014.『彼が今日自殺をする理由』06
ほどなく真琴はアパートを引き払って旧山名町にある母の実家に引っ越した。母の実家には祖父母と姉夫婦が住んでいた。姉夫婦には子供がいなかった上に、母を失った子どもへの気遣いもあって非常に歓迎された。最初の晩の食卓には様々な料理とともにハンバーグが並び、久しぶりに食べるそれを真琴は心からおいしいと思った。実際真琴が今まで食べた中でもっともおいしい料理だった。湯船にも久しぶりに浸かった。小さな頃から夏休みや正月には何度も訪れた家だが、住むとなるとまったく違う空間であるかのように思われた。母は三姉妹の次女だった。真琴には三女の部屋があてがわれた。最初の晩はあまり眠れなかった。
家事に慣れていた真琴は手伝わせてほしいと申し出た。しかしみな笑って「中学生なんだから勉強や遊びに励みなさい」と言ってくれた。「それでも」と引き下がらない真琴に伯父は朝のゴミ出しを任せてくれた。
校区は隣だが本人の希望と担任の気遣いもあり特例で通い慣れた月見が丘中学校に通い続けることになった。はじめは伯母が車で送り迎えしてくれたが、気恥ずかしさと申し訳なさもあり、自転車を買ってもらい、学校からも許可が下りたため自転車通学をすることになった。毎日自転車で三十分かかる道のりだったが、特段つらいとも思わなかった。むしろ自転車を漕いでいる時間と目まぐるしく過ぎ去っていく景色は、淀んだ思考をクリアにし、現実を受け入れるのに役に立った。
ある日伯父が唐突に「塾に通わないか?」と聞いてきた。真琴は即座に「そんなとんでもない」と遠慮した。伯父は短い話の終わりに「夢中になれるものを探さないと。もう少し自分のことを考えるようにしなさい」と静かに諭してくれた。伯父の意図が理解できなかった真琴はただ戸惑いながら「はい」と答えた。彼は母に塾に行きたいと言った日のことを思い出していた。しかし母を失った今となっては、彼が勉学での成功を目指す理由はなくなっていた。
真琴は学校の行きと帰りに違う道を通った。帰り道にはいつか母に行きたいと言った進学塾があった。真琴はその看板と建物を見るたびに不思議な感慨を覚えた。それは好奇心よりは羨望に近い感覚だった。
事件から一か月後の十二月に担任から放課後に職員室に呼び出された。担任は努めて明るい口調で「クラスが変わったら同じクラスになりたい人はいる?」と尋ねた。担任の意図がわからなかった真琴は「特に大丈夫です」と答えたが、そこに友情を裏切るような響きを感じて後ろめたくなったため「でも三枝くんと真壁さんと神代くんとは仲がいいので同じクラスになれたら嬉しいです」と付け加えた。担任は優しく笑って「うん、わかった」と答えた。話はそれで終わった。
十二月の終わりに「来月クラス替えがある」という噂が生徒の間で流れた。そんなまさかと否定する者も多かった。真琴もそのうちの一人だった。
一月の始業式のあとに教壇に立った担任が「今からクラス替えをします」と言い出し、クラスは騒然となった。他のクラスからも廊下を通して時間差で同じどよめきが聞こえてきた。担任から新しいクラスの座席表が配られた。「〇〇ちゃんと同じクラスがよかった」とか「〇〇と同じクラスかよ」といった声があがり、再び学年中が騒がしくなった。真琴は静かに喜びを噛みしめながらその表を眺めた。悠樹と杏奈と琢磨と同じクラスだったのだ。担任も教室も同じままだった。真琴が顔を上げると担任と目が合った。担任は優しく笑っていた。クラス替えをする理由はほとんどの生徒が察していたので、それを担任に聞く者はいなかった。
