017.『彼が今日自殺をする理由』09
小学生の頃夏休みの自由研究でサッカーのことを調べに市立図書館に来たことのある真琴はスポーツの棚の正確な位置を覚えていて、由衣をそこへ案内した。まるで図書館の職員であるかあるいは下調べでもしたかのように案内板も見ずに自分を導く真琴を見て由衣は不思議がった。
「なんでわかるの?」
由衣は他の利用者の邪魔にならないようささやき声で尋ねた。真琴もまたささやき声で答えた。
「小学校のとき来たから」
「そっか。真琴転校したんだよね」
「うん。ここの図書館好きなんだよね。静かだし、広いし、あったかいし、映像コーナーとか美術展コーナーとかあるし。自習室もあるし」
「わかる。図書館っていいよね。…ソフトボールソフトボールソフトボール…」
スポーツの棚の前に着いた二人はソフトボールの書籍を探し始めた。身長差があるので自然と真琴が上段を、由衣が下段を探す格好になった。由衣はしゃがんで背表紙を指しながら一冊ずつタイトルを追った。真琴はその後ろに立って俯瞰するように「ソフトボール」の字を探した。
「あっ!」
書籍を見つけた拍子に思わず大きな声を出してしまった由衣が慌てて口を押えた。口を押えたまま由衣は笑って真琴を見上げた。真琴も足元の由衣を見て笑った。真琴は由衣の隣にしゃがみ、ソフトボールの書籍を一緒に眺めた。
「ほんとだ」
ソフトボール関連の書籍は全部で八冊あった。二人はそれらを棚から一冊ずつ取り出した。それを持ち上げてテーブル席へ移動しようとする由衣を真琴が制した。
「待って」
由衣はきょとんとした。由衣は怪我した親指を使わないように器用に八冊の本を両手の平で挟んでいた。そこから真琴はすべての本をそっと抜き取った。子どもを諫めるように笑って真琴が言った。
「だめだよ」
少し戸惑いながら照れくさそうに由衣も笑った。
それから二人は席について八冊の本を斜め読みし始めた。二人が知りたいのはソフトボールの基本的なルールと未経験者向けの練習法、それから未経験者でも短期間で習得できるコツだった。ルールについては教本にしっかり書いてあった。しかし練習法についてはソフトボールができる環境が前提のものばかりで、他は未経験の女子にとってはハードなランニングや筋力トレーニングばかりであり、実践は困難に思えた。未経験者向けのコツについての記事はまったく見当たらなかった。宛が外れて真琴は由衣に対して申し訳なくなった。そんな真琴の気持ちを察してか否か、由衣は急にこんなことを言った。
「やってみようかな」
真琴は由衣が見ているページに目をやった。そこにはスクワットの実践法がイラストとともに書かれていた。由衣が体育の授業のときの守備練習でゴロのボールをさばけなくて苦労していたのを真琴は覚えていた。由衣はそれを気に病んでいたのかもしれないと真琴は悟った。彼は何気なく尋ねた。
「筋トレ?」
由衣の顔は真剣だった。
「うん。スクワット。と腹筋。あとジョギング」
真琴は少し気がかりに感じた。
「ジョギング?」
「うん。下半身の強化にいいって」
「いつやるの?」
由衣は真琴を見た。
「いつって?」
「家に帰ってから? 夜やるの?」
「うん」
「だめだよ」
「どうして?」
由衣は夜のジョギングがどうして指の回復に障るのかと聞きたげな顔をした。
「女の子が一人で夜出かけちゃだめだよ」
由衣は真琴の意図を理解してくすくす笑った。
「大丈夫。じゃあ暗くならないうちに走る。家の近く。少しだけ」
それでも真琴はまだ心配そうだった。
「じゃあ走る前と後に真琴にチャットする。それでいい?」
「わかった。無理しないでね」
「うん、ありがと」
二人はそれからトレーニングに関するページのコピーをとって図書館を出た。
「どこでごはん食べる?」
図書館を出るとすぐ由衣が聞いた。真琴は聞き返した。
「食べたいものある?」
「うーん、ない」
由衣は笑って言った。
「真琴決めて」
真琴は困った。
「えー。どうしよ…」
そのとき真琴の脳裏に一軒の店が思い浮かんだ。しかし女の子を連れて二人で行く場所としてそこが適切かどうか、経験の浅い真琴にとってはその判断が難しかった。
「真琴って柳原けっこう遊びに来るの?」
