016.『彼が今日自殺をする理由』08
土曜日は伯父の意向で朝九時に車で家を出た。祖父母は参加せず、伯父が運転席に、伯母が助手席に、真琴一人が後部座席に座った。伯母は車ですぐに着く柳原で遊ぶのになぜ店もほとんど開いていないような早い時間に家を出なければならないのかと伯父を咎めたが、伯父は「今日は家族サービスのフルコースだから」と言い訳した。真琴はそんな二人のやり取りを後部座席から微笑ましく眺めた。真琴は今自分に本当の両親がいればこのような週末を過ごしていたのかもしれないなと思った。
十時にならないと開かない店が多いため、三人はまず二十四時間営業のカラオケに入った。真琴はカラオケに来るのは初めてだった。緊張しながらも聴いたことのある流行りの曲を歌った。伯父は一世代前の曲を歌った。何曲かは吉原さんの車の中やインターネットで聴いたことのある曲だった。伯母も古い曲を選んだが、ほとんどが母のよく口ずさんでいた曲だった。見た目は似ていない二人だが、歌い方と好きな曲は似ていて、やはり姉妹なんだなと思った。
昼になり三人はカラオケを出てファミリーレストランで食事を摂った。お金のない家族に遠慮してファミリーレストランに来れば必ずパスタかピザを頼んでいた真琴だが、その日は伯父がしきりにステーキを薦めるのでそれに甘えた。料理が運ばれて来てから真琴は重大な問題に直面した。彼はステーキを食べたことはおろか、ナイフとフォークで食事をしたことがなかったのだ。赤面しつつそれを率直に打ち明けた真琴に対し、伯父は「慣れだそんなもん」と一蹴した。伯母は「左手でフォークを持ち、右手でナイフを持ち、あとは慣れ」だと教えてくれた。真琴は悪戦苦闘しながらそれを実践した。初めて食べるステーキは期待していたほどおいしくはなかったが、ナイフとフォークで一皿千五百円のグリル料理を食べるという贅沢が嬉しかった。料理より嬉しかったのはドリンクバーでいくらでも好きなものが飲めることだった。真琴はグレープ味の炭酸ジュースとメロンソーダとコーヒーを飲んだ。駅ビルの二階に位置するファミリーレストランの窓から眺める柳原の街の景色は美しかった。朝は曇っていたがいつの間にかよく晴れていた。下から眺めると大きなビルもファミリーレストランの窓からはなぜかすべて小さく見えた。真琴は自分の世界が急激に広がるのを感じた。これが大人になるということなのか、これが大きくなるということなのか、真琴はそんな漠とした問いを青白い冬の空のどこかへ投げた。
ファミリーレストランのあとはゲームセンターに行った。まずクレーンゲームに挑戦したが一つも取れなかった。気を取り直してリズムゲームに挑戦したが、これは非常に盛り上がった。特に伯母が上手でなかなかのスコアを叩き出してみなで喜んだ。競馬ゲームやスロットゲームなどにも挑戦してみたが、勝手がわからなかった。伯父の提案で最後はみなでプリクラを撮った。伯母がデコレーションしてくれた。プリクラにはふざける伯父とそれを真似する真琴、呆れて笑う伯母が写っていた。
そのあとはみなで服を買いに行った。何でも好きな服を買ってあげるという伯父に真琴は「先日買ったばかりだから」と言って遠慮した。しかし「服はいくらもってても困らない」と伯母が言うので真琴は大人しく甘えることにした。伯母は「真琴くんは背が高くて細いからきっと何でも似合う」と言って様々な服を真琴にあてがった。提案したのは伯父だし着るのは真琴だが、真琴の服選びを一番楽しんでいたのは伯母だった。かご一杯に入れた服を厳選するのに伯母は時間を要した。結局真琴は五着の服を買ってもらった。真琴が一度に五着も服を買ってもらうのは生まれて初めてのことだった。
