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ドクターギネスの兎の研究  作者: 川嶋ケイ
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太陽が昇っている間の出来事5(アメフラシの海岸線)

僕はセキトリをしていた。力士を指した言葉ではないが、

同様に塩を撒くことから付いた通称だ。実際は湾岸のブルーワーカーである。

晴れない海がある。それを知って、僕はここを出た。


『アメフラシの海岸線』


地方新聞の全国欄の片隅に、その見出しを僕は見つけた。

皇琲亭でマスターの与太話に相槌だけ打ちながら、

珈琲をすすりつつその記事を読んだ。

アメフラシが大量発生して、なにか海産物の水揚げにでも被害が出ているのだろうという安直な予想は外れていて、○△地方のZ湾の周辺海域で、半年以上も雨が続いているというものだった。


一級河川を三本抱える水はけのよい地帯であるため、また瞬間降水量が跳ね上がることもないため洪水にこそならないが、予測される年間降水量はこの国の平均の三倍以上になる。

するとなにが起こるか?


三つの川は延々とおびただしい水量で流れ込み、

湾内に満ちている海水を沖合にまで押し戻す。

汽水化を越えた淡水化がはじまる。

一般の河口付近では汽水と呼ばれる淡水と海水の混じった塩分濃度の低い水が流れていて、

其処で暮らせるよう自身を適応させた魚は汽水魚と呼ばれる。

内湾は汽水魚と海水魚が混在していて、もちろん淡水魚はいない。

つまり、その海から現在棲息している魚のほとんどが消えることが予想される。

淡水魚は下ってくると思われるが、その状態は海と呼べるのだろうか。

と、概要はそんなところだった。

近年各地で起こり始めた異常気象について警鐘を鳴らすような一文で、たしか締めくくられていた。


自分がそのとき何を感じていたのかは忘れてしまったのだが、

あまりなにも考えずにそこに行くことにしたのだ。

ドクターに対する不満は縦に並べれば火星に届いたが、仕事自体にはとくに不満はなかった。

まあ少々飽きてはいたけれども。

だから絶対に行くと決めたわけではなく、なんとなく行くことにした。

そういう感じだった。


それから今日までなにがあったのか、戻ってきたいまとなっては、

本当のことはよくわかっていない気がした。

僕は小西康浩として働いていた。

毎朝船に乗って雨の海へ出た。

調査と称して漁をし、昼は灯台に戻り獲れたての魚介を捌いた。

魚の生態よりも調理法について詳しくなった。

水温や成分濃度などをさまざまな場所と水深で測り、

必要ならば塩化ナトリウムや塩化マグネシウム、その他のミネラル分を海に供給していた。

鉱物は月はじめに二トントラックで運ばれてきた。

ドライバーは白石さんという初老の男だった。

毎月末締めで、次の月の十日に給料が入った。

ふた月に一日くらいは快晴の日があった。同僚達が好きだった。

後輩の玉岡とはたまに近くの街まで出て酒を飲んだり、

博打を打ったりした。自分を偽っている意識はなかった。

僕は最初からこういう人間だと思ったりもした。

一度も帰りたいとは思わなかったと言ったら嘘になる。一度くらいは思った。


そんなことを、僕は珈琲を淹れながらかいつまんで適当に、

ほんとうにてきとーに話した。


「玉岡くんにちゃんとお別れはできたのかい?」


ドクターはカップの持ち手ではなく、縁を長い指で囲むようにして持った。

「まあ、一応」

「それはよかった」


珈琲をすすり、パウンドケーキを小さなフォークで切り取り口に運ぶ。

「ショックだったなあ、君がここを出ていくと行ったときは。

あの日は絡授の構造解析をしていたんだがそれもうまふいくぁなくてねえ」


彼はスポンジを飲み込みながら言った。

ショックだったならもっと神妙な面持ちで言って欲しいものである。


「もう戻ってきてくれないんじゃないかと思っていたよ」

嘘つけ。

「そんなに不義理なことができれば、苦労はしません」

「本職のほうはどうしていた?」

「緑と、青がいつか届いていましたが、中を見ずに捨てました」

「そうかそうか、あいつらの頼みなど聞くことはない」

「黒だけで充分です」

「珍しくしおらしいじゃないか?君本物か?」

「諦めてるんですよ。あなたに対しては」


大恩があり、逃げられないこともわかっている。

内側からも外側からも施錠をされて、外す術などない。


「私は君を縛り付けるつもりはないのだが」

「ええ、ですから、ドクターの人徳かと思います」

「君、やはり偽物だろう」


嬉しそうにカップを揺らし、また一口すする。

僕もすすった。久々に自分で淹れたものを飲んだが、悪くない。

食道を熱が下る感覚が心地いい。


「その新聞というのはこれのことだね」


と彼はさっきまで読んでいた紙束をこちらに投げた。

先ほどまでは今日の新聞だったと思ったが、日付を見ると確かに三年前の三月のものだ。


「どうして?」

僕は捲って例のページを開いた。

「部屋に置いてあったよ。始まりは妙なところで繫がっているものだ。

君が忘れていったものが引き金になっている。そのページをさらに開いて地方版を見てくれ。

小さく、うさぎに関する文章が左下あたりに載っている。朗読してくれないか」

「嫌です」

「では黙読してくれないか」


僕は言われたとおりにしてその記事の見出しを発見した。

毎日、動物についてのエピソードを掲載している小さなコーナーらしい。


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