第六章 絆という力-7
「リーシャ!」
「ぱ、ぱっ」
駆け付けたリドムはいの一番にリーシャの名を呼んだ。まるでリーシャの恐怖心を知っていて、それを解きほぐすかのように。
「リドムさん。あなたは奴隷ではないのでしょう? どうしてです? どうして父上と同じように、奴隷を対等として扱うのです……?」
リドムはここへ来る間に様々な展開、対処を考えていた。ギリアムが抵抗して来たら倒すべきか、セリーヌはどうするのか。クロスの事も念頭に入れながら、妄想が溢れかえる頭でまとまらない考えを走らせていたのだ。
だがギリアムはリドムが考える以上に置かれた状況に戸惑い、狼狽えていた。
ギリアムはここにきて怖気づいている。貴族としてやるべきことをやろうという頭はあるが、部屋に押し入った時に励ましあっていた二人を見て身がすくんだ。
怯えるセリーヌを見て脳が凍り付いた。
涙を浮かべるリーシャを見て身を焼きたいと思った。
そこに考えたのはセリーヌと笑いおどける父の姿と、他の上流貴族に茶化される自分の姿だった。だから手に持った鞭を振るうより先に聞いてみようと思ったのだ、奴隷を対等に扱う心境を。
「……自分の自由のためだ」
「どういう意味ですか……?」
そこへ遅れてクロスが到着した。レーディン家の者はお互いを呼び合うと目を合わせている。クロスはまだ何も起きていない事に少し安堵している。
「ギリアム、もういいだろう。威厳など他の事でいくらでも示せる、お前は立派に成長している。騎士となって皆を守れば良いのだ。鞭打ちなどでは貴族の格は上がらぬぞ」
「父上……しかし、奴隷とはこう扱うものだと……っ」
「ギリアム君、声が聞こえているんだ、君だってこんな事したいと思っていない。そうなんだろう?」
リドムは妄想の声を頼りにそう言った。クロスがその言葉に少しだけ安堵している。
「そんなこと……昔から僕は疑問だった。父上は他の貴族と違う事をする。同じことをすれば父上の人柄ならきっと認められるのに、こうして没落したまま過ごしている。母の死に際に父上を頼むと言われました。それはきっと、父上に出来ない事を僕がしろという事なんだ……だから僕は……君たち、いやお前たちを、この鞭で打つ」
過呼吸でもしているかのようにギリアムは鞭をしならせながらリーシャとセリーヌに迫っている。
リーシャは動かなかった。打たれ慣れているからなのか身を差し出すようで自分の身を守るような行動をしない。むしろセリーヌを守ろうとしている節すら垣間見える。
セリーヌは怯えながらリーシャに縋りついている。初めての理不尽な恐怖を感じて。毎日のようにこれを味わっていた母に想い馳せることも出来ず、ただ恐怖に震えていた。
「ギリアム!」
「やらねば、やらねばならないのです。我々は人間なのですから……これが努め……」
だがギリアムの腕は震えていた。それに自分自身で気付いていて、目からは涙まであふれてきている。言葉とは裏腹に彼の心境はこの時点で鞭を振るう余地を無くしている。
ただ他の貴族がやっていることだから自分にもできる、すべきであるからと二人に近づいていく。
リドムもリーシャを守るために部屋に踏み込もうとしていたのだが、突然また心変わりを見せる。ギリアムを止めるために前進したクロスの腕を引き動きを止めたのだ。
まさかギリアムに鞭で二人を打たせるつもりなのか? クロスは様々な思考を巡らせた後、リドムの「大丈夫……」と不安そうに言った妄想に付き合って様子を見ることにした。
ゆっくりと近づいていくギリアム。怯えて顔を逸らすセリーヌ。リーシャは視界の中で顔を合わせたリドムの何かを信じようとするような強い表情の意味を考える。
自分を助けないわけじゃなくて、何かがあるのだと悟ったリーシャは静かに彼を信じることにした。
「はぁっ、はぁっ……何故だ……」
ギリアムは二人の前に立つと、腕を振り上げることもしないでそう言った。
それから呼吸を荒げてくると、手に持った鞭と怯える二人を見比べるようにして自身の涙を拭ってからこう続ける。
「何故です父上ッ……何故平然と、奴隷だからと鞭を打てる人間がいるのです……ッ! 僕には、僕には出来ないっ……二人は大事な人です! 僕はおかしいのですか?! 嫌だ……こんなの耐えられないっ……」
そう言って鞭を払い落とすように捨てたギリアムは頭を抱えて唸りをあげた。
クロスはそんなギリアムに駆け寄るとしっかり抱きよせ、何も言わずに背中をさするとギリアムはわんわんと泣き始める。
「ごめんよセリーヌっ、ごめんよっ。僕はなんてことを……僕はただ……、ごめんなさいリーシャさんっ……僕には何もわからなかったんですッ」
最初はもっと簡単だと思っていた。貴族なら誰でも出来ると頭では考えていたのだ。
だが大切な人の怯える表情と、自分がしようとしていることで何が壊れてしまうのかを考えた時、立っていられないほどの恐怖に襲われた。
自ら言った通り、誰かに理不尽な暴力を与える事の意味をわかっていなかったし、少し前まで奴隷だったリーシャだって誰かが大切に思う人になれるという事をギリアムは噛みしめていた。
だったらこれまで常識として習ってきた『奴隷』とはなんだったのか。ギリアムの中でなにかに亀裂が入った。それが良いことか悪いことかは、まだ誰にもわからない。
「坊ちゃま……坊ちゃま!」
セリーヌも泣きながらその輪に加わり、三人で家族という絆を確かめ合っている。その間にリドムはリーシャに近づき、そっと肩を抱いた。
「リーシャ」
大丈夫だったか、とは聞けずに声だけをかける。リーシャはほっとしたような瞳をリドムに向ける。リーシャは言葉無く、目の前の三人を不思議なものを見るように見つめている。まるで初めて花火を見た子供のようだ。
リーシャはあくまで「助けられた奴隷」である。人生を線に表した時、突然リドムによって奴隷という直線を捻じ曲げて別の道に引き入れられただけに過ぎない。だからその線はあくまで奴隷に繋がっている。
でも今目の前で見た光景はそういう事じゃなくて、セリーヌの場合は線が自然と人間の枠に入った感覚に見えた。人が人の優しさや愛によって認められた光景はリーシャをも包み込んでいる。
リドムはリーシャと共にその光景を見守り、それぞれ落ち着いたころに各々部屋に戻った。
リーシャとセリーヌは同じベッドで眠り、リドムは部屋の窓からちぎったような雨雲の中に月が浮かんでいるのを見上げてから、もう数日だけ様子を見ようと思いながらやがて眠りにつくのだった。




