012.『彼が今日自殺をする理由』04
その日真琴は朝から一日中強い眠気を覚えていた。朝起きたときから家を出るまで眠かったので母とはまったくといって良いほど口を利かなかった。朝食は真琴の好きな目玉焼きとパンケーキとサラダとウインナーのセットだったが、真琴は眠さと時間のなさでほとんど手を付けることができなかった。母は残念そうな顔をしたが、そんな母の表情にも気付くことができないほど真琴は眠かったし慌てていた。登校中に歩いていても眠気は襲ってきた。彼はほとんど目を開けずに歩いた。たまに目を開けて危険がないことを確かめ、また目をつぶって歩くというあり様だった。一時間目の授業は社会だったが、そのときには眠くなかった。逆に次の授業は理科で、内容は実験だったが、眠くて難儀した。次の授業は体育で、それも真琴の好きなサッカーだったが、眠気のためまったく力が入らず、立っているのもつらかった。走っても地を蹴っている感触がなかった。誰よりもサッカーの授業で活躍することを望んだ彼も、しかしその日ばかりは早々にそれを諦めた。昼食の時間になっても食欲は湧かなかった。五時間目になるとさすがに強烈な空腹感に襲われたが、それよりも眠気が勝り、退屈な国語の授業であったことも相まって彼は授業の時間のほぼすべてを睡眠に捧げた。六時間目は音楽だったが、何とか眠らずにやり過ごした。帰りのホームルームもほとんど眠気を感じなかった。しかし帰り道ではやはり強烈な眠気を覚えた。彼は帰りに買い物をするのが日課だったが、その日は眠すぎたし、母は宗教の会合で遅くなる予定だったので、彼はスーパーには寄ったものの入口の近くのヨーグルトとカップ麺と冷凍食品だけを買って出た。家に帰っても強烈な眠気は覚めなかった。体調不良を懸念して熱を測ったが平熱だった。彼は洗濯と掃除と食事の用意と風呂の用意をしなくてはならなかったが、とてもできるとは思えなかった。彼は少し迷ったが、それらを諦めることにした。彼は空腹のためヨーグルトだけ食べた。冷凍食品とカップ麺も食べようか迷ったが、眠気が勝って食べられそうになかった。真琴はこんなことを考えた。
体調が悪いのだから仕方がない。慢性的な寝不足が原因だ。自分は少し休むべきだ。風呂には基本的に入らないことになっていたので、風呂の用意をしなかったことで母は怒りはしないだろう。もしかしたら楽しみにしていたかもしれないが、そのときは謝ろう。食事も冷凍食品があれば大丈夫。カップ麺もある。もしかしたら朝自分が残したパンケーキや目玉焼きが冷蔵庫にあるかもしれない。他にも少し食材があった気がする。ヨーグルトがあれば栄養も摂れるしそれなりにまともな食事になる。洗濯は明日やればいい。まだ着る服はあったはずだ。なくても今日着たものを明日また着ればいい。冬だからそんなに汗もかいていない。掃除も明日まとめてすればいい。
だいたい自分がこんなに働かなきゃいけない状況がおかしい。宿題やテスト勉強もまともにできていないし、友達とも遊べてない。学生の本分は勉強なのにそれができてないのはおかしい。今日も疲れのためにずっと眠くて勉強ができなかった。それがテストや成績に影響したらどうすればいい? それに引き換え母は宗教の会合に出るために家事をおざなりにするなんて。母親の本分は子どもの世話じゃないのか。俺は頑張ってる。俺はもう少し大事にされていいし少しぐらいサボってもいいはずだ。他のヤツはゲームしてるしみんなと遊んでる。自分の部屋ももってる。中学生にもなって親と二段ベッドで寝てるヤツなんていない。俺はもっと自分の時間をもらってもいいし、自分のプライバシーを与えられていいはずだ。自分のPCをもってるヤツもいる。服ももっとたくさん買いたいし、小遣いだってもらってない。母がもし今日俺が家事をサボったことに対して不満を言ってきたら俺も不満を言い返してやろう。
彼はそんなことを考えているうちにいつしか眠ってしまった。
