並んで涙を流し、それは先代王の人柄と人望を示していた。

 リヒトはふと違和感を覚えた。その光景の中で人込みに混じって恍惚(こうこつ)の表情を浮かべる者の顔を見たのだ。白い肌に赤い瞳、ローブのフードを目深にかぶる華奢(きゃしゃ)な男。男とリヒトは目が合った。すると男は口の端を吊り上げて(わら)った。彼は何か口を動かした。リヒトと男との間には距離があり、隊列の足音と喧騒とで男の声は聞き取れなかった。しかしそれは男の表情とも相まって何か非常に挑発的なものに思われた。リヒトは彼が何者なのか知りたくなった。しかし(ひつぎ)(そば)を離れるわけにはいかなかった。リヒトの中にもしやあの男がアストラを(あや)めた者なのではないかという考えが浮かんだ。それを確かめるもっとも手っ取り早く確実である唯一の手段は目撃者であるマリアに確認させることだった。リヒトは振り返ってマリアを見た。しかし彼女は相変わらず顔を覆って泣きじゃくっていた。これ以上彼女の心理に負担を与えるわけにはいかないと考えたリヒトはそれをやめた。リヒトは再び男の方を見た。するともうそこに男の姿はなかった。リヒトは念のため辺りを見渡したがやはりどこにもいなかった。彼が何と言ったのかもう一度口の動きを思い出してみたが、やはり要領を得なかった。国葬は夕方には終わった。雨は結局降らなかった。




 騎士王に就任して以来のリヒトはその運営をどのように進めるべきか迷っていた。アストラの言う通り、当面の目標は国内の治安の回復だった。すなわち虎狼会・流星団・シェイドの討滅である。そのためにはまず虎狼会の首魁(しゅかい)ゼロアを速やかに暗殺できる手練れと作戦が必要だった。リヒトはアストラもそのうちの一人に引き入れたいと考えていたが、それは彼に断られることにより、さらに彼の死により叶わなくなった。ユスティファは優秀なサポート役となり得る。だが彼だけでは戦力としては決め手に欠ける。しかし今のアーケルシア騎士団やその傭兵部隊にゼロア暗殺の務まる手練れがいるかといえば思いつかない。彼はそこでアストラの言葉に従うことにした。騎士団がこれまで目を付けてこなかった人員を引き入れること。彼はその手始めにビュルクに行くことを選んだ。かの地には独自の狩猟術や格闘術で戦う文化があると聞く。もし手練に()けた狩人が戦力に加わればゼロア暗殺の切札になる。

 ビュルクに(みずか)(おもむ)く当日、リヒトはいつもより少し早く家を出た。騎士王(みずか)らの他国への遠征ともなれば通常は相応の手練れが最低でも四人は従者としてつく。しかし彼は完全にお忍びでビュルクを訪れたいと考え帯剣はしているものの甲冑(かっちゅう)も従者もなく旅人として私邸の近所から定期路線の馬車に乗り込んだ。ビュルクの人々へ余計な緊張を与えたくないというのが理由の一つ。目立たない方がフットワークも軽くなりビュルクの手練れを見つけやすいというのが理由の一つ。しかし最大の理由はアーケルシアの北区からビュルクまでの長い道のりを時間をかけてゆっくり車窓からの景色を楽しみながら馬車と牛車に揺られて旅をしたいということだった。マリアは少しだけ心配そうに彼を見送ったがリヒトの気分転換にもなるであろう逗留(とうりゅう)を彼女も支持してくれてはいた。

 ビュルクまでは馬車二台を乗り継ぎ二日間かけてアーケルシア山地の(ふもと)まで行く。それからは牛を使って山道を二日かけて登る。リヒトは馬車と牛車の車窓からの景色を眺め、なぜかフラマリオンから落ちのびてアーケルシアへ移動した日々のことを思い出していた。初めて見る景色だが、それは人々の交易の中で(はぐく)まれた道程であり、懐かしさを感じさせる生活感(あふ)れる景色がそこには広がっていた。その景色はアーケルシアとビュルクとの間に数度に渡る交戦があったことをまったく感じさせない穏やかなものであり、手つかずの自然と生活をするだけで精一杯の人々の日々の営みに満たされていた。馬車でアーケルシアの石畳の道を行くのと比べると牛車で山道を登るのには難儀した。震動は大きく、ただでさえ坂道であるため常に体は斜めに傾き、体の休まるものではなかった。

 ビュルクに到着し牛車を降りて地を踏みしめたリヒトは、田と畑と人家とそれを囲むように広がる森からなる集落を目の当たりにし、その美しさに陶酔(とうすい)した。彼はまるで絵画の中の世界に迷い込んだような感覚を味わった。また、息を一つするたびに肺の中にうまい空気が入り、体の中の細胞の一つ一つが生まれ変わるような感覚を味わった。彼はここに来るまでにかなり疲れていたが、それさえたちどころに忘れてしまった。歩を進めるたびに靴には土や砂利を踏みしめる感触と音が伝わってきた。それは石畳と埃からなるアーケルシアの無味乾燥とした地面を歩く感触とはまるで違い、心地よいものだった。彼はいつもよりゆっくり歩を進めた。日向は暖かく、木陰は涼しく、どちらも気持ち良かった。里は起伏に富み平坦ではなかったが、坂道を登るのも階段を下るのもリヒトにとっては冒険のようで楽しかった。地図はあったがあえてそれを見ずに直感のみで彼は進んだ。