夕方になったのでそろそろ家に帰らないとと伯母は言った。伯父は外で食べて行こうと言った。冷蔵庫にある食材が痛んでしまうと伯母は言ったが、痛んだら捨てればいいと伯父は言い返した。もったいないでしょと伯母が言うと、それなら俺が全部焼いて食うと伯父が答えた。伯母は呆れ果てて伯父に付き合うことにした。自身の主張をはっきりと言い合いつつも喧嘩にならないこの二人と実の両親とを比較して真琴は少しだけ虚しさに似た感情を覚えた。
デパートの最上階の和食屋へ向かう途中のフロアで伯父は二人を呼び止めた。見ると伯父は足早に歩いてある専門店の入口のショーケースの前に立ち、その中を覗き込んだ。そこは小さなジュエリー専門店で、ショーケースの中には指輪やネックレスがあった。伯母は「何見てんの」と面倒臭そうに伯父の背後に立った。伯父は「何か買おう」と言った。「何で? 何のために?」と訝る伯母に「家族になった記念」と伯父は答えた。伯母は「高いでしょ」と言って値段を気にしたが「いや、こういうところは安いのあるよ」と伯父は答えた。アクセサリーといえば一つ一万円は下らないだろうという先入観をもっていた真琴だが、値札を見るとたしかに一つ千円くらいから売られていた。伯母はまだ納得していないようだったが「真琴がほしいなら」としぶしぶ承諾した。三人はおそろいのシルバーの四つ葉のクローバーのストラップを買った。見た目はほとんど同じだが、クローバーの中央に入っている石の色がそれぞれ違っていて、伯父は青、伯母はピンク、真琴は緑を選んだ。最初はしぶっていた伯母は買う頃には一番熱心に選び、結局誰よりもそれを気に入り、早速財布に取り付けた。
和食屋ではみな海鮮丼をメインとする定食を選んだ。和食屋に来るのは小学校低学年のとき以来だった。そのときの味を鮮明に覚えていた真琴は昼食のステーキよりも喜んだ。お腹がいっぱいで食べられないと言う伯母は真琴に海老の天ぷらとうどんと茶碗蒸しをくれた。はじめは遠慮した真琴だが、内心嬉しくてあっという間にたいらげた。「また来ような」と伯父は言った。伯母も目を細めて微笑んでくれた。真琴は遠慮を忘れて「うん」と答えた。
帰りに映画館に寄りたいと伯父は言った。当初夕方まで遊ぶ予定だったが、すでに時刻は十九時近かった。今から映画に行くとなると家に着くのは二十二時くらいになるだろう。一日ずっと伯父の思い付きのプランに振り回されてそのたびしぶしぶ承諾してきた伯母もさすがにこれには怒るだろうと真琴は思ったが、意外にも伯母は賛同した。それまで知らなかったが、実は伯母は大の映画好きだった。小さな頃に母に連れられてアニメ映画を観て以来久しぶりに映画館に行く真琴は心を躍らせた。土曜の映画館は混んでいた。メインシアターではその頃流行っていたディザスター系の洋画と飼い犬との絆を題材にした邦画が上映されていた。他にもミニシアターで和風ホラーやドキュメンタリーが上映されていたが、せっかくだからメインシアターから選ぼうということになった。伯父はディザスター映画と犬の映画とどちらが良いかと真琴と伯母に聞いた。真琴は犬が良いと答えた。伯母は洋画が良いと答えた。「俺もディザスター映画が観たいからそっちにしよう」と伯父が言い、多数決でそちらに決まった。だが映画が始まると伯父はすぐに居眠りを始め、大きな音が鳴り響くシーン以外はだいたい眠っていた。シアターを出ると伯父は「いやぁ、おもしろかったな」と言った。「ずっと寝てたでしょ」と伯母に言われると「いやでもだいたい覚えてるよ」と伯父は言い返した。「じゃあどんな内容だった?」と伯母に問われると「そりゃ、隕石が落ちてきて爆発するやつだろ?」と伯父は本編を観ていなくてもわかることを答えたので伯母と真琴は笑った。
