第七章 新たなる旅立ち-2
追って話せば単純な話だ。リドムが静かに家を出る前からリーシャはずっと起きていた。
リドムが外に出た時の音が聞こえていたわけではない、多分風の流れが一瞬変わったとか、本当にその程度のちょっとしたことがきっかけで、まるで冗談のように今このタイミングで彼女はリドムの部屋へ向かった。
眠れないリーシャは大きな不安を抱えていたのだ。それは第六感が働いて感じるような「リドムが居なくなるかもしれない」という不安などでは決してない。
どん底から救い上げられた「幸せ」がいつまた崩れ去ってしまうのかという、言語化することも出来ない漠然とした不安だった。
どうして今だったのか? 単に偶然としか言えないだろう。人生で時たま起こる奇跡のような偶然。綺麗な表現をするならば、きっと彼女とリドムの間につくられた絆がそうさせたに違いない――「ふざけて……」――。
となりですやすやと眠っていたセリーヌにも相談せず、リーシャはリドムの部屋を訪ねたのだ。
起きていればいいなと最初は控えめなノックを二回。返事がなかったことで、せめて顔を見てから寝ようかと扉を開けてしまった。
部屋の中には片手では数えきれない程度の宝石が置かれた机と、もぬけの殻になったベッドがある。だがリドムの愛用の品は一つと残らず無くなっていた。
リーシャはこの時、足元が崩れそうな気持ちを体験した。でもまだ崩れていない、ベッドはまだ温かい事を確認し、いなくなってから大した時間は経っていない事を把握すると、すぐに部屋を飛び出した。
クロスが気が付かない事も無理はないだろう、奴隷だったころから足音を立てないように歩き、扉も風の振動すら起こさないような閉め方をする事を自然と身に着けていたリーシャだ、ほとんど物音無くレーディン家を出て行ったし、クロスは西側の空に注意を向けていたことで家の門にはほとんど目をやらなかったから、リーシャが出ていった事を知るのは明日、セリーヌが起きて騒ぎ出した後なのだ。
そのリーシャが必死で走り、やっと追いついた。それだけの事。方向がわからなかったはず? なんてことはない、リドムはクリマイアを目指すと最初に言っていた。西にある国なのだから方向は簡単に絞れる。
「どうして……」
「嫌です! どうしてですかパパ! 一人にしないでっ……」
リーシャは涙を流しながらリドムに縋りつき、もう離したくないという気持ちが表れるように、息切れしてへとへとながら彼女は目いっぱいの力でリドムの腕を握っている。
リドムには全く痛みがなかったが、それでもリーシャの心が伝わるような強さだった。
「リーシャ……どうして来たんだ……なんで来てしまったんだっ……これじゃ、これじゃ本当に俺は……」
「パパ! パパ! 私はパパと一緒が良いんです! パパが居なきゃ、生きていけない……っ、一緒に居たいんです、一人にしないでください……」
「一人じゃないだろう! レーディン家の人たちが良くしてくれる! どうして俺なんだ! 良い場所だった、これ以上ないくらい良い人たちだ! なのにどうして来たッ!」
思わずリドムは声を荒げていた。リーシャの腕を振り払い、初めて怒鳴るように言ってしまった。
リーシャは表情を凍り付かせ、ついに表情を大きく崩した。
子供のように泣きじゃくる様子は年相応の少女と表現できるだろうか。
彼女はリドムの前では心を表に出せるようになっていたし、リドムと共に居たいという言葉は心からの吐露であった。
本当にリーシャが健全に育つ最中の子供であるなら、愛情で返されるべき決定的なやり取りだったのだ。それをリドムは怒鳴り返した。――「ふざけるなよ……!」――
「うぅっ、嫌です……パパぁ……おいてかないで……なんでも、なんでもしますから……奴隷としてでもいいですから、うあああああ」
リーシャはこれまでの人生で何かを願ったことがあったのか。
奴隷であった時、そこから抜け出したいと願ったことはなかった。そのような思考の幅がなく、自身を完全に人間の所有物である奴隷だと認識していた。