ほどなくクラス替えが始まり、荷物をまとめてみなが移動を始めた。別れを惜しむ声や再会を喜ぶ声が上がってその日一番のざわめきが起こった。教室の入り口から姿を現した悠樹と杏奈と琢磨は真っ先に真琴を探して歩み寄って来た。真琴は小学校の頃に戻ったような懐かしい気持ちになった。悠樹たちと歓談する真琴は視界の端で教室の入り口から姿を現した少女の姿をとらえた。吉原由衣だった。真琴は何気なく座席表に目を移した。先ほどは気付かなかったが、新しいクラスメイトの中に彼女の名前があり、しかも席は真琴の隣だった。杏奈は由衣を見つけると駆け寄って久しぶりに同じクラスになれた喜びを爆発させた。由衣は微笑を浮かべた。悠樹が由衣に声を掛けた。
「由衣」
由衣が悠樹を見ると彼は手招きした。
「こっち」
近づいて来た由衣に悠樹は座席表を見ながら言った。
「ここだろ、お前の席」
真琴と由衣は目が合った。由衣は遠慮がちに小さく会釈をした。二人とも言葉は交わさなかった。土曜日に久しぶりにみなで琢磨の家に集まって遊ぶことになった。
土曜日の朝に真琴と悠樹は先に琢磨の家に着いた。
「珍しく杏奈遅いな」と真琴が言うとドアベルが鳴った。飲み物を用意している琢磨に代わって真琴が「俺行くよ」と言って立った。玄関に来た真琴はすりガラスの向こうの人影が複数あることに気付いた。不思議に感じながらドアを開けると杏奈とその向こうに隠れるように立つ由衣の姿があった。真琴は言葉を失った。
「やっほ。今日は由衣ちゃんも一緒だよ」
杏奈はにっこり笑ってそう言うと何の気なしに上がり込んだ。由衣も遠慮がちにそれに続いた。久しぶりに同じクラスになれたのにまだ声を掛けていない真琴はこの機を逃したくない一心で声を絞り出した。
「久しぶり」
由衣ははにかみながら微笑した。
「久しぶり過ぎてなんか緊張する」
琢磨の家に来るのが久しぶりという意味か、真琴と話すのが久しぶりという意味か判然とせず真琴は少し戸惑った。
琢磨の部屋でお菓子を食べながらおしゃべりをしたあと、みなで電車に乗って市民体育館に行って卓球をした。運動神経の良い四人に対して並の運動神経しかもたない由衣はあまり活躍できなかった。真琴はダブルスで由衣とペアになったときは守備範囲を広めにとって由衣の拾えないボールを積極的に拾ってあげた。悠樹は由衣と対戦するときは悟られないように手加減しようとしたが不器用な彼の演技は不自然すぎてみなの笑いを誘った。琢磨は回転しながらサーブを打ったり、手で打ち返したりと基本的にふざけてプレーしたが、由衣と対戦するときだけは一層ふざけるようにした。杏奈は誰と対戦するときにも真剣だったが、むしろそれでバランスがとれた。はじめは遠慮がちにプレーした由衣も次第に真剣になり、冗談やミスには笑顔を見せた。
卓球のあとはファーストフード店に寄って食事を摂って帰った。真琴は久しぶりに笑ったような気がしたし、久しぶりに友達と遊んだような気がした。きっとみなも同じ気持ちを感じていると思った。家に帰った真琴は月曜日に学校で由衣に話し掛けてみようと思った。
月曜日に登校して教室に入った真琴は机の前で立ち尽くす由衣を見た。彼女は自分の机を見下ろしていた。そこにはチョークで大きく「魔女」と書いてあった。呆然としながら真琴は由衣に近づいた。由衣は真琴に気付いて彼を見上げた。由衣の目は潤んでいた。心の中を困惑と絶望に支配され呆然としている目だった。真琴は自分の机に素早く鞄を置くと教室の後ろの雑巾掛けから雑巾を一枚取って廊下の流しに向かった。戻って来た真琴は濡れた雑巾で由衣の机を拭いた。
「いいよ」
由衣が小声で言った。
「大丈夫」
真琴は努めて明るい声で答えようとしたが、どうしても怒りの感情が滲んで強い言い方になってしまった。少し間を置いて由衣が呟くように言った。
「ありがと」
真琴は今度こそ明るく優しい声で答えた。
「大丈夫」
真琴と悠樹は放課後に学校の近くの公園に行った。二人は経済的な事情で部活をしていなかったため、学校帰りだというのに日はあまり傾いていなかった。真琴の転居により帰り道は途中まで一緒になったが、真琴が自転車通学であったため一緒に帰ったのは小学生のとき以来のことだった。真琴は昼休みに悠樹に「放課後に少し話をしたい」と伝えていたのだ。
「何だよ」
