終わりに来るところから始まる
エピローグ(始まり)
世界はどこでもいい。何かに迷った男がいて、今日は酒浸りになりたいという気分で、ちょうどそれが叶う店があった。
「元気ないね」
たまたま立ち寄ったバーで綺麗な女性に突然話しかけられた男はちらりと横目にその人を確認すると、酒の入ったグラスを揺らしながらその言葉に答えた。
「ん?そうかな。別に普通だけど」
相手の名前も顔も何もかも知らない男だがごく自然に会話を始める。
「そうなの?楽しそうじゃないかなぁって」
女はどうしてそんな風に声をかけたのだろう。男がよっぽど疲れていたように見えたか。少なくても単純な男漁りのような理由で話しかける意図は無いようだ。
「楽しそうじゃない?こんなぴちっとスーツ着こんで一人で飲んでるやつが楽しそうなんて事あんまないだろうけどな」
男は皮肉っぽく笑って言うと女は「うーん」とどうにもならない政治問題を考えるかのような唸り声をあげて腕を組んで。
「楽しくなくてもいいの?」
そう言った。
「そりゃあ楽しいほうがいいけどさ。なんていうか……楽しい事って難しいだろ。金や時間を使える奴じゃないとそうそう楽しくいられんと思うけど」
男は他人の事を話すような言い方をするとグラスを傾け、氷をカランと鳴らした。
「そうかな?楽しい事っていくらでもあると思うよ。自分がやりたい事を自由にやってるときとか、すごく楽しいんじゃない?」
「やりたい事?それこそ難しいな。俺のは時間も金も要るし……」
グビ。グラスを口へ運ぶ男の言葉に、女は首を傾げながら聞く。
「時間とお金がないと出来ない事なの?」
「いや、やろうと思えば裸一貫でも出来るけど……」
「勇気がいる?」
「そうだな」
もう一度そのカクテルを口へ運ぶ男。解けてきた氷が酒に透明な膜のようなもやをかけている。女も同じように持ったワインを少し飲むと、微笑みかけるような優しい口調で言った。
「じゃあ出来るって事だ」
「まぁ」
カラカラン。グラスの傾きに氷が笑っている。
「やったら、楽しい?」
「多分、めちゃくちゃ楽しいんじゃないかな」
言葉の割りに男は楽しそうではない。
「やらない理由は?」
「……無い……くないな、怖いのかも」
女の言葉に返した言葉の根っこが「楽しいんじゃないか」と言った男を楽しそうに見せていなかったのだろう。
「なんで?」
そう訊いた女は少しいじわるをしている。その怖いという気持ちを知っていたからだ。自分もかつてそうだったし、その頃の事をはっきり覚えている。
「失敗したり、躓いたり、とにかく心配事が山盛りだし……今の生活からいろんなものが失われて、全てが大きく変わる……そういうのって怖いだろ」
グビグビとカクテルを呷る男。今度は氷が鳴らなかった。
「じゃあ、楽しそうって気持ちより心配の方が大きいの?」
「……不思議と、楽しそうって気持ちは負けてないんだよな」
女にはその男の様子が青い炎のように見えた事だろう。様子を見た女はクスクスと笑っている。
「ふふ、じゃあ決まってるんじゃない?人はいつか死ぬんだよ?やりたい事やらなきゃ」
「まだ死ぬ予定はないぞ」
「でもわかんないよ?死んだ後に悔やむかも」
微笑みながら悟ったような事を言う女に、男も調子を良くして茶化すように言い返した。
「何だ君、天使か悪魔さん?」
「私は鳥さんかな。パタパタ飛んできたの」
女はそう言うと、淑やかに喉をコクコクと鳴らしてワインを呑みこむ。
「遠くから来たのか?」
「うん、そうだよ。ずっとずっと遠くから。大事な人のためにね」
「へぇ……それ、いいな」
グラスを傾ける男。氷の声が彼の気持ちを代弁している。
「あなたにも自分のしたいこと、出来るよ。人は自由なんだから」
彼にはその意味がわかったのだろうか。
それから女は残ったワインを一気に流し込んだ。
「さて。私はそろそろ行こうかな。ばいばい、―――になれそうな人」
「ん」
女を見送った男は、カクテルの中の氷が踊るのを少し見守ると、どこか軽い気持ちで残った酒を飲みきって席を立つ。
男はかつて大きな失敗をしていた。自分の夢見たモノに素直に向かっていった結果、大切なものを失っていた。
だから自分は夢を見る自由など求めるべきではなく、静かに過ごすのが正解だと信じている。
でも