5 〜その指先さえ遠い僕らは〜
*その指先さえ遠い僕らは*
「あっ…アリアス様! ユーゼル様! お二人ともお戻り下さいましっ!」
いつもの「探検」に出ていた僕らは、目的地である奥の建物にたどり着く前にメアリーに捕まってしまった。
メアリーは僕らの世話係で、いつも僕らは探検を断念させられてしまうんだ。
「メアリー、どうしてあそこに近づいちゃいけないの?」
弟のユーゼルが言ったから、僕もここぞとばかりにメアリーに問いかけた。
「そうだよ、なんでメアリーは僕らをあそこから引き離すの? あそこにはパティにそっくりな女の子がいるって…父様もよくそこに行くんだってアンナが言ってたよ」
「まあ、アンナったら…この子たちに何てことを…」
メアリーは眉間に皺を寄せて唸った後、何事もなかったかのようなやんわりとした口調で僕らに語った。
「よーくお聞き下さいませね、アリアス様、ユーゼル様。あそこには誰も居ません。建物が老朽化して崩れたりすると危ないから、入ってはいけないんです。いいですか? 絶対に、絶対にあそこには行ってはなりませんよ?」
ユーゼルは素直に頷いていたけれど、僕は本心からは頷かなかった。
ただ笑顔で言葉を発した。
「なーんだ! それだけかー」
僕はユーゼルの手を引くと、自室に帰るふりをしてメアリーから一旦離れる。
そして途中の廊下から再び外へ…二人ぶんの体を隠せる茂みへと身を隠し、反対側の廊下から微かに聞こえるメアリーとアンナの声に耳を澄ました。
アンナは屋敷に新しく入ったメイドで、古参のメアリーはアンナの教育係も兼任していた。
そのメアリーがあの建物のことをアンナに何と説明するのか。
僕はそれに興味があった。
「──いいですかアンナ、口は慎むように。これは暗黙の了解です。あの建物には誰も居ない、居るのはご当主たるダレス様を堕落させるだけの下賤の子一人のみ。このウィゼリア家は由緒ある血筋です、いくら容姿が似ているからとて、あのような子にパトリシア様の代わりができるわけがありません」
「はい…」
「そもそも、パトリシア様のご逝去を…現実に目を背けて夢を追うダレス様もダレス様ですわ。早く目を覚まして頂かなければ、ウィゼリアはどんどん綻んでしまいます。…あの子さえ消えてしまえば良いのですよ」
「は…い…」
「──口が過ぎましたね。さ、あなたは持ち場に戻りなさい」
*
踵を返す二人が去るのを待ってから、僕らはゆっくりと茂みから這い出て、部屋に戻った。
「──アリアス兄さん、メアリー、なんだかすごく怖かった」
「大丈夫…大丈夫さユーゼル。僕がついてる。それにメアリーは僕らにああいう風に凄んだりしない」
「なんで?」
「それは…。いいや、今はよそうな。ユーゼル…お前もそのうち気付くことだから」
──弟は、ユーゼルは七歳半になる。
まだ屋敷の中のいろんなことを知らない…知らなくていい歳だ。
僕はユーゼルより二歳半上、ちょうど十になったばかり。
ユーゼルと歳はたいして差がないけれど、長男なこともあってか、幼い頃から家長としての云々を教えられてきた。
必然的に、屋敷内にも聡くなってくる。
天真爛漫を演じて無害を装うのは簡単だ。
僕は毎日やんちゃを装いながら、いびつな邸内を眺めていた。
妹の…パティの密葬の後で何かが歪み始めたのも感じ取っていた。
「兄さん、あのお話は本当なのかな…?」
不安げに訊ねるユーゼルの頭を撫でて、僕は囁くように言った。
「おそらく。…ユーゼル、お前は確かめたいか?」
「──うん」
ぎゅっと握られた両手は、ユーゼルの決意を語っているようだった。
「僕、パティに似てるって子に会いたい。それで、本当にその子が父様にわるいことしてるのか確かめたい」
「そう、か。…僕は、たぶんその子のせいではない、と思う。…父様はパティを失ったことが悲しくて悲しくて仕方なくて、だからパティに似た子に執心を──でも、そうだな、確かめなきゃ判らない」