日がまぶしいためか、目を眇めて由衣が尋ねた。一瞬だけ格好つけて「よく遊びに来る」と答えるべきか迷ったが、素直に事実を言うことにした。
「来ないよ。昨日来たのが久しぶり」
そう言うと由衣はにっこり笑った。
「あたしも。全然知らないこの辺」
二人は店を見つけるために駅の南側をぶらぶらと歩いた。しかし日曜日のためどの店もいっぱいだった。また、中学生二人にとって価格帯も敷居も高い店が多く、飲食店を見つけては店内の様子と看板のメニューだけ見て諦める時間が四十分以上続いた。さすがに雰囲気も悪くなり、空腹と疲労のためか由衣の顔も曇ってきたのを悟って、真琴は決心した。先ほど引っ込めた案を提示したのだ。
「あのさ」
急に立ち止まって振り返った真琴を由衣は驚いて立ち止まって見上げた。
「うん」
「近くに小さい喫茶店あるんだけど、そこでもいい?」
由衣の顔が明るくなった。
「うん、いいよ」
「ほんとに小さくて、一回行ったことあるだけなんだけどちゃんと料理もあるし味も全然まずくなかったと思う。裏通りのビルの二階にあって、多分すいてる。前も土日に来てすいてたから」
「うん、いいじゃん。小さい喫茶店とか好きだよ」
「ほんと? つぶれてたらごめんね」
真琴は辺りを見渡してから言った。
「前にたまたま見つけて入った店だから、ちょっと場所自信ないんだけど。多分こっち」
彼は路地裏へと由衣を案内した。由衣は後ろを歩きながら尋ねた。
「誰と来たの?」
それは家族で遊びに来たときにお金のかからないお店を探していてたまたま辿り着いた場所だった。
「両親」
「そうなんだ」
真琴は遠くにそれらしい看板を見つけた。
「あ」
「ん?」
その看板で間違いなさそうだった。
「あれだ」
「おお」
個人で経営している小さな店なので閉店や休業の可能性もあり、看板を見つけただけでは安心はできなかった。だが近づくと店は路地に立て看板を出しており、営業しているようだった。店の前に来る途中に大人の男性が通いそうないかがわしい外観の店があり、真琴は急に自分が同じ男であることが恥ずかしくなったが、気付かないフリをしてやり過ごした。営業しているのは良いものの、外観も周辺も汚らしく、やはり二人きりで女の子を案内して良い店ではないような気がして真琴はまた別の種類の気恥ずかしさを覚えた。しかし今から他の店を探すのもナンセンスに思え、意を決して真琴は小さなビルの狭い階段を上がり、二階へと由衣を案内した。店はやはりすいていた。入ると気の良さそうなカウンターの老婦人が「いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれた。二人は軽く会釈した。真琴は二名用のテーブル席に由衣を案内した。以前座ったときに窓から路地裏の生活感ある街並みが見えて妙に心が落ち着いたのを覚えていた。だがあらためて見てみると、なぜかそのときとはまったく違う景色に見えた。
「なんか、お店の雰囲気も景色も落ち着くね」
そう由衣が言ってくれたので真琴は安心した。由衣は窓の外を見て目を細めた。
「そうでしょ? 俺ももっ回来たいって思ってたんだ」
真琴も由衣にならって窓の外を見た。見えるのはスナックや民家や商店街の街灯、それに高い冬の空ばかりだが、それはそれで良い景色だと思えた。由衣はオムライスとホットコーヒーを、真琴はカルボナーラとチャイティーを頼んだ。小さなお店であるため料理が出てくるのは遅かった。待っている間二人は悠樹や杏奈や琢磨の話をした。すると由衣は真琴、悠樹、杏奈、琢磨の四人組の中に入れなくてずっともどかしい思いをしていたことを打ち明けた。真琴にとっては意外だった。もっと早く打ち明けてくれれば良かったのにと思った。これからはもっと一緒に遊ぼうと言うと由衣は喜んでくれた。オムライスが運ばれてくると「おいしそう」と言って由衣は喜んだ。彼女はそれを一口食べるとさらに喜んだ。真琴は素直に嬉しかった。「真琴も食べて」と言ってくれたので一口もらうと本当においしかった。デミグラスソースの味わい深さと玉子の半熟加減が絶妙で、本格的なオムライスを食べたことのない二人にとってはご馳走だった。二人は互いの食べ物と飲み物を少しずつ交換して楽しんだ。由衣はチャイティーもおいしいと言ってくれた。会計のときに真琴が由衣の分まで払おうとすると彼女は嫌がった。