ならば何かをお腹いっぱい食べたいと願ったことはあっただろうか。それも無い。いつでもお腹いっぱい食べる事が出来たから。
ただ料理はなかったし、ネズミや虫、埃や布を食せばよかっただけ。死にたいと願ったことは? 彼女は既に死んでいるも同然だったし、死という概念もほとんど認識していなかった。首を絞められて苦しい時、死を予感することはあっても死ねば楽になると思ったことはなかった。
締められる苦しさがずっと続くのが死かもしれないと、どちらかと言えば死なない事を意識していた。
願いなんてなかった。リドムに救われるまでは。リドムと暮らして初めて思ったのだ、この人の隣に居たいと。
そしてリドムが言った。君は人間だと。人間が願いを持つことも、それを叶えるために行動することもすべてリドムから教わった。
その願いを、本人に否定されようとしているのだ。――「やめろ……」――
だから彼女は奴隷というワードを持ち出した。願いが叶わないなら人間じゃない、だからやっぱり自分は奴隷なんだと。――「やめてくれ……」――
そしてリドムが彼女の奴隷としての心をも拒否したらどうなるのだろう。願いを持った奴隷。
何も叶わない無価値な命と悟るのではないか。自分の人生に価値がないと知った人間は何をするのだろうか。
何もしなくなるだけ? それはきっと自分の価値をどこかで信じている人間がすることだ。
じゃあ自分という存在が根からマイナスだと思っていたら?
「リーシャ……」
「はい、はいっ」
「俺は……君と居たら死ぬんだ……解説が言ってて……だから居られない、俺はまだ何も見つけてない、何も出来てない。だからまだ死にたくない……俺を殺さないでくれ」
いずれ死ぬ事は確かだが、本人が知る由もない未来の事だ。リドムは妄想を盾にリーシャの願いへの妥協を求めた。でもリーシャは首を横に振った。
「そうなったら、私も一緒に死にます……っ」
リーシャはまだ子供だった。リドムのために引き下がることなど考えを持つことが出来なかった。それに。
「パパと一緒に居られないなんて、耐えられそうにないんです……」
彼女はゆっくりとリドムの剣を撫でながら続けた。
「私がいらないならっ、そう言ってください……」
不要なら殺せ、そう彼女は言ったのだ。リドムの剣で突き刺してほしいという意味ではない。
リドムの言葉一つで次に取る行動が決まるというだけ。ただリドムに切られるのであれば、彼女としては本望かもしれない。――「……はぁ、はぁ……っ。この……!」――
「馬鹿やろおおおおおおおお!!!!!」
リドムは突然、天に向かって怒号を飛ばした。リーシャの方を見ることはせず、ただ天を仰いで言葉を何かに向けて放っている。演技にしては大仰すぎだ。
「お前の声が! 聞こえなければ!!」
「パパ……?」
リドムはそのあと頭を強く殴り始めた。
妄想がリーシャとの未来を邪魔しているのだろう、それを打ち払うために、頭の中に響く声を消したかったのだ。
だが消えない。なぜなら元々存在しないもので、単なるリドムの妄想の産物に――「妄想じゃない!」――過ぎないからだ。薬物の使用者が自傷することと同じで、限界を向かえた人間の錯乱した行動だった。
「やめて! やめてパパ! 血がっ、お願い! だめ!」
リドムには常用している薬でもあって、それが切れた状態にでもなっているのだろうか、今の状況はかなり深刻だろう。
彼は今何も信じる事が出来ないのだ。全て自分の妄想せいで。やはり最初に妄想が始まった穴倉で頭を打ったせい時からどこかおかしくなってしまっているに違いない。
突然怒鳴り始めた上に自分を出血するほど殴り、地面に頭を打ち付けるなど、彼の行動は完全に狂っている。
「これが! これが聞こえなきゃ! こんな声があったら俺は何も!」
「俺は決められたシナリオの登場人物じゃない! ここにいるんだぞ!! 生きているんだ!!!」




