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ドクターギネスの兎の研究  作者: 川嶋ケイ
6/7

太陽が昇っている間の出来事4(天才はずっとニヤついている)

エレベーターを出ると黒いガラスで濾された暗光がフロア上方に染み込んでいた。

目が慣れるまでの数十秒は、天にドーム状に張られた黒ガラス以外は捉えられない。


「ドクター、ミヤタ様をお連れしました」

「ありがとうコンノ。君は戻っていいよ」

「アイアイ