識別
教室のカーテンが風で膨らみ、斜陽が黒板に反射した。
入り口の手前に掛けられたCASIOの針は、4時16分を指している。
新鮮な空気を欲して窓を開けると、11月のうっすらと寒い風が、この後の職員会議を欠席したくなるような衝動を掻き立てた。
そんな感情を抱きつつ、バスケ部のボールが弾む音や、金管楽器のロングトーンを耳に入れると、自然と我に返っていた。
――体育教師をしている本田有喜は、この学校に赴任してきて4回目の二者面談を迎えていた。
この時期は、成績処理等ただでさえ多忙を極める時期だというのに、隙間無く埋められた面談スケジュールの用紙を見ると、溜息をつきたくなる。
できるだけ対話の時間を短くして、自身の休息に充てたい。
大抵、優秀な生徒には話すことを簡潔にまとめ、早めに教室を出すのは、そのためだった。
日々の鬱憤はひとまずイロハスと共に呑み込み、窓とネクタイをしめて、机上の資料に目を移した。
次に来るのは…岸田の親御さんか。
毎回のことではあるが、初対面の年上に会うのは少し緊張する。
しかし、緊張感の漂う二者面談はある意味、正常な空間なのかもしれない。
この学校で昔、26歳の男性教員が71歳の親に向かって、タメ口で面談をして辞職したのは有名な話なのだ。
もうそろそろドアが開いてもおかしくない時間だが、廊下に人影は現れない。
やっと足音が聞こえたので腰を上げ、古くて重い金属製のドアをスライドさせると、視界に入ってきたのは大人ではなく、学生服を着た四角い頭だった。
どうやら親が校内で迷子になっているのを伝えに来たらしかった。
確かに、来校客が教室に辿り着けずに立ち往生するのも無理はない。
この学校は、今年創立70周年を迎えるため、門から最初に目につく木造の棟に入ってしまうと、この教室がある新校舎に迷い無く突き進むのは困難だった。
彼の親に対するイライラは微塵も感じず、「角刈りのくせに学校に携帯持ってくんなよ」という、彼に向けた偏見だけが脳裏をよぎったが、表情には出さないでおいた。
予定の開始時刻を6分過ぎたところで、角刈りが奇妙なサングラスを先導して、教室に入ってきた。
「失礼します。遅くなってすみませんね」
「いえいえ、よくあることです。どうかお気になさらずに。どうぞ、お掛けになって下さい。岸田君、案内してきてくれてありがとう。もう、大丈夫だよ。」
「はい。じゃあ俺、先に帰ってるから」
「わかった。それでは先生、始めましょうか」
会話の途中から私は、入ってきた親のことが気になって仕方がなかった。
女か男かの判別が絶妙に難しかったのだ。
奴は、オジサンが持ち歩くような黒のセカンドバッグを持っていて、声質、骨格、髪型、仕草はどれも完全なる男である。
唇はカサカサで、メイクをしているかどうかは、気色の悪いサングラスのせいで分からない。
というか、面談でサングラスは外さないか、普通。
そのシチュエーションが日本で許されるのは、タモリが長渕か嘉門くらいのはずだ。
唯一の、強すぎる女の要素は、白いワンピースを身にまとっていることだ。
生徒の父親が学校にワンピースを着てくることは、常識的に考えづらかった。
他に特徴がないか探していると、自然と胸部に視線が落ちた。
女のステータスを胸で判断するのは15の頃からの悪い癖だが、世の男性という生き物には本能的にそのような仕組みが備わっていると聞いたことがある。
胸は……無い。
直線とか、まな板とか、小さなオッパイは様々な呼び名があるが、この人の場合、強いて言うなら“胸筋”だ。
「遼太がいつもお世話になってます。それで、彼の進路に関することなんですけども…」
「そうですね。岸田君は今、どの大学に行くかとっても悩んでいる時期だと思います。ご家庭でそのような話はされましたか?」
「ええ。本人は咲楽大学に行きたいと言っています。でも、その理由がね…」
「どんな理由なんですか?」
「サッカー部が強いからだって言うんです。私も中学の時にサッカーをしてたんですが、吹奏楽部の遼太が大学からサッカーを始めるのは…はっきり言ってムリですよ。」
「なるほど……」
しばらく会話を続けたが、“一人称は私”と“サッカー経験者”という、またしても男女どちらにも当てはめられる情報しか手に入らなかった。
サッカーは一見、男子がやりそうなスポーツだが、元なでしこジャパンの天然芸や、サッカーオタク坂道アイドルの口達者ぶりを思い浮かべると、女子選手も珍しくないと結論づけた。
奴は、オジサンバッグから、おにぎりとイロハスを取り出し、不定期的に摂取しながら会話が進んでいった。
この人と、水を選ぶセンスが同じであったことが悔やまれる。
今朝、“期間限定”のポップに負けた自分を蔑んでやりたい。
「ところで、二者面談ってやっぱり、母親が来ることが多いんですかね?」
「そうですね。大概のご家庭はお母さんが来られますね。それがどうかされましたか?」
「いえ、うちは共働きなので、そこのところで少し揉めましてね」
「はあ。それで、どのようにお決めになったんですか」
「遼太に、どっちが良いか聞いたら、即答で…」
占めた、と思った。
ようやく謎が解明され、円滑に面談が進められる。
その時。
クシャッッ!!