起きた時にはもう真っ暗だった。カーテンを開けっぱなしにして寝たので辺りの街灯がまぶしかった。彼は強烈な空腹感に襲われた。起きた理由はきっとこれだろうと思った。時計を見るとまだ十九時半だった。今からなら母が会合から帰って来る前に家事をこなせそうだった。彼はさしあたり腹ごしらえから始めることにした。彼はカップ麺と冷凍のチャーハンのうちどちらを食べるか迷ったが、チャーハンを食べることにした。チャーハンを半分だけ温め、ラップを外すと彼はむさぼるような勢いでそれを平らげた。いかに自分が今日一日空腹のまま過ごしたかを自覚した。しかしまだ空腹感は収まらなかった。彼はさらに袋の残り半分を食べたくなった。しかしそれは母のために残しておいたものだった。真琴は母の食事が他にないか探した。冷凍庫には肉があった。冷蔵庫にあると思われた真琴の残した朝食の目玉焼きとパンケーキはなぜかなかった。母が昼食に食べたのだろうか。他にはおかずの残りがわずかにあった。わずかだが戸棚にお菓子があった。しかしお米を炊いていないのでチャーハンを食べてしまえば母が食べる米がなくなってしまうことになった。真琴は迷ったが残り半分のチャーハンも食べることにした。米はあとで炊けばいい。それにカップ麺もある。母が帰って来てから肉と野菜で何か作ってあげればいい。それに料理はそもそも母がすればいいことだ。
真琴は空腹が満たされるとベッドに横になった。彼はスマートフォンで動画サイトを見ることにした。スマートフォンはもともと母のものだったが、周りの友達がみなスマートフォンを持っているのに自分だけ持っていないのがつらいと打ち明けると母が貸してくれて、以来ほとんど真琴が占有しているものだった。はじめに見たのはお笑いコンビのコントの動画だった。彼は次に知らない外国人ブロガーが東都観光を楽しむ動画を見た。しかし見始めてすぐ再び強烈な睡魔に襲われ眠ってしまった。
彼は電話の音で目を覚ました。「やばい寝てた。急いで家事をしないと」と思った彼だが、しかしそれよりも優先すべきは電話に出ることだと気付いた彼は慌てた。もう六コールほど鳴っていたが、電話は切れないでくれていた。彼は時計を見ながら電話に出た。時刻は二十三時を回っていた。こんな時間に誰から電話だろうと彼は思った。と同時にこんな時間になっても母が帰って来ていないことが不思議だった。もしかしたら会合に出た人と食事に行ったのかもしれない。電話の相手はきっと母であり「もうすぐ帰るから」という内容に違いない。彼は受話器を取る一瞬のうちにそんなことを思索した。電話の相手はこう言った。
「もしもし、藤原様のお宅ですか?」
聞いたこともない若い女性の声だった。
「はい…」
「私、柳原総合病院の櫻井と申します。藤原恵実様のご家族の方でお間違いございませんでしょうか?」
真琴は慄然とした。電話の相手の女性は非常に親切そうでいながら、しかしどこか事務的で冷淡な話し方をした。
「はい…」
「藤原恵実様が先ほど当病院に緊急搬送されました。こちらにいらしていただくことは可能でしょうか?」
真琴は頭が真っ白になった。
「え…!? 大丈夫なんですか!?」
「すみません、私は医師ではありませんし、お電話ですので詳しい容態はお伝えいたしかねます」
「何があったんですか!?」
「そのあたりも事件の場合は警察の方に確認していただく事案になりますので私の方では申し上げかねます」
真琴はじれったくなったが、とにかく今この女に何を聞いても意味がなく、急いで駆けつけるのが最善だということは理解できた。
「わかりました今すぐ行きます!」
真琴は電話の相手にいら立ちを覚えつつ母の無事を祈った。
「はい。お待ちしております」
真琴は電話を切ると床に脱ぎ捨てていた上着を掴み取った。冬なのできちんとした寒くない格好をすべきか迷ったが、どうせ国道まで走るのでむしろ上着一枚でちょうど良いと思った。真琴はスマートフォンと財布をポケットに突っ込んで上着は小脇に抱え、かかとをつぶしたままスニーカーを履いた。鍵はかけずに家を跳び出した。スニーカーのかかとは走っているうちに入れることができた。国道までの道は暗かった。いつもは短いその道もその日はやたらと長く感じた。だんだん息が切れて前へ進む力がなくなってきた。それでも真琴は腕や頭を振り乱すように必死に走った。肺が苦しくて意識が飛びそうだったが、それで母が助かるなら俺を殺してくれとさえ思った。
大通りに辿り着いてもそれで終わりではなかった。真琴はタクシーを拾う必要があった。しかし左右を見渡してもタクシーの姿はなかった。それどころか車もまばらだった。真琴は選択を間違えたかもしれないと焦った。自分自身にいら立った。それ以上に大通りをタクシーが走っていないことに腹が立った。彼はこの状況を改善する四つの策を考えた。