 しばらく歩くと事前にビュルク出身の傭兵に聞いていた観光案内所と宿とダイニングなどが集まる開けた土地が見えてきた。傭兵によるとここがこの里の中心とのことだった。彼はまず宿から確保することにした。商人が通う街だと聞いていたため宿はもしかしたら埋まってしまっているかもしれないと思っていたが、意外にもリヒト以外には宿泊客はおらず、主人は一番見晴らしの良い二階の部屋をあてがってくれた。帯剣をするアーケルシアの人間を見てビュルクの人々がどのような反応を示すかとやや心配していたリヒトだが、道を行きかう人にも宿の主人にも特に気に留める様子はなかった。木でできた宿は温かみがあった。部屋は広くはなかったが、小さな窓からは美しい谷あいの森が見下ろせ、樹上の秘密基地にいるようで心地よかった。

 リヒトは宿の主人に「狩人に会いたい」と言った。頓狂(とんきょう)なリクエストと自覚していたリヒトだったが、宿の主人の反応は意外なものだった。ちらとリヒトを見上げた彼は再び手元の書物に目を落として定型文のようにこう言った。

「リサに会いたきゃ森に行け。この里でぶっちぎりで一番優秀な狩人だ。今頃鹿でも狩っとる。だが素人が森に入れば遭難するのがオチだ。無事に会えたとしてもすげなく断られるのがオチだ。あんたアーケルシアの軍人さんだろ? あんたみたいのが断られて帰るのを何度も見てきた。あらかじめ覚悟しておくことだ。それと、下手に密猟者のフリでもしようものならリサに命を取られても文句は言えんから気をつけろ」

 もう時間も遅かったし、その日は近くのダイナーで食事を楽しみたいと思ったので、リヒトは明日も森に行けばリサに会えるかと(たず)ねてみた。主人は「あいつは毎日朝から夕方まで森にいる」と目も上げずに答えた。

 ダイナーの食事は山菜と木の実と川魚を中心としたものだった。アーケルシアやフラマリオンのレストランとも味は違ったが、何より新鮮さと体への気遣いが感じられた。特に食後に出たフルーツタルトとお茶が疲れた体に染みておいしかった。リヒトはその晩はしばらくぶりにぐっすりと深く眠ることができた。




 翌日リヒトは宿の主人から教えてもらった入口から森に入って行った。入口の辺りは広く平らで歩きやすかったが、奥に進むにつれて遊歩道は次第に獣道に近い細く険しいものになっていった。だんだん歩きづらくなっていったが里で一番の狩人に会えるという期待と山道を逍遥(しょうよう)する楽しさがリヒトの歩幅を大きくした。

 しかし狩人はなかなか見つからなかった。広大な森の中で特定の人物を一人見つけるという話だ。交渉をするだけなら夜遅くに彼女の住まいを訪れる方が賢明だろうが、しかしリヒトはどうしてもリサなる人物が狩りをする姿をその目で実際に見てみたかった。森に入って四時間ほど経ち、諦めた彼が帰路に就いて少し歩いたとき、彼はほんのわずかな殺気を感じ取った。

 そこは川に近い斜面だった。他より背の高い木のてっぺん付近の枝の上に女はいた。端正な顔立ちに一つに束ねた長い髪、簡素で身軽な衣服から伸びる細長く白い手足が特徴の若い女だった。弓と矢を背負う彼女は眼下の谷あいに流れる一筋の川の方をじっと見ていた。そこに一頭の鹿が水を飲みに現れた。鹿は周囲に敵がいないことを確かめると川べりに近づいた。女はささやくように言った。

「ごめんなさい」

 女は背中の弓矢を手に取り(つが)えた。どういうわけか彼女はそれを鹿ではなく空高くに向けた。彼女はつかのま目を細めて空の一点を見たあと、それを射った。森の中から突如現れ空に向けて走った一本の線に鹿は気付き、水を飲むのを止めた。その隙にとばかりに女は次の矢を(つが)え、今度こそ鹿にそれを向けた。彼女は再び目を細め、それを放った。鹿は彼女の放つわずかな殺気と視線を察知し、素早く身を躍らせた。結果、矢は鹿がいた地面に刺さり、鹿は驚いて(やぶ)の方へと走り出した。だが彼女にはそれを見て落胆する様子はなかった。代わりに喜ぶこともなかった。ただ彼女の横顔には先ほど『ごめんなさい』という言葉をこぼしたときの哀惜(あいせき)の念がわずかにあるだけだ。

 次の瞬間、何かが鹿の胴を上から下に貫いた。驚いたリヒトが凝視するとそれは矢だった。彼女が最初に放ったものだとリヒトは直感的に理解した。鹿は暴れたが、急所を正確に射抜かれてすぐに動けなくなり横に倒れた。

 彼女は枝から枝へと軽々と跳び下り、川べりまで下り、まだ少し息のある鹿の脳髄に腰のダガーを素早く立てた。鹿が息絶えると彼女はその皮を剥ぎ、肉を(さば)いた。その様子を見ていたリヒトは彼女が宿の主人の言う「リサ」に違いないと確信した。まさに隠密作戦には最高の逸材だった。

 すると鹿を(さば)く女の後ろに森の中から二人の男が現れ(よこしま)な笑みを浮かべて近づいて来た。

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