009.『彼が今日自殺をする理由』01
藤原真琴の両親が離婚したのは彼が小学三年生のときのことだった。彼は母である恵実に引き取られた。子供というものは大人が思う以上に親の心理や事情を察する力に長けているもので、そうでなくても大声をあげての喧嘩が絶えなかった両親だったので、二人とも離婚の理由を話さなかったが、それが父の浮気であることを真琴は離婚の前からよく知っていた。父が浮気をする前から二人は不仲だった。父は無口だが少し理屈っぽく、少し短気なところがあった。母は少し変わり者で、短気というよりは変なところにこだわって相手に譲らず怒ることがあった。そんな二人だったので父が理屈を通そうとしたときに、母が妙なこだわりを見せて喧嘩になることが多かった。喧嘩になると母の方が強い癇癪を起こすので、最後には父の方が根負けして折れた。母が嫌なことはすぐに忘れるサバサバしたところがあるのに対して、対照的に父は変に記憶力の良いところがあったので、母の理不尽な言葉や振る舞いをいつまでも覚えていて、あとからやり返して喧嘩を再燃させることがあった。
真琴は大人しく優しい子だった。彼はよく周りを観察し、何でも相手に合わせた。喧嘩のあと、両親は毎回のように互いの目を盗んで真琴の部屋へやって来て真琴にこう尋ねた。「お父さんとお母さんが離婚したらどっちに着いていく?」と。真琴は父がそう尋ねたときには「お父さん」と答え、母がそう尋ねたときには「お母さん」と答えた。彼は自身が方便を使うことによる罪悪感よりも両親の機嫌を損ねることを嫌った。
離婚の際の親権というものは親が子の世話をどれだけしたか、親が子とどれだけの時間を共に過ごしたかなどで決まる。普段家庭を顧みなかった父に親権が渡ることはなく、元妻に手を引かれて出て行く子の背中を父は寂しく見送った。真琴はそんな父の姿を振り返り見て、何よりも「お父さんがかわいそうだ」と感じた。
母は新しい住居を柳原市月見が丘のアパートに選んだ。隣接する旧山名町が母の出生地でありそこに三軒の親戚があったこと、またニュータウンである月見が丘には仕事が多そうに思えたことがその理由だ。1Kのアパートは三人で住んでいた団地の部屋よりもさらに狭く感じられたが、秘密基地や隠れ家のようでそれが二人をわくわくさせた。ホームセンターで家具を選ぶ母は子供のように楽しそうだった。母が笑うと釣られて真琴も笑った。
引っ越した当日はその足で近所のホームセンターで二段ベッドと寝具を買った。翌日にはコンロと調理器具と食器を買って二人で料理を作った。テーブルがなかったので床で食べた。三日目にはテーブルと棚と照明を買った。四日目には冷蔵庫と電子レンジを買った。もとの住居からは最低限の衣類や勉強道具、化粧品など以外はもって来なかった。その理由について「新しく気持ちを入れ替えるためだ」と母は説明したが、父を思い出すのが忌まわしいというのが本当の理由だと真琴は知っていた。買い物をして家の間取りを少しずつ埋めていく母は楽しそうだった。そんな母と一緒に新しい生活のことを考えながら買い物をするのが真琴も楽しかった。ホームセンターからの運搬は台車を借りて自分たちで行った。冷蔵庫やベッドを運ぶ母を見て細いのにパワフルな人だなと真琴は思った。台車に積むときなどはホームセンターのスタッフが助けてくれたりもしたし、台車からベッドが落ちてしまったときは通りすがりの男性が手伝ってそのまま家まで運んでくれた。ベッドの組み立ても自分たちで行った。作業の要所要所で母がコンビニエンスストアでスポーツドリンクを買って来てくれたが、それを二人でおいしいおいしいと言って飲んだ。ベッドに寝たことがなく、密かに憧れていた真琴は二段ベッドの下段の秘密基地のような居心地の良さに興奮し、運搬や組み立てによる疲れもあってその日はぐっすりと眠った。
アパートは一人暮らし専用であり、親子での入居は本来契約違反だったため、二人は息をひそめて暮らした。母は世の中の、とりわけ大家と不動産屋の料簡が狭いせいで自分たちが不便を強いられているが我慢しなくてはならない、と自分たちの行いを肯定しつつそれでも狭苦しいルールに従う自分たちの健気さを美徳として真琴に教えた。真琴はそれが母の嘘であり、自分たちがお金がないためにルールを破っているだけだと看破していたが、無邪気に信じているフリをして時折不動産屋や大家の悪口を言って母の機嫌をとった。そこは住宅街で夜になると外が静かになる上に壁が薄かったため、夜は大きな声を立てないというのが二人の約束だった。布団の中でひそひそ声で話すのが、この広くて暗い世界でたった二人大好きな母と秘密を共有しているかのようで、真琴はわくわくした。