「え、いいよ」
「ん? 大丈夫。俺が払うよ」
「いやいやいやいや。おかしいおかしい」
「俺が選んだ店だし俺が連れて来たんだし。普通男が払うもんでしょ」
「そんなルールないよ」
「それに由衣ほら、誕生日だし」
由衣は心底驚いた。
「えっ、何で知ってるの?」
「え? 悠樹が言ってたよ」
「え? 何で? あたし悠樹くんに話してない」
「じゃあ何で知ってるんだろ。杏奈あたりに聞いたんじゃない?」
結局あまり店員を待たせるのも悪いという心理もはたらき、誕生日だからという理由で押し切る形で真琴が代金を支払った。店を出てすぐ真琴は由衣にこう言った。
「映画も俺が払ってもいい?」
やはり由衣は嫌がった。
「え、いいよ。半分ずつでいいじゃん」
「誕生日プレゼント。こんなことしかしてあげられないけど」
「誕生日昨日だし」
そこで由衣はあることに思い当たった。
「あ! …えっ!? もしかして最初昨日誘ってくれたのって誕生日だから?」
「あ、うん、そうだよ」
由衣は愕然とした。
「え!? ごめん!」
「あ、いや、いいよ。誕生日なんていつ祝っても同じでしょ」
「いや! 良くない! ごめん! あたし普通に練習だと思ってたから!」
「いや、言わなかったこっちが悪いよ」
そう言われても由衣は気が済まないようだった。
「昨日来ればよかった…」
「じゃあ昨日断った罰に映画代は俺が払う。由衣に拒否権はない」
真琴が急におかしなことを言うので由衣は困ったように笑った。
「何それ逆じゃん」
「俺が映画行きたいんだし。俺が観たい映画を観るんだし。俺が払うから」
由衣は観念した。
「…わかった」
彼女は照れくさそうにぽつりと呟いた。
「ありがと」
映画館に行く途中由衣はこんなことを言った。
「真琴の誕生日っていつなの?」
「俺?」
「うん」
「俺十二月二十日」
由衣は残念そうに顔を顰めた。
「え、もう過ぎてんじゃん」
真琴は少し笑った。
「それ悠樹にも言われた」
「え、じゃあ来年…じゃない今年の十二月二十日真琴の誕生日祝う」
由衣はそう言っていたずらっぽく笑った。その笑顔がかわいくて真琴は反応に困った。真琴は照れ隠ししたい気持ちも手伝って変に意地を張って遠慮した。
「いいよ」
「良くない。今日祝われた分盛大に反撃してやる」
真琴はあまり遠慮するのも印象が良くない気がしたし、正直またこんな風に由衣と遊びたかったので素直に好意に甘えた。
「ありがと、無理しないでね」
「無理じゃないよ。祝いたいから祝うだけ」
由衣は嬉しそうだった。真琴は由衣のことを心根の綺麗な子だと思った。十二月に本当に由衣が祝ってくれるとすれば、生まれて初めて他人に誕生日を個人的に祝ってもらうことになる。昨日といい今日といい、こんなに自分が幸せで良いのだろうか、真琴はそんなことを大げさに考えた。
映画館では昨日本当は観たかった犬の映画を観た。犬が死ぬシーンでは由衣は声を押し殺ししゃくり上げながら涙をぽろぽろこぼした。声を掛けてあげようかとも思ったが、気付かないフリをするのが一番良いと思ってそうした。映画館を出て人込みを抜けると由衣は涙声でこんなことを言って照れくさそうに笑った。
「やばい、こんなに泣くと思わなかった」
実のところ真琴も涙をこらえるのに必死だった。
「いい映画だったね」
「ほんとに!」
「観てよかった」
「ねー!」
「由衣、もう一か所行ってもいい?」
由衣はきょとんとした。
「いいよ。どこ行くの?」
「そこのデパート。ちょっと見たいものあって」
「何見るの?」
真琴は少し口元を綻ばせた。
「内緒」
デパートの三階へエスカレーターで上がると、真琴は昨日立ち寄ったジュエリーショップの入口のショーケースの前へと歩を進めた。後ろから着いて来た由衣はさすがに驚いた。彼女は真琴が何のために自分をここへ連れて来たかを悟った。由衣は遠回しに尋ねた。
「アクセサリー買うの…?」
「映画もいいけどやっぱり形に残るものがいいと思って」
「どういうこと? あたしのために買うの?」