公園に着くとぶっきらぼうに悠樹が尋ねてきた。少し戸惑いながら真琴は答えた。
「いや何ってさ…」
「うん」
「由衣の机にいたずら書きされてた」
「え?」
「今朝。チョークで。『魔女』って書いてあった」
悠樹はつかの間驚いたあと、顔に怒りを滲ませた。
「マジで?」
「うん。俺が消した」
悠樹は少し考え込んだあと、周囲を一度見渡してから声を一段低くして言った。
「クラス替えしただろ?」
「うん」
「おかしいだろ明らかに」
「うん」
「お前と由衣を守るためなんだよ」
真琴は唖然とした。
「…は?」
悠樹は後ろめたそうに話した。
「ほんとは言っちゃダメなんだけどさ、俺は先生に聞いて知ってて」
真琴は唐突にすべてを理解した。悠樹は続けた。
「どこからそんな噂流れたのか知らねえけどさ、由衣の父さんが教団の幹部だったって知ってるやつ多くてさ、で事件が起きたの由衣の父親のせいみたいに言うやついてさ、「魔女」って呼ぶやつがいて。廊下ですれ違いざまに『魔女死ね』って言われたり、ボール投げつけられたり、教科書捨てられたりとかいろいろされたらしいんだよ。由衣の母さん病気で亡くなってて由衣も真琴と同じで親戚の家から通ってんだよ。だから真琴と由衣と仲良かった人集めたクラスなんだよ今のクラス。俺も二人とできるだけ仲良くしてくれって先生に言われてるんだ」
真琴は土曜日に由衣が遊びに来た理由をこのときようやく理解した。悠樹や杏奈から誘われたのだ。悠樹はそこで一つため息をついてから続けた。
「クラス替えしても同じ状況が続くとかやべえだろ。敵何人いんだよ。…ごめんな、こんな話して」
真琴は決然と言った。
「守ろう」
悠樹は真琴の言葉の意味がにわかに理解できなくて聞き直した。
「え?」
「みんなで由衣を守ろう」
こんな話をしても真琴を傷つけるだけだと思っていた悠樹にとって真琴の発言は意外なものだった。だがそれ以上に嬉しかった。悠樹は小学生のときに真琴が杏奈を守ろうと琢磨に対して立ち上がったときのことを思い出していた。悠樹は「真琴らしいな」と思い、親友の提案を頼もしく思った。
「おう。わかった」
二人は公園を出て帰路に就いた。
翌日から真琴は三十分早く登校するようにした。由衣の机や荷物にいたずらをする隙を与えないためだ。由衣に積極的に声を掛け、由衣を積極的に遊びに誘った。悠樹も杏奈も琢磨もそれに協力した。その結果ある日黒板に『魔女』『藤原真琴』の名で相合傘が描かれていたこともあったが真琴はまったく気にしなかった。効果はてきめんで少なくとも教室内で由衣や由衣の持ち物に対して陰湿ないじめが起きることは真琴の見る限りそれ以来なくなった。しかし由衣自身はいつも暗い顔をしていた。真琴はそれをいじめや父の死によるものだと思った。由衣が暗い顔をすればするほど真琴は由衣を放っておけなくなって、冗談を言って和ませるようになった。
ある日放課後になると杏奈が真琴に声を掛けてきた。
「真琴くん、今日ちょっと時間ある?」
真琴は杏奈を見た。すると彼女の傍らに隠れるように小さな由衣が佇んでいた。
「うん、いいよ」
三人は教室に残って席に座り、話をした。杏奈がこう切り出した。
「今度球技大会があるでしょ? みんなでソフトボールやりたいなって…」
真琴は答えた。
「いいよ、俺何に出るか決めてなかったし」
杏奈の顔はぱっと明るくなった。
「ほんと!? よかったありがと~」
真琴は由衣に目を移して言った。
「由衣も一緒にやる?」
由衣の顔もぱっと明るくなった。
「うん!」
「それでね真琴くん、今度みんなでバッティングセンターに練習しに行きたいんだー」
杏奈がそう言った。
「いいよ」
真琴がそう答えると西日に照らされた二人が弾けるような笑顔を見せてくれた。それに見入る真琴も自身が目を細め相好を崩すのを自覚した。真琴はまだ行ったことのないバッティングセンターに誘ってもらえたことよりも、由衣が見せてくれた笑顔が嬉しかった。