ほどなく母はメスの文鳥を一羽買ってきた。ペットも不可のアパートだったが、文鳥の鳴き声はさほど大きくない上に、メスはほとんど鳴かないからというのがその名分だった。母はその子に「小夜」と名付けた。
文鳥の飼い方を知らない二人は動画で学ぶことから始めた。文鳥は配合飼料だけでは育たないということを知った二人は早速ボレー粉と呼ばれる牡蠣の殻を砕いたものを買って来て与えた。それから二人は文鳥は野菜や果物も好きということを知ったので、野菜を食べた日は文鳥にもそれを与えた。真琴は自分の食べる分を減らしてまで与えることがあった。特に彼女は葡萄を好んで食べた。
彼女の性格は非常に臆病だった。新しく見るものは何であれ警戒したし、見慣れたものであっても、ティッシュペーパー一枚にすら怯えた。そのくせ彼女は甘えん坊でわがままだった。最初は二人を警戒した小夜だが、ほどなくして二人の手に乗せても警戒しないようになり、ついには手の中で眠るようになった。しかし少しでも寝心地が悪いと怒って抗議した。
文鳥の世話をするのが二人の楽しみになった。だんだん慣れてくると母の手から真琴の手へ飛び移って遊ぶようになった。文鳥は一日一時間程度の放鳥をするのが飼い方のセオリーだったが、二人は長い日は何時間でも遊ばせた。
冬になると文鳥のためにケージに取り付ける小型の暖房を買った。暖房には気温を感知して自動でオンオフを制御するサーモスタットという機械を取付けた。鳥かごも大きいものを買った。母は小夜のことになるとお金を惜しみなくかけた。
文鳥はあまりブランコに興味を示さないと聞いていたが、試しに買ってみると案の定小夜はブランコに乗らず、嘴でつついて威嚇した。それはそれでオモチャとして機能しているようにも見えたが、しかしずっとブランコに対して怒り続けている小夜を見ると、精神衛生上良くないように思えたのでほどなく撤去した。そのほか鏡や鈴も買い与えたが小夜は興味を示さなかった。
そのうち小夜は母や真琴の指を毛だと思って毛づくろいするようになった。くすぐったかったが、小夜が一生懸命愛情を返してくれるのが嬉しかった。小夜には噛み癖があったが、二人の指は決して噛まなかった。
小夜はその他水浴びも好きだった。鳥かごに備え付けた器でも水浴びしたが、真琴の手に乗って水道の水で水浴びするのが特に好きだった。
小夜は穀物の中で特にカナリーシードが好きで、真琴がそれをつまんで嘴に近づけると、親鳥から餌をもらうようにそれをついばんだ。
文鳥が好んで食べる野菜を調べるとエンドウ豆の芽にあたる豆苗というものがあることを真琴は知った。容器に入れると切っても切っても何度も伸びてくるらしく、それを知った真琴は百円ショップで頃合のタッパーを買ってきて、それに豆苗を入れて育ててみた。半信半疑だったが、たしかに収穫したあとでも新たな芽が伸びてきた。小夜はそれを見て最初は警戒したが、つついているうちに食べられるものであることに気付いて好んで食べるようになった。何度も収穫できて小夜にも栄養を与えられる最高の食材を手に入れたかに思われたが、二三度収穫すると根腐れが起こるようになった。真琴は品質や栄養の面で不安を覚えたため、一つの商品で収穫は三回までと決めた。
真琴は小夜を手に乗せたままテレビを見るのが好きだった。何時間でも見ていられたし、小夜が自分の掌の上で眠ってくれるのが嬉しかった。そのうち真琴もうとうとと眠ってしまうこともあった。母はそれを見てそっと肩掛けを真琴に掛けた。
小夜は真琴が勉強を始めると鳴いたり飛び跳ねたりして鳥かごから出してほしそうにアピールした。どうして決まって勉強をしているときにそのようなアピールをするのかと真琴は不思議がったが、そのうち手に持っているペンに嫉妬しているのだと気付いた。
母は服が好きだったため、クローゼットは母の服だけで埋まってしまった。仕方なく真琴のためにワードローブを買ったが、その頃には1Kの部屋のスペースは埋まってしまっていた。母は新生活のために買いたい物がたくさんあり、それをたびたび真琴に楽しそうに聞かせてくれたが、1Kの部屋は思っていたよりも狭くその半分も買うことはできなかった。