伯父の運転する帰りの車の中で真琴は車窓から柳原の街をぼんやりと眺めた。土曜の夜の柳原の街は月見が丘と違って灯りが多く美しかった。また人も多くにぎやかだった。真琴は両親が離婚して引っ越す前の小学校の友人たちのことを思い出した。彼らは今頃どうしているのだろうか。受験勉強を始めているかもしれない。部活で活躍しているかもしれない。彼女をつくって遊んでいるかもしれない。いじめられて不登校になっているかもしれない。彼らもこの景色のどこかにいるのかもしれない。だがいたとしてもきっと互いに気付くことはないだろうと思った。真琴は父のことを考えた。父と最後に連絡をとったのは母が亡くなってすぐ、もう二か月以上も前のことだった。久しぶりに会った父は喪服を着ていたためか、別人のように細く見えた。父もまたこの景色のどこかにいるかもしれないと思った。離婚する前はよく父と母と三人で出かけた。母は免許をもっていなかったため、運転するのはいつも父だった。買い物、食事、お墓参り、親戚参り、花火大会、いろいろなところに行った。父の運転する車の中でこうしてぼんやりと景色を眺めるのが好きだった。特に帰りの車窓から見るそれは灯りがあってもなくても綺麗だと思った。心地よい揺れに身を預けているうちにいつも眠りに落ちた。家に着く五十メートルほど手前、車がスピードを落として母が荷物をまとめる音がして、それでいつも目を覚ました。
伯父がバックミラー越しに後部座席に目をやるとすやすやと心地よさそうに眠る真琴の姿があった。伯父は目を細めた。隣に目をやると助手席の伯母は嬉しそうに車窓の景色を眺めていた。帰り道はすいていた。伯父はできるだけゆっくりハンドルを切り、できるだけゆっくりブレーキを踏んだ。
翌朝真琴は月見が丘で買った新しい服を着て集合時間の二十分前に駅前に着いた。昨晩は緊張のためほとんど眠れなかった。由衣はまだいないようだった。真琴は由衣の怪我はおそらく治っていないだろうと思っていたし、それでも由衣が無理をしようとしたらどう諭そうかと考えていた。その反面、真琴は由衣の怪我が治ってくれていることを願ってもいた。真琴は植木の柵に寄りかかってそのようなジレンマとともに長い長い時間を過ごした。十分後にふと少し先の角に目をやると、そこに由衣の姿があった。彼女はすでにこちらに気付いていて、笑顔で近づいて来ていた。真琴は近づいて来る人が本当に由衣その人かどうかを一瞬だけ疑った。たしかにそれは由衣だったがいつもとどこか違ったのだ。
「おはよう、ごめんね」
そう言って目の前に立った由衣に真琴は目を奪われ、言葉を失っていた。彼女は学校で見かける普段の姿と違いメイクをしていたのだ。また、少し髪を切っていた。さらに普段学校では校則に則って紺のコートを着ているが、その日は真っ白なコートを着ていた。真琴はその姿に見とれて呆けた心を立て直して返事をした。
「え、何が?」
由衣は少し虚を衝かれたようだった。
「ん? 待ったでしょ」
「ううん、全然」
ここへきてようやく真琴は大事なことを思い出した。
「大丈夫?」
由衣は笑って答えた。
「うん、もう治ったよ」
しかし真琴は由衣のその返事に空々しい響きを感じた。
「由衣」
「ん?」
「見せて」
由衣は一瞬ためらいつつも承諾した。
「え? いいよ」
由衣は努めて平気なフリをして左手の親指の絆創膏をはがした。絆創膏に血は付いていなかったが、傷口はまだ白く、完全には治っていないように見えた。
