第六十六話 大陸を渡る
磯の香りが鼻腔に広がる。
ユシアの目の前に広がっているのは、グレイモール王国最大の港湾都市ルースだ。
丘の上からでも、港に停泊している帆船の姿がはっきりと確認できる。
生まれてはじめて見る海にユシアは心が吸いこまれそうになったーー呼吸をするのも忘れてしまうほどの、どこまでも果てしなく続く大海原に感動を覚えていた。
マルバーラの街を出てからも、背後に感じる〈灰人〉の影に精神を蝕まれていたユシアだったが、目の前に広がる光景はひと時の安らぎをもたらしてくれた。
ヘルガの襲撃を受けてからと言うもの、ユシアは己の不甲斐なさを痛感し、さらなる力の向上のためベルドに教えを請い、日夜訓練に努めた。
ベルドはルファの師匠だけあり、今まで訓練を受けてきた教官とは一味も二味も違った。
ここで自分が実力をつけなければ、いざと言う時、エリーセを守ることができないーーセルディック共和国にはどんな脅威が待ち受けているかわからない。
困難と言う名の壁が目の前に立ちはだかった時のため、どんな結果になろうとも、準備を怠るわけにはいかない。
ベルドに先導され、丘を馬で駆け、街へと入るーー魚市場へと入ると、魚介類独特のにおいがあたりに充満していた。
ユシアがこれまでに見たことのない魚や貝類が売られている。
宿屋にある厩舎に馬を繋ぎ、中へと入るなり、ベルドが食堂に響き渡る声で言った。
「船を出せる者はいないか? 我々は国の命で大陸を渡る必要があるーー報酬は弾むぞ」
食堂にいる人々が一斉に入り口に立っているユシアたちを見た。
太陽がまだ真上にあると言うのに、食堂には酒を飲んでいる人相の悪い輩が多かった。
「なんだぁ、おめぇは。大陸を渡るだとぉ!」
中年太りの男がベルドに歩み寄り、睨みつけた。
「そうだーーシルディス大陸のセルディック共和国まで連れて行ってくれ」
ベルドがそう言った途端、食堂が騒めいた。
「セ、セ、セ、セ、セルディックだとっ! ふざけてるのか、てめぇは! あんなとこ、行く奴の気が知れねぇぜ」
男はあからさまに慌てふためいた。
「なにをそんなに驚いているんですか? セルディック共和国になにがあるんです?」
ユシアが前へ出て言ったーーすると、男はまじまじとユシアを見てさらに驚きの声を上げた。
「あ、赤い瞳ーーお前ら〈赤銅の剣〉か! 冗談じゃねぇ! 神獣を倒した罰当たりの集団なんかに関わったら、おれまで呪われそうだ」
当然ながら、神獣サラマンダーが〈赤銅の剣〉によって倒れたと言う事実は一瞬にして国中に知れ渡った。
今では吟遊詩人や商人たちが言葉を巧みに操り、人々に物語や歌にして聞かせている。
いくら国を救ったとは言っても、神獣を信仰しているグレイモール王国では、ユシアたちが行った行為を手放しで褒める者はいないに等しかった。
「おい、お前。ユシアの質問に答えろーー二度は言わんぞ」
ベルドが睨みを利かせると、今まで威勢のよかった男は縮み上がった。
「わ、わかった、言うよ。セルディックは〈アストラル〉の枯渇が深刻な問題になってるらしい。そのせいで大地は灰と化し、まともに生活もできないほどになってるんだとかーーいや、おれも人から聞いた話で自分の目で見たわけじゃねぇんだ。なんせ、グレイモールとセルディックは国交がないだろ? だから、たしかな情報はわからねぇのさ」
「〈アストラル〉の枯渇? それが本当だとしたら、セルディックは他国の争いに関わってる場合じゃないんじゃないか? 自分の国が危機に瀕しているのに、同盟なんて結んじゃくれないだろ」
「たしかにユシアの言うとおりだねーーベルド、同盟国にセルディックを推したのにはなにか理由でもあるの?」
デルフィが尋ねた。
「......昔より〈アストラル〉を巡って国同士で争いが絶えないのはお前たちも知ってるだろうーーセルディックはその中でも唯一と言っていいほど、他国の者に対して寛容な国でもある。セルディックを推したと言うよりは、グレイモールの現状を踏まえると同盟を結べる唯一希望のある国がセルディックしかない、と言うことだ」
「その言い方だと、他の国よりは同盟を結べる可能性が少しはあるって程度なのか?」
ユシアが少し落胆したように尋ねた。
「ーーそうだ。どこもかしこも、自国のことで頭がいっぱいで外国のことなど気にかけている暇はない」
「......でも、なにもしないわけにはいかないでしょ。セルディックの現状がどうであれ、国を救える可能性があるなら行くべきだとわたしは思う」
「ルファ、いいこと言ったわ! 考えるだけで行動に移さないなんて愚か者のすることよ。少しでもなんでも希望がある限り、わたしは諦めないわ」
エリーセが食堂全体に聞こえるほど大きな声で言った。
「お、おい。さっきから国を救うとか言ってるが、あんたら何者だ? 同盟って......?」
男がユシアたち一人一人を見渡したーーすると、ベルドが男に顔を近づけて囁いた。
「国の命だと言っただろうーー今、グレイモールが帝国の攻撃を受けているのは知ってるだろう? 我々はこの窮地を脱するため、セルディックと同盟を結ぶための交渉に行く。上手くいけば、お前さんには王女が直々に莫大な報酬を出すだろう」
ベルドの虚言に男は顔をほころばせ、笑った。
先程までの傲慢な態度が嘘のようだ。
「へへへへへ......そいつを先に言ってくれりゃ、さっさと船を出しましたものをーーさ、こちらです旦那方」
男は大層な笑みを浮かべ承諾した。
「なんて現金な奴だ......」
ユシアは呆れてものも言えなかったが、ベルドは交渉が成立したことで気分がよくなっていた。
「見たか? これが交渉術と言う奴だ」