引っ越すと同時に前職を辞めた母の仕事はなかなか決まらなかった。接客の経験しかない母に近場で正社員の口を探すのは容易ではなかった。面接の約束を取り付けることすら難しい状況に母のため息の数は増えた。仕事が決まらない間の生活費や家具を買い揃える資金はどこから得ているのだろうと真琴は考えたことがあるが、子供ながらにそれが「慰謝料」なのだと彼は推測した。
あるとき母はアパレル系卸売り企業の求人広告を目にした。アルバイトではあったが、時給千円を超えていたことと正社員登用制度があることに興味をひかれた。勤務地は自転車で三十分で通える物流センターだった。以前アパレル系の仕事をしたことがある母はそこに運命的なものを感じた。卸売りは初めてだったが、せっかくの新しい生活なのだから仕事も一から新たな業種にチャレンジしてみても良さそうだという思考も手伝って母は応募を決意した。面接から帰って来た母はアパートに入居したとき以来の会心の笑みを見せてくれた。真琴は仕事が決まったことよりもそれを喜んだ。その晩は二人の好きなあさりのパスタを二人で作って食べた。
母は時々寝ているときに「お父さんがいなくてさみしくない?」と真琴に尋ねた。真琴は「さみしくない」と答えた。それは本心から出た言葉だった。しかしそうあっさり答えてしまう自分を顧みてそれが良いことなのか悪いことなのか真琴自身にもよくわからなかった。
もともとあまりしゃべらない真琴は知り合いのまったくいない学校に慣れるのに苦労した。彼は肌が白く、体は細く、大人しそうに見えたし事実大人しかった。そのため彼は悪目立ちすることはなかったが、一部の男子から横柄な態度をとられることがあった。中でも神代琢磨から受けた嫌がらせは執拗だった。神代琢磨には両親がいて真琴に比べれば裕福だった。背が高くてサッカーをしていたため体力があり、喧嘩が強かった。同じ一人っ子ではあるが、真琴とは対照的に高慢に育った。琢磨は転入生として真琴がクラスメイトから一目置かれチヤホヤされているのが気に入らないらしく、真琴の持ち物、服装、態度、言葉にいちいちケチをつけた。琢磨がそういう態度をとったとき、真琴は黙るか謝るか笑顔で受け応えするか、そのどれかを選んだ。少し嫌そうな顔はするものの、決して反撃はしなかった。琢磨の言葉の中でも真琴を苦しめたのは真琴の服装と持ち物が最低限の安物で構成されていることをなじられたときだったが、それにさえ真琴は言い返さなかったし、泣くことも怒ることもしなかった。
まったくやり返さない真琴だが、それを見かねてクラスメイトの一人が琢磨を咎めた。彼は三枝悠樹といった。彼は琢磨による「真琴いじり」が始まると必ず真琴に代わって反撃をした。二人の口喧嘩は必ず互いの意地と怒りが高じて殴り合いの喧嘩になった。悠樹も野球をやっていて体力はあったが、やや小柄であるためいつも琢磨が勝った。そのたび「二度と俺に逆らうな」と琢磨は吐き捨てた。しかし琢磨が真琴をいじめると必ず悠樹はそれを許さず立ちはだかった。琢磨と悠樹が喧嘩をしているとき、真琴は黙っていた。やがて悠樹が喧嘩に負けると駆け寄って悠樹の心配をした。悠樹は決して琢磨の蛮行を先生に報告することはしなかった。先生に「チクる」ことは卑怯なヤツのすることだ、というのが悠樹の哲学だった。からかわれてもまったく怒らない真琴を悠樹は殴られて腫れた顔で一度だけ責めた。
「お前怒れよ!」
そう言われた真琴は悠樹の言葉の意味を理解できなかった。
「…なんで?」
「は? なんでじゃねえよ。普通怒るだろ」
真琴は申し訳なさそうに笑った。
「じゃあ俺普通じゃないのかも」
これにはさすがに返す言葉が思いつかず、すっかり毒気を抜かれて悠樹は笑った。そんな悠樹に対し真琴も学校の帰り道に素直な疑問をぶつけてみたことがあった。
「なんでいつもかばってくれるの?」
悠樹は唖然とした。
「そりゃ普通イジめられてるヤツのことは守るだろ」
そう言って先を歩く悠樹の小さな背中を真琴は不思議そうに眺めながら歩いた。「でも他の人は守ってくれないでしょ?」とは聞かないことにした。真琴は悠樹の家に何度も遊びに行った。悠樹の家は吸収合併によりなくなった旧山名町に近い狭くて古い長屋だった。悠樹の家は真琴と同じ母子家庭だが彼には妹がいた。