「ほら、もう大丈夫」
気丈に振る舞う由衣に対し、真琴は急に自分が恥ずかしくなった。真琴は由衣が怪我をして以来、それが早く治れば良いとばかり思った。だがその理由はひとえに楽しい一日を奪われたくないという利己的なものだった。由衣の体を気遣ってのものではなかった。由衣も今日の練習を楽しみにしていてくれていたのだ。だったら一緒に出かけるのはいつでもいい。由衣には安静にしてもらって怪我の完治に専念してもらいたい。真琴は努めて優しい声で言った。
「由衣」
だが真琴が何を言おうとしているのか察したのだろう、急に由衣の顔色が曇った。真琴は急に焦った。
「いや、ごめん、違う、あの、練習はいつでもできるから、その、来週でも再来週でも、大会終わってからでも、来年だって、あ来年はないか」
由衣は笑った。
「来年は受験生だからないよ」
真琴も笑った。
「そうだった」
気を取り直して真琴は言葉を続けた。
「じゃこうしよう。来週も再来週も特別練習。平日も放課後体育器具庫のソフトボールのバット借りて素振り」
「どこで?」
「教室」
「怒られるよ」
「じゃ体育館の裏」
「恥ずかしいよ」
「じゃ公園…も恥ずかしいか。え、じゃどうしよう…」
「そうじゃなくて」
「ん?」
由衣は少し神妙な声音で上目遣いで真琴に尋ねた。
「今日どうするの?」
真琴はそこでようやく由衣の気持ちに気付いた。練習ができるかできないかはさておき、今日を二人で楽しく過ごしたい。自分と同じなのだと知って真琴は嬉しくなった。
「図書館行こう」
由衣はきょとんとした。
「?」
真琴は自分の意図を説明した。
「ソフトボールの勉強。守備のし方とか、バッティングとか、練習の方法とか、ルールとか。そういうの調べよう。俺も特別コーチとして勉強しなきゃいけないことたくさんあるし」
由衣の顔はぱっと明るくなった。
「うん」
「ごはん食べてきた?」
「うん」
「何時頃?」
「えっと…八時」
「じゃまだお腹すかない?」
「うん」
「じゃ先に図書館行こっか? で二時間ぐらい勉強して、どっかでごはん食べる」
由衣の顔色は再び少し曇った。
「二時間でいいの?」
「うん、気が滅入るからね。その方が集中できるでしょ?」
「そのあとは?」
真琴は由衣の質問の意図を理解するのに一呼吸の間を要した。彼は自身の勇気が試されていることを悟った。真琴は男子として心の中で大いなる一歩を踏み出した。
「どっか遊び行こう。せっかくの日曜だし。勉強のあとは気分転換。リフレッシュ。ストレス発散。その方が怪我も治りやすいし。いやわかんないけど。夕方には帰って来れるし」
由衣はそれを聞いて笑顔を見せてくれた。真琴はほっとした。
「どこで遊ぶの?」
「どっか行きたいとこある?」
由衣は難しい顔をした。「ない」と言われるのが恐ろしい真琴は焦って頭をフル回転させて出た答えを提案した。
「映画! どう?」
由衣の表情は明るくなった。
「行きたい! あたし映画館あんま行ったことなくて」
「俺もほとんど行ったことない。昨日久しぶりに行った。今の家の人が連れてってくれて」
「そうなんだ。あたしも昨日家の人と遊んだよ」
「どこ行ったの?」
「買い物とカラオケ」
嬉しそうに目を細める由衣を見て真琴も嬉しくなった。どこへ行って何を買ったのか、どんな曲が好きで何を歌ったのか、由衣にいろいろなことを聞いてみたくなった。
「じゃあ昨日のこと電車の中でたくさん聞かせて?」
「うん」
遊び慣れない不器用な二人の中学生は意気揚々と駅へ向かって歩き出した。