一つは月見が丘の駅に向かって走ってタクシーを見つけること。駅に辿り着く途中で見つけられれば上出来で、最悪駅には確実にタクシーはいるだろうから、それに乗る。
二つ目は、琢磨の家に走って行くこと。琢磨の家は少し遠いが事情を話せば車を出してくれるだろう。
三つ目は杏奈の家に行くこと。彼女の家に行ったのは一度きりだったが、やはりおそらく車くらいは事情を話せば出してくれるだろう。彼女の家は琢磨の家より近かったが、しかし行き慣れている琢磨の家と一度しか行っていない杏奈の家とでは心理的なハードルは前者の方が低かった。
四つ目はそこら辺を走っている車を拾うこと。つまりヒッチハイクだ。見ず知らずの人に助けを求めるのは気が引けたし、成功の確率は未知数だが、しかしそんなことを言っている場合ではなかった。親指を立てるどころか、体で車を制して停めてしまっても良い。
真琴は迷っていたが、迷う頭でしかし駅を目指して走っていた。全力で走ればおそらく十分ほどで駅まで辿り着ける。駅にタクシーがいないことはさすがに想像できなかった。現時点で確実性がもっとも高い方法だった。疲労に伴い走る速度は遅くなっていた。それでも真琴は自分の体をどれだけ酷使してもできるだけ早く駅まで辿り着くと心に決めた。彼はその間も周りの車に目を配った。
すると通りの向こうでタクシーが停車しているのを目に止めた。真琴は慌ててそちらへ向かって走った。彼はそれが送迎中でないことを祈った。後部座席を見たが誰も乗っていない。次にそれが迎車中でないことを祈った。車は停車中でおそらく誰か乗客を降ろした直後のようだった。次に彼はその車が真琴に気付かずに走り出さないことを祈った。
「すみません!」
真琴は叫んだ。しかし広い道路である上に真琴が叫んだタイミングで車が横切ったため彼の声は車内のドライバーには届いていないようだった。彼は走りながら一二度大きく手を振り、もう一度叫んだ。
「すみません!」
ドライバーは真琴に気付いていそうに見えなかった。真琴は脇目もふらずに走った。横から車が来て轢かれても良いとさえ思って走り、ドライバーに変な人だと思われても良いとさえ思って叫んだ。
「すみません!」
すると怪訝そうな目でドライバーはスマートフォンから目を離して真琴を見た。真琴は安堵した。歩道側に回り込むとドライバーはドアを開けてくれた。真琴は息を切らしながら後部座席に乗り込んで「すみません」と言った。
「柳原中央病院まで」
真琴は息を切らしていても一回で伝わるようにと声を張った。
「あ、はい」
タクシードライバーは行き先を聞いて事情を察したようだった。彼はすみやかに運転へと入った。真琴は気が抜けてぐったりと疲れてシートに全身を預けた。ドライバーは運転中に何も話さなかった。真琴は急な酸素の消費で朦朧とする意識の中で今起きている出来事、先ほど電話で告げられたことがすべて嘘や幻の類であってほしいと願った。この意識が途切れて目が覚めたらすべてが嘘であれば良いと願った。道路脇のオレンジ色の大きな街灯は道路と真琴の顔を等間隔で照らした。それは甘美でもあり、同時に不気味で仰々しくもあった。真琴は車で送られてウサギ教の施設に行った日のことを思い出した。道はまったく違うのになぜそんな記憶がリンクするのかわからなかった。息はだんだん整ってきて、それにともない意識も鮮明になってきた。するとこの十分ほどの間に起きた出来事が明瞭な事実であることを嫌でも自覚させられた。それならばいっそ病院に早く着けと願った。しかしなかなか車は病院に辿り着かなかった。真琴は柳原中央病院のあたりに行ったことはほとんどなかったが、柳原中央市街に住んでいた頃に何度か中央病院のあたりを父の運転する車で通ったことがあるのを思い出した。それは住宅街に場違いに佇む白くて大きくて不気味な建物だったと記憶していた。タクシーはひたすら国道を走った。国道は真琴の記憶にあるよりはるかに長かった。タクシーはかなりのスピードを出しており、深夜ということもあって道は空いていたが、先を走る車をどんどん追い抜いた。ドライバーは相変わらず一言も話さなかった。