次の新月の夜、抜け出してみよう。
僕らは頷き合って、奥の建物に向かう段取りを決めていった。
*
──そして、当日。
真っ暗闇の中では、影もできない。
僕らは手を繋いで、微かに光の漏れる奥の建物を目指した。
幾つかの茂みを越えて、わざと通り道を通らないように…
足音を立てずに、ゆっくりと建物に近づいた。
建物の正面の扉も、頼みの綱だった裏手の扉も閉ざされていたが、何か手段はないかと探している時、遥か上方から小さな声が聞こえた。
見上げると、手にランプを持った…パティに似た子と目が合って。
「──あなたと、あなたが、お兄様…?」
透明な声に、僕らは頷いた。
「僕はアリアス」
「僕はユーゼル」
自然と声を重ねてしまうと、パティに似た子は少しだけ微笑んだ。
その微笑みは優しくてすぐ零れてしまいそうで、僕は焦って問いかける。
「君は? 君はパトリシアというのでしょう?」
「はい、アリアス様。いただいた名前はパトリシアで…ここに来る前の名前はマリアです」
マリアと名乗ったその子はどこか悲しそうに眼を伏せて、窓の外へ掲げていたランプを室内に戻した。
「──アリアス様、ユーゼル様、お会いできて嬉しかったです。でも…わたしに近づいたら、みんな咎められてしまいます。だから今すぐ、お戻り下さい」
*
──新月のあの日から、もう半年が経っていた。
あれから僕らはマリアには一度も会えなかった。
マリアは僕らを見かけると、窓を閉ざしてしまったから…
一日、二日、一週間。
会いに行って、会えなくて、僕らは次第にマリアから遠ざかっていったんだ。
「兄さん!」
ふと、少し先の廊下を歩いていたユーゼルが僕を振り返った。
「あの子がいる…!」
ユーゼルは小声で囁き、僕に視界を譲る。
この廊下の先は、ひとつの廊下を隔てて父様の部屋へと繋がっていた。
「──!」
その廊下には、感情の欠片も見えない顔でただ微笑むマリアの姿があって。
マリアは一人で、廊下を歩くメイドたちはマリアを冷ややかな眼で眺めたり、何か囁き合ったりしていた。
「マリア…っ!!」
僕は思わず声に出して廊下の先へ手を伸ばし──
けれど、マリアはこちらを振り返ることなく、やがて父様の部屋へ消えて行った。
*
──それから、僕らはマリア見かけても何故だか声を発することができなくなって、もう八年も経ってしまった。
マリアの容態が芳しくないことは僕らの耳にも伝わって来たけれど、僕らはマリアに会いには行かなかった。
…僕らがマリアに会いに行ってしまえば、マリアの立場がより悪くなることを知っていたから…
──いや、違う。
僕らは本当は、マリアに拒絶されるのが怖かったんだ。
マリアの、何も見えていないような虚ろな表情が、ただ怖かったんだ。
*
「マリア…マリア、ごめん…! 僕らが…僕が、君に手を伸ばせばよかったのに…僕は君を一人にすることしか、できなかった…!」
時は流れ…
ウィゼリア家の正式な養子としてこの屋敷に帰って来てくれたマリアに、僕らは駆け寄った。
そして、十一年かけてようやっと、マリアの手に触れた。
その手はじんわりとあたたかく、人間を感じさせるものだった。
「…アリアス様…わたくしは今幸せですわ。こうして手を握ってくださるお兄様が居る…それだけで十分です」
「マリア…」
「ユーゼル様もですわ、お二人とも、わたくしの大切なお兄様です」
「…っ」
──僕らは、口を揃えて小さく叫んでいた。
「…今度は、僕らが…君を、守るから…っ」
マリアはふわりと微笑むと、穏やかで優しい、歌うような声音で返礼した。
──もう、そこに溝はなく…
僕らは、手を伸ばせばマリアに届く…。
指先さえ遠い日々は雪融けを迎え、待ちわびた春が──
*その指先さえ遠い僕らは・FIN*
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