二章 Kriesforgis Lucleids (目覚め)-5
少女は怖がるなと言われ、調教によって作られた感情の壁の奥に恐怖を抑え込んでいたのだ。
それに道すがらいくつか倒れていた死体も片付けておくべきだったなと後悔する。だが少女はそれを見ても特になんの反応も示さなかった。彼女にとっては鏡を見ているのと変わらないのかもしれない。
「どうしたもんかな……」
食料庫では椅子に座らせて目の前の食材たちを前に言う。
「好きなもん食べていいから……食べろって命令しなきゃダメか?」
リドムは自分でバカな質問だと思った。命令していいか聞くなんて変な矛盾に頭をポリポリと掻いている。
だが本当に馬鹿げているのは、何も考えずにこの少女に好きなものを尋ねた事だろう。そんなものがあるはずもなく、与えられるものをなんであれ食さなければならなかった少女には「好き」という概念が無いのだから。
「うるさいな……そうか。んじゃあ…そうだな、あぁ、じゃあちょっと待ってな」
リドムはつるしてあった肉を切って焼き、薄くスライスしたパンに適当な野菜と肉を挟んで、チーズなんかと一緒に挟んでサンドイッチを作った。
それを食べやすいように四分の一程度の大きさに切って少女の前に置くと、少女はじっとサンドイッチを見た。リドムは関知しなかったが少女の瞳孔が微かに動く。
「うまそうか?食ってみな」
少女はリドムを一瞥し、リドムはそれにうなずいて四分のひと切れをひょいと自分でこれ見よがしに食べる。
「やっぱ俺料理の才能もあるよな……」
わざとらしく独り言を言うリドム。少女はひどく汚れた手をゆっくりと伸ばしてサンドイッチに手を付けようとした時だった。
「あっ、待った」
少女はビクッと必要以上に肩を委縮させ手を引っ込めた。何か粗相をしたか、また罰が与えられるのかなどを深層で考えたのだろう、じっと固まってしまう。
「ごめん、違うんだ。君に罰なんて与えないし、君が悪い事をしたんじゃなくて……ほら、手が汚れてるから」
リドムは自分の至らなさに本当に申し訳ない気持ちで近くから布巾を取り、水に浸して少女の手をなるべく優しく拭いてあげた。
手の平も手の甲も傷だらけで、なるべく刺激しないよう配慮しながら。少女はこれまでの主人に手を触られた時とは違う感覚に少し戸惑いながらその様子を動きなく見ていた。
そうやって綺麗にしてあげた後、もう一度「どうぞ」と差し出す。少女は先ほどよりも長くリドムを見てからようやくサンドイッチを持った。
両手で小さなサンドイッチを持ち、ぱくりと小さい口で恐る恐ると食べる。それだけでリドムは心から安心したように、少女にわからないよう破顔する。
少女の一口は小さいが、まるで数年ぶりに味わう食事のように貪り食いついている。
実際まともな食事、誰かに作ってもらった食事など記憶の彼方にも無いのだから、これが初めての食事と言っても過言ではない。だから少女は何故自分がこれを食べる手を止められないかがわからなかった。
ただ感じたことない感情に支配されて、これまで感じていた恐怖とは違う恐怖にとりつかれるような感覚も持ちながら、とにかく食べる手を止めなかった。
リドムは満足気にその光景を見ながら一つ足りないものを思い出した。飲み物がない。パンには牛乳だとコップを探し、保管庫にあった牛乳を注いで渡す。それを受け取ってもやっぱり少女はすぐに飲むことはせず、了承を取るようにリドムを見つめてからリドムが「飲みな」と頷くまでは手を付けなかったが、ようやくそれを口にする。
少女がやっと四分のひと切れを食べ終わるのだが、そわそわしながら食事の手を止めてしまう。リドムはたったのこれだけで腹がいっぱいになったのかなと考えたが、実際はそうではなく切り分けられた残りのサンドイッチを自分のものだと認識していなかったのだ。
だから少女は手を付けられなかった。
「いや、全部君のだから。俺はさっき結構食ってるからな。たらふく食いな。足らなかったらまた作ってやるぞ」
少女の気持ちをすべて知っているかのように、リドムは労わりながらそう言って、その言葉を聞いた少女がリドムを見ると、初めてその瞳が光を灯したように見えた。
そして今度はさっきよりずっと早い手つきでサンドイッチを掴んで口へ運ぶ。
「気に入ったか?くく」
その少女の食べっぷりにそそのかされ、リドムは自分用にもう一つ別のサンドイッチを作った。別の具材を作って、一応また四分の一に切る。
自分で食べる時は切ったりしないのだが、もし少女が食べたがったら分けるためだ。
その試みはしっかりと活かされ、二切れ目を食べ終えた少女が新しいサンドイッチをじっと見つめていた。リドムは少し笑ってそれを差し出すと、少女は黙ってひと切れ受け取り、また両手で持って食べ始めた。違う食材で作られたサンドイッチの味の違いに目を丸くして見比べているのがリドムにはおかしかった。
結局少女は七切れのサンドイッチを食べ終えて、再び静かに固まってしまう。だが食べる前よりも雰囲気が柔らかくなっている空気をリドムは肌で感じる事が出来た。
「おいしかったか?満足したときはおいしかったって言うと作った人が喜ぶんだぞ」
少女は再びリドムを見る。口を開こうとはしなかったので「ひょっとして喋れないのではないか」と考えたが、それは杞憂である。少女は口をもごもごと開く練習をしてから言った。
「お、おいしかった、です」
それが少女と交わした初めての言葉。リドムはポッと温かい気持ちが広がって「そうか」と感慨深く答えた。