空気が爆ぜる音がした。
あろうことか奴は、一番重要な部分でペットボトルを潰したのだった。
しかも、おにぎりは三口目にいこうとしている。
千載一遇のチャンスを逃してしまった訳だが、ここで、核心を突く質問を思いついた。
「ちなみに、下のお名前は何とおっしゃるんですか?」
「ヒロミです。」
またしても避けられた。
ヒロミという女性っぽい名前を聞いて、B21スペシャルの顔を浮かべてしまったらこっちの負けだ。
そういえばこの前、中庭で郷ひろみtとかいう学生が、ちゃちー系のライブをして騒ぎになっていたな。
「それはそうと先生、遼太は学校では大丈夫ですか?どうやらあまり友達と馴染めていないそうなんですけど…」
「え?遼太くんが?」
「はい。まあ、年頃だから仕方ないんでしょうが、髪型のことですごく悩んでいるみたいで」
「ああ。あの角刈りですか」
「そうです。なんでも、文化祭の出し物を決める時、周りの子に全然協力してもらえなかったそうで……」
あの時のことはよく覚えている。2ヶ月前、文化祭の出し物を決める学級会で、アイツは実行委員でもないのに前に立ってクラスを仕切った。
私は、入り口前のコルクボードに身を預けながら、口を挟まずにその様子を傍観していた。
「皆で一致団結して最高の思い出を作ろう!何か意見ある人いる?」
学園ドラマで有村架純が言いそうなクサイ台詞に応えたのは、サッカー部のエースだった。
「意見が無いなら、たこ焼きとかでいいんじゃん?みんな部活とかで放課後は忙しいし」
クラスの中心人物としての自分の立場と、頭髪検査ギリギリのツーブロックという髪型を弁えた良い発言だ。
「今こんな感じで意見が出ました。これが良い見本です。他に意見がある人はいませんか?」
数秒間の沈黙。
「あのさ、前から思ってたけど、お前角刈りのくせにクラス仕切んなや」
教室の時間が一瞬止まった。それは、彼の発言が禁句であったからではない。私を含めた32人が、「よく代弁してくれた」と感心し、スポーツ刈り気取りに無言の圧を投げかけたのだった。
職員室での報告会で、他のクラスのまとめ役が“成績トップの彼女”や“野球部キャプテンの彼”である中、“角刈りのアイツ”と言うのが、毎度のストレスなのだ。
出し物が決まった後は、エースによって角刈り法が制定された。角刈りは人をあだ名で呼んではならない、角刈りは夜10時までには寝なくてはならない、角刈りは吹奏楽部でなくてはならない、など…。
「確かに遼太くんの髪型は、クラスの中で少し目立つ存在ではありますが、コンプレックスは誰にだってあるものです。あまり敏感になりすぎずに見守ってあげるのはどうでしょう」
「そうですよね。学生はやっぱり角刈りじゃないと!うちは兄妹全員角刈りという教育方針なので。」
まさかあのみっともない髪型が、自分の意志でなかったとは。彼らの劣等感を想像すると不憫だ。
ふと、廊下側に目をやると、例の四角いシルエットが夕日に照らされていた。
どうやらガラス越しにこれらの会話を盗み聞きしていたらしい。
目の前にいる奇人も、息子の気配に気付いたようだ。
(角刈りのくせに部活サボんなよ。オフやとしても直で下校するねん、角刈りは。)
「岸田君。もう少しで終わりますよ」
一瞬ビクついた長方形は、バレて恥ずかしくなったのか、階段を全速力で駆けていった。
「おい!男やったらどしっと構えて待っとかんかい!」
大黒柱の立ち振る舞い。
一瞬、相手が頭を掻いた隙に、両脇から黒糸が垂れているのが見えた。それも剃り残しでは考えられない量の。
勝った。
父親で間違いない。そろそろ決着をつけるとしよう。
「というわけで。面談の内容はお父さんの方から伝えていただいて、共に大学受験をサポートしていきましょう」
「えっ?あっ……あの…。お母さんです」
負けた。
二択を外してしまった。濁して終わらせればよいところを、なんて惨めな賭けに出てしまったんだろう。
しかし、今日は良い経験をさせてもらった。ひょっとしたら、人生に与えられる超難問の内の一つだったかもしれない。健闘した自分を褒めてやろう。
「やっぱり私…、女なので。男性の方に性別を間違えられると少し傷つきます…」
「私、女ですよ。」
ジャルジャルさんのコントを基にしています。