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…こういうのが、反射というのよね。
わたしは…何故かしら。
とっさに彼女の手を取っていたわ。
「──マリア」
何も思考せぬまま口に出した響きに、彼女はそっと頷いて。
『ありがとう、お姉ちゃん。わたしの名前を呼んでくれて…手を握ってくれて、ありがとう』
満面の笑みをわたしに向けたマリアは、こう言葉を続けたの。
『──ありがとう、マリアお姉ちゃん』
わたしは瞳を見開いてしまったわ。
「…あ…、そう、ね…。わたしは、わたしの名前は、マリア…だったの…よね?」
確かめるように呟いたら、目の前の小さなマリアは優しく微笑んだの。
『そうよ。マリアお姉ちゃんは、マリアお姉ちゃんの名前がマリアだっていうこと、忘れていたのね…?』
「ええ、もう、長いこと忘れていたわ。わたしのことを名前で呼ぶ人もいなかったし…ね…」
伏し目がちにぽつりぽつりと声を発すると、いつの間にかわたしは手をきゅっと握り返されていた。
小さなマリアは、小さな両手でわたしの手をずっと握っていてくれて…
『わたしが名前を呼ぶわ。誰もマリアお姉ちゃんの名前を呼ばないなら、わたしが呼び続ける。だから、マリアお姉ちゃん? どうか、もう忘れないで、ね?』
わたしにかがむように囁いた小さなマリアは、言われるままにすっと膝立ちになったわたしの頭をそっと撫でたの。
わたしは、胸の辺りにあたたかな水が滲むような、不思議な感じを覚えていたわ。
──わたしはマリア…
マリア…
マリア──
反芻していると、様々なことが自然と思い出せた。
わたしの本名は、マリア。
そしてここは、ウィゼリア家。
ウィゼリア家は確か名門貴族で、わたしの生まれた家ではなくて…
でも、わたしはここで生まれたことになっている。
ここでのわたしの名前は、パトリシア・ウィゼリア。
そしてパトリシアには、二人の兄様がいるのだわ。
──わたしと彼らには、血の繋がりはもちろんなくて…
幼い頃、ゆくゆくの政略結婚の「道具」として、秘密裏にウィゼリアに引き取られた養子で公には「実子」。
ウィゼリアの血統に似た容姿をしていたからと、ここに連れて来られたのだわ。
お城のようなこの広い屋敷には、数え切れないくらいの人が仕えていたけれど…
わたしの部屋は屋敷に幾つかある別棟の中でもいちばん奥まったところにあてがわれていて、「父様」と二、三人の世話役さん以外は誰も近寄らなかった。
わたしは屋敷内を自由に歩くことを許されていたけれど、それをしたなら凍てつく空気が待っていたわ。
分相応に屋敷の奥でひそやかに、ただ微笑んでいればよかったの。
たまに父様に呼ばれた時に広い廊下を通ると、背中からいろんな噂話が聞こえてきたけれど──
わたしは、笑っていたわ。
「──パトリシア、パトリシア…入るよ、構わないね?」
ドアからコツンコツンと軽く響いたノックにはっと我に返り、わたしは返答する。
もう視界は明るく拓けていて、そこに小さなマリアはいなかったわ。
「ええ、お父様。どうぞ入っていらして。横になったままの無礼をお許し下さい」
掠れた声で言葉を紡ぐと、柔らかな物腰の男性がそっと踏み入ってくる。
…いつもそう、お父様は遠慮がちにわたしに接するの。
「…パトリシア、君の容態はあまり芳しくない。どうかね、レーヌの別邸に移ってあそこの湖でも眺めながら静養しては。…ここよりは居心地がいいだろう。あそこは静かだ。誰も君を責めはしない」
「──体のいい、厄介払いといったところでしょうか? わたくしはもう使い物にはならないでしょうから…新しい誰かをお迎えになるのかしら?」
口をついて出た言葉は、これまで発してこなかった冷たいもので…
お父様は額を押さえて、ため息を吐くように仰ったわ。
「パトリシア…いや、マリア。君は私の大切な娘、かけがえのない存在なんだ。確かに名目上は政略結婚のために君を養子にした。だがね、本当は…君が亡き娘のパトリシアに瓜二つだったからなんだ。…パトリシアは、君を養子にする数ヶ月ほど前に胸の病で息を引き取っていたんだ。愛娘を喪った悲しみに暮れた私は少しばかり領地を放蕩し、ある街の外れの家で君を見つけた…」
「お父様…?」
「マリア、君はご両親のことを覚えているかい?」
「──ええ、と…わたくしは、マティルダの街の一軒家で育ちました。わたくしの父は時計職人で…工房で様々な時計を手掛けていましたわ。母は穏やかな人で…そう、父の工房にもよく差し入れをして…二人で楽しそうに笑って…」
「君は?」
「わたくしは…」
不意にまた、ずきりと頭が痛んで、わたしは呻いてしまったの。
お父様は、そんなわたしに向かって、すまないと謝ったわ。
「──マリア…マリア、すまない、私のせいなんだ。君のためと思って…君の記憶が曖昧なことを幸いとして、私は君に偽りの思い出を植え付けた」
「い…つわ…り…?」
「ああ。…いいかい、深呼吸をして、よく聞いてくれ。…君は確かにマティルダの街に居た。だが、君が居たのは街の外れの…朽ちかけた石壁に蔦が絡んだ、街の者は近付かないらしかった一軒家でね。…君のお父さんはお酒を呑んで毎日荒れていたのだろう、家中にワインの瓶の破片や割れた皿、破れた紙くずが散らばっていたよ。私は辺りに響いた怒号を聞きつけて家に入っていった…。そして、そこで既に息のないお母さんにすがり付いたままうずくまっている君を見つけたんだ。…お母さんは頭から血を流していた、お父さんの持った酒瓶には、赤いものがついていたよ。お父さんはうずくまった君にゆらゆらと近づいていた。私は──君を抱えて逃げた」
──ずき、ずきり。
鋭い痛みが走って、わたしは呻きを強めてしまったの。
「思い、出せないわ…」
苦しく吐き出したわたしに、お父様は優しく語ったわ。
「…そうだね、君を抱えて逃げた時も、君の瞳は何も映していなかった…。虚ろな眼をしていた君を…愛娘に似た君を、私はただ、助けたかった。これは、私のエゴだ」
「お父様…わたくしは──」
「邪魔をしたね、別邸の件はゆっくり考えてみてくれ。ゆっくりお休み、マリア」
──静かに閉められた扉…
その優しい音は、今聞いた父様の話に出てきた怒号などとは全く結びつかなくて。
そもそも父様が、そんな中からわたしを連れてきてくれたなんて…
「不似合いだわ」
わたしは眉根を寄せた。
「父様」は、ただ体裁だけを気にしてお綺麗なまま振る舞い続けて、「わたしを利用する人」であってくれたら…
それだけよ。
それだけでよかったのに──
…ねえ、どうして今さらそんなことを話すの?
