第六章 絆という力-5
「なんと深い傷を……痛くはないのですか? セリーヌ、手当はしてあるのだろう?」
セリーヌは「あー、えっと……」と言葉に詰まった。これに気付かせたくなくてギリアムを拒もうとしていたのだ。どう対処するか困っている短い間にリーシャは心配させまいと健気に言った。
「普段は痛くはありませんから、大丈夫です」
「痛くないとはいえ……普段の服装の慎ましさから気付きませんでしたがリーシャさん、首元にまで傷が……一体何があったんです? どうしてそんな……過酷な旅をされてきたのですか?」
ギリアムは単に心配をしているだけであるが、横にいたセリーヌの心配は積もっていく。何かがぐらつくような感覚。心に冷や汗をかき始めている。
「これは……奴隷の頃につけられたんです。でも大丈夫ですから。パパが助けてくれたので……」
リーシャは誰にも分らないくらい微かな笑みを浮かべて言った。まだ癖もぬけていないリーシャだが、ここしばらくのリドムとの暮らしによって奴隷の時代は彼女にとって過去だと認識され始めていたからこその発言である。
が、場の空気―――ギリアムの発する雰囲気が凍り付いた。
「ど、奴隷? 奴隷"だった"? ……いや、それは」
「坊ちゃま」
セリーヌの強い口調での遮りは本来主君に向けられるべきものではないだろうが。だがその発言を止めることは出来なかった。当たり前の事、という認識のもとに。
「気持ちの悪い嘘です。リーシャさん。あなたには父君がいらっしゃる。奴隷はそもそも人間ではありませんから、父君はおりません。奴隷は人間とは違う生き物ですし、奴隷は一生奴隷だと聞きました」
からかわれた、程度に笑って返すギリアムに悪意は全くない。ただ「常識」の話をしただけ。そのとぼけた彼の前にいるセリーヌは沈痛な面持ちをギリアムに向けている。
リーシャも呆気にとられ、初めて善良で無知な人間による「小さな裏切り」を感じた。――「おい……」
「な、なんで二人とも……だって、リーシャさんとは一緒に食事をしたじゃないですか。奴隷とは一緒に食事をとれないのでしょう? だからその……あ……」
取り繕うように反証する中で初めてギリアムは思い至る。奴隷は人間の形をした泥人形なのではなくて、同じ人間のように見えるものなのかと。
知らないのだ、その存在を知識でしか。植え付けられた社会の常識でしか。
「じゃあ……それじゃあ……リーシャさんは奴隷……」
「坊ちゃま。リーシャさんはリーシャさんです」
「でもっ、奴隷だったんだろう? 貴族学校で奴隷は奴隷だって教えられたのだ! 人間とは違うって! 何もかもけがれていて人間の雑務を手伝わせる程度の役にしか立たないのだろう!? そんな……酷い。僕はリーシャさんが……奴隷だと始めから言ってくれていたら」
ギリアムは大きな裏切りを受けたような気持ちでそう言った。だが彼の傷ついた気持ちなんて、自分に亀裂が入っていくように感じるリーシャとは、絶対に比較できないだろう。
これ以上リーシャを傷つけたくなくて、セリーヌはギリアムの言葉を遮るように、庇う言葉をより大きな言葉で発する。
「坊ちゃま! わたしの母も奴隷だったんです!」
「なっ……」
セリーヌは吐き出すような言葉でギリアムの発言を覆う。この家ではクロスしか知らなかった話であり、ギリアムにとってセリーヌは単に姉のような世話係だった。
それが崩れ去るような感覚を味わうギリアム。セリーヌは矛を自分に向けさせたかったわけではない、これまでの自分との絆を思い返してほしかった。
単に奴隷と知った瞬間に終わるものではないだろうと。だがギリアムの混乱は収まらない。
「嘘だ……君は父上が知人から預かった子供だと……」
「奴隷の母が残した私を、閣下が拾ってくれただけです」
「そんな。じゃあうちには奴隷が二人も、自由に? ……信じられない! 父上に確かめねば」
思考の許容量を超えたのだろう。ギリアムは声を震わせ、混乱の中でもつれそうな足をなんとか動かして父クロスの書斎へ向かった。
その場に残されたセリーヌとリーシャは転落したような気持ちでいた。
特にリーシャはどうしたらいいのかわからない。やっと変わることを受け入れだした。
心の変化は笑顔を創り出したし、人を好きになる気持ちも覚えて、次に好きになるのはこの家の人たちなのだろうと心のどこかで考えていた矢先の出来事だったのだ。
そしてセリーヌも深く傷ついた。奴隷という概念は家族の絆すら無に帰すのかと。
「私……奴隷の、ままなんでしょうか……」
「そんなことない。そんなことないですよ。絶対にありませんから」
セリーヌがリーシャの頭を撫で、優しく抱き寄せる。セリーヌの表情は不安に満ちているのを、抱かれたリーシャは気付かなかった。――「なんで……なんで俺は聞こえてしまうんだ……」