真琴はそう問われて急に気恥ずかしくなった。恋人でもない中学生の男女が初めてのデートでアクセサリーを買うことがどれだけ大胆かを真琴は知らなかった。昨日伯母夫婦に買ってもらった家族の絆の証であるクローバーのストラップが素直に嬉しくて、真琴は由衣と同じ思いを共有したい一心だった。
「え、いや、まあ、誕生日だし。いや、俺さ、昨日この店来たんだよね」
「えっ? 誰と?」
「ん? いや、新しい家族。で、ほら、こういうの買ってもらったんだけどさ」
真琴はそう言って昨日買ってもらったばかりのクローバーのストラップを鞄の内ポケットの中から取り出した。
「なんかいいじゃんこういうの。お守りみたいで」
真琴は半ば必死だった。由衣は納得したようなしていないような顔をした。
「試合に勝ちたいからさ、幸運のお守りみたいな」
それなら二人でではなくてチームで買うべきだと二人とも気付いたが、お互いそれは口にしなかった。真琴はもう一押ししてみることにした。
「いや、それに安いんだよここ。ほら、見て」
真琴はショーケースではなく、奥の壁かけの商品の値札を見るよう由衣に促した。安い髪留めやブレスレットまであり、千円に満たない商品も多かった。
「記念で何か買おうよ」
由衣はまだ何か腑に落ちないようだった。
「買ってどうするの?」
真琴は想定していなかった質問にややうろたえた。
「鞄に入れとくとか。お守り代わりに」
「失くしたらやだよ」
「じゃあ家の引き出しにしまっとくとか」
「…うん」
しぶしぶ首肯した由衣は意を決したように言った。
「じゃあ割り勘にしよ」
今度は真琴が不満だった。
「割り勘じゃプレゼントにならないじゃん」
「いいじゃん。二人のなんだから二人で出し合えば」
「十二月に祝ってくれるんでしょ?」
「…そうだけど…」
由衣は再び考え込んでしまった。しかしそれほど間を置かずこう言った。
「じゃああんまり高くないのにしてね?」
「うん」
そう返事した真琴だが、しかし商品を見れば見るほど由衣に贈ってあげたいと思うデザインのものはどれもそれなりに値段の張るものばかりだった。その横顔を見ていた由衣は少し考えてからこう言った。
「あたしが選んでもいい? あたしの誕生日でしょ?」
真琴は由衣が自身に気を遣って安いものを選ぶつもりなのだとわかったが、さすがに反論の余地がなくて観念し、笑って言った。
「わかった。好きなの選んで」
それから二人はその店のアクセサリーをじっくり見て回った。狭い店だが小物であるため品数が多く、一つ一つ値札を見ながら探すと時間がかかった。由衣にとってもやはりデザインが良く欲しいと思うものは値段が高かった。二人は値札を見るたびに落胆した。さらにしばらくして気付いたが、ハートをモチーフにあしらった商品が多かった。引き出しや鞄にしまっておくものとはいえ、いつ人の目に触れないとも限らない。ハートがあしらわれていれば言い訳に苦しむことになる。しばらく見ているうちに由衣は月をモチーフにしたブレスレットをじっくりと手に取って眺め出した。
「いいねそれ」
真琴も綺麗だと思った。真琴はその横にあったブレスレットを手に取った。そちらは太陽がモチーフになっていた。ペアのブレスレットだった。
「これにしようよ」
真琴は言った。由衣は笑顔を見せた。
「うん、綺麗」
真琴が太陽のブレスレットの乗った手を差し出すと、由衣はそこに月のブレスレットを重ねた。
二人はそれから柳原駅で東柳線に乗り、月見が丘駅で降り、家の方へ途中まで一緒に帰った。真琴は家まで送ると言ったが、由衣が頑なに遠慮したので仕方なく途中で別れた。
その夜家に帰りしばらくすると真琴は突然、ブレスレットや今日のすべてを由衣が本当に喜んでくれているかという不安に襲われた。とても人を気遣う子だ、今日見せた顔や今日の言葉が本心によるものだとは限らない。だがその不安はすぐに消えた。スマートフォンを見ると由衣からの新着のメッセージがあり、そこにブレスレットをはめた由衣の手の写真とともにこう書いてあったのだ。
「ありがとう。うれしい。ずっと大切にする」
さらにこう続いた。
「お返し何がいいかな」
真琴は迷わずにこう返した。
「何でもいい。何であっても由衣がくれるものなら絶対うれしい」