「俺ん家狭いだろ?」と悠樹が決まり悪そうに言うと「そんなことないよ。いい家じゃん」と真琴は本心から答えた。真琴は後にも先にも友達の中でただ一人だけ、悠樹を自身のアパートに招待した。
「俺ん家狭いでしょ?」と真琴が聞くと悠樹は「ほんとだな」と答えた。
そんな真琴、悠樹、琢磨をとりまく状況に大きな変化が訪れた。そのきっかけはクラスにさらにもう一人転入生が現れたことだった。それは赤い髪と白い肌と緑色の瞳をもつ女の子だった。彼女の名は真壁杏奈といった。彼女の外見的特徴はアイルランド人の母のそれを色濃く受け継いだものだった。彼女はこの外見上の特徴からか、あるいは生来の性格からか、クラスに自分から溶け込むことができなかった。彼女は素敵な笑顔をもっていたが、いつもはにかんでばかりで人に話しかけるのが苦手だった。孤立している彼女を真琴は自分に重ねて彼女によく声をかけた。悠樹も一緒に声をかけたため、三人はそれ以来よく一緒に遊ぶようになった。彼女には兄弟がなく、彼女の家は父子家庭だが裕福で、月見が丘のニュータウンに白くて綺麗な一軒家をもっていた。車庫があり、小さいが庭があり、二人の男子からすると豪邸だった。
転入生がチヤホヤされているといちいち気に障る琢磨は、杏奈が真琴や悠樹と仲良くしているのを見るとそれを快く思わなかった。彼は真琴のことをいじめるのをやめて、代わりに髪の色や瞳の色のことで杏奈をいじめるようになった。案の定悠樹がそれを許さなかった。しかしやはり悠樹は琢磨に毎回喧嘩で負けた。真琴はそれを見ていることしかできなかった。杏奈もまた同様だった。
ある日、悠樹が家の仕事を手伝うために学校を休んだことがあった。琢磨はいつものように杏奈をいじめた。すると今まで一度も琢磨の蛮行を阻止すべく立ち上がったことのない真琴が立ち上がり、琢磨と杏奈の間に割って入った。クラスメイトのほとんどが驚きとともにそれを見守った。
「何だてめえ、ザコは引っ込んでろよ!」と琢磨は言った。すると意外にも真琴は静かに涙をこぼした。琢磨も杏奈もクラスメイトも、全員が呆然とした。沈黙を破るように真琴がぽつりと言った。
「何でそんなひどいこと言うの?」
琢磨は半笑いを浮かべて自分を肯定するように言い訳をした。
「は? 俺はただほんとのこと言っただけだし? 髪が赤いから赤いって言って、目が——
そこまで言った琢磨を睨んで真琴は言った。
「馬鹿にする相手がほしいなら俺を馬鹿にしろよ。殴る相手がほしいなら俺を殴れよ」
琢磨は真琴のこの意外な言葉に言い返すことができず、自己の行いを弁護することしかできなかった。
「俺は別に杏奈としゃべってただけだし」
しかし周りからの白い目に気付いて琢磨はいたたまれなくなった。彼は「まあ別にもうしゃべることないからいいんだけど」と言って自席に戻った。
翌日、悠樹はそれを知って真琴に対して怒った。
「てめえ情けねえな!」
しかしそれを杏奈が制した。
「やめて。真琴くんはあたしをかばってくれたの。それに…」
杏奈は硬い声でぽつりと付け加えた。
「あたしのために泣いてくれたの」
悠樹は杏奈を、次に真琴を見た。真琴はただうつむいていた。
事件が起きたのはその翌日だった。琢磨はその日も杏奈に罵声を浴びせた。すると杏奈を守るために間に割って入るかに思われた悠樹は席を立つとクラスを出て行った。真琴は不思議そうにそれを見送った。代わりに真琴が杏奈と琢磨の間に入った。すると琢磨は「何だよまたお前かよ」と呆れたように言った。
「どうせ俺に逆らう度胸もねえんだし喧嘩も弱えんだから引っ込んでろよ」
真琴はそれを聞いても黙っていた。するとあらぬ方から声がした。
「強ければいいのか?」
その声はクラスの入口からした。よく通る強い声だった。そこには隣のクラスの男子がいた。真琴はその名前を知らなかったが、スポーツが得意なことで学校中で有名な男子だった。
「阿久津だ…」とクラスメイトの誰かが言った。クラス中がざわついた。彼の名は阿久津翔吾といった。よく見ると阿久津の後ろには悠樹の姿があった。どうやら悠樹が隣のクラスから呼んで来たらしかった。翔吾は琢磨に真っ直ぐに近づいて来た。
「逆らう度胸があって喧嘩が強ければ間に入っていいんだよな?」