馬鹿じゃないの?
わたしを懐柔すればまたわたしが政略の道具になるとでも?
──いいえ。
ちがう…ちがうわ、マリア。
あの人の眼は澄んでいた…
どうして信じないの?
──っ、ちがうわ、ちがう、ちがうっ!!
わたしは…
わたしは──!
『マリアお姉ちゃん』
ビキッと引き裂かれるように激痛が走った頭を両手で押さえつけていると、ふわり、一声で痛みが和らぐ。
『大丈夫よ、マリアお姉ちゃん…』
柔らかなその声は、全てを包む慈愛の女神様のようだったわ。
「マリ…ア?」
『うん、お姉ちゃん、顔を上げて? ね、わたしをよーく見て? 何が見える?』
相変わらずのぼろぼろの衣服。
澄んだ瞳と、笑顔。
わたしは小さなマリアの青い瞳を、真っ直ぐ見据えてみたの。
──そこに、見えたのは。
『ああ、マリア、マリア…すまない、俺はまたお前をこんな…』
空いた酒瓶と荒れた部屋と…机に両肘をついて頭を抱えて呻いているのは「お父さん」。
──お酒が抜けた後、お父さんはいつも八つ当たりして悪かったと謝って…
『マリア、ごめんよ。あたしは駄目な母親ね…。あんたを守ってやれたらいいのに、どうしようもなく気掛かりなんだ…この人を放っておけないんだよ…ごめんよマリア』
頭を抱えて呻いているお父さんの背中をさすりながら「マリア」を振り返って唇を噛みしめているのは、「お母さん」。
──お父さんは本当は優しい人なんだよ、と俯いて微笑んで、お母さんはいつもそうっと部屋を片付けていた。
うんと小さな頃、優しく抱き上げてくれたお母さんの姿も。
うんと小さな頃、困り顔をしながら泣いた「マリア」を…わたしを、あやしてくれたお父さんの姿も。
たくさんの柔らかな瞬間が、映像となってわたしを包んだの。
──最後に「見た」日、酒瓶を振り上げたお父さんが泣いていたことも。
お母さんが、身を挺してわたしを庇って倒れたことも。
飛散し沈みゆく赤い色…
怒号も涙も、「逃げなさい」という、耳に残り余韻となった声も…
息苦しい映像も、「わたし」が本当に通った道だと、何故だか理解することができたわ。
「──わたしは、マリア・ジルベルト。そうよね、六歳のマリア・ジルベルト…、わたしが置いてきぼりにした六年を、あなたはずっと抱えていてくれた…の?」
『…マリアお姉ちゃん…、ううん、マリア。わたしはずっと、あなたに会いたかった…!』
真剣な眼差しで小さな「わたし」を見据えたら、「わたし」はわたしに向かって両手を広げて──
「わ…」
思い切り、抱きしめられた。
『マリア、思い出してくれてありがとう! わたしはずっとこの日を待っていたわ。わたしは、マリア、あなたを助けたかった…。あなたは独り、病んでいったから…』
満面の笑み。
眼の前の「わたし」に、怒りや憎しみは見受けられなかった。
どうしてあなたはそんなに優しく在れるの──?
訊きたくても訊けなくて、その代わりにわたしは小さな「わたし」を恐る恐る抱きしめ返したの。
そうしたら…
「あ…」
小さな「わたし」の裂かれてぼろぼろだった服は、綺麗な白のヴェールと純白のほつれ一つないドレスに変わっていって──
『ふふ、もう大丈夫よ、マリア』
小さな「わたし」は、両手で裾をつまんでふわりと一回転した。
その姿は花から花へ舞う蝶のよう──とても、綺麗だったわ。
『ありがとう…マリア、わたしはいつもあなたと共に』
柔らかな言葉を残して、小さな「わたし」はどこかへ消えてしまって…。
だけど胸に手を当ててみたら、今まで感じたことのないようなじんわりとした何かあたたかいものが感じられたの──。