真琴は母の身に何があったのだろうかと推測した。おそらく施設からの帰り道に交通事故にでもあったのだろう。もしかしたら教団関係の事件に巻き込まれたのだろうか。なぜ母がそのような目に遭わなくてはならないのだろうか。母は無事だろうか。事件であれ事故であれ、軽傷で済んだかもしれない。しかしだとしたらなぜ病院の女性は家族宛に電話をしてきたのか。軽傷なら手術も入院もいらないし、それなら代理で電話をする人間はいなくても良い。母が電話すれば良いし、何なら電話などしなくても自分の足で家に帰って事情を説明すれば良い。母が自分から電話ができない状況とはどのようなものだろう。おそらくベッドから起き上がれないほどの重傷。もしかしたら命に関わるようなもの。病院のルールとして重症の患者に治療を施す際には必ず家族に連絡をする決まりになっているのかもしれない。真琴はそのような思索をタクシーに乗っている間に何度も繰り返した。
真琴が乗車してから十分後にタクシーは国道を曲がった。真琴はいよいよ病院が近いとわかった。それから五分の間タクシーは住宅街を右に左にと曲がった。病院はなかなか視界の中にその姿を現さなかった。いよいよ姿を現すと、それは真琴が記憶していたよりずっと小さな建物だった。真琴は国道を曲がったところですでに財布を用意し、どの種類の小銭が何枚あるかまで数えておいた。タクシーが病院のエントランスに駐車すると、真琴はお釣りのないようにお金を払った。運転手は精算が終わる前にすでに後部座席のドアを開放してくれていた。真琴はそれをすり抜けるようにくぐって病院へと駆け込んだ。
受付の人に「すみません、藤原恵実の息子です」と伝えた。真琴は受付の女性は電話をしてきた女性に違いないとあたりをつけていたが、声を聞くとまったくの別人だった。
「あ、はい。救急外来で来た方のお見舞いでよろしいでしょうか?」
真琴は聞かれていることの意味がわからなかったので曖昧に返事をした。
「あ、…はい…」
「もう一度患者様のお名前を頂戴できますか?」
「藤原恵実です」
「はい、ただ今お調べしますね」
彼女は手元の端末で患者のリストか何かを調べ始めた。数秒後に彼女は母の居場所を言った。調べ始めてから答えるまでに時間はほとんどかからず、まるで初めから知っていたかのような早さだった。
「あ、はい。藤原恵実様は救急科にて処置中でございます。救急科へはまず右手へお進みください。突き当りを左手に進んでいただくと十字路がございましてその左手前方が救急科となります。処置中は藤原恵実様との面会はできかねますのでご了承ください。何かご不明点はございますか?」
その女も電話の女と同じく事務的な受け答えをした。
「大丈夫です。ありがとうございます」
真琴は一息にそう言うと救急科を目指し足早に歩を進めた。彼はつぶれそうな心を抱えながら体を前に押し出すように歩いた。母はどうして処置を受けているのだろうか。処置は何を意味するのだろうか? 「処置」と濁したのには意味があるのだろうか? 真琴は受付の女の冷淡さに腹が立った。受付を右手に進んで突き当りを左に進むとそこからはやけに急に暗くなった。彼は十字路を左手に見て通路の右側に救急科の入口を見つけた。彼は押しボタンでその自動扉を開いた。
そこから先の真琴の時間は停止し世界は凍りついた。水の中にいるかのように体は感覚を失い視界は暗くなり聴覚は遠くなった。自動扉の向こうには警察官が複数名いた。医師や看護師の姿もあった。手術中の赤いランプはすでに消えていた。それを見た彼はうまく働かない思考で母がどうなったのかを悟っていた。
彼は逡巡したい気持ちを抑えて警察官へと近づいた。警察官は医師らしき人物と話をしていた。警察官の一人が真琴の存在に気付いた。真琴が自身の名前と藤原恵実との続柄を申し伝えると、警察官は真琴に事件について説明した。
母は教団施設の一階、講堂と教団内で呼ばれている部屋で倒れているところを発見された。倒れていたのは母一人ではなく母を含む男女四名であった。母を発見したのは教団の信者で、彼は救急通報し救命士の指示に従って容態を確認したが、その時点ですでに心肺停止状態だった。その後救急車到着まで応急処置を試みたが救命には至らなかった。間もなく救急車が到着したが搬送中にも蘇生には至らず病院で正式に死亡が確認された。司法解剖はまだだがおそらく何らかの劇薬の服用による集団自殺であるとみて間違いないだろう。現在他の警察官が教団施設及びその周辺を捜査中である。おそらく何らかの痕跡が教団施設内で見つかるものと思われる。自殺他殺両方の線で捜査をしているが、遺体に争った形跡がないことから自殺の線が濃厚と思われる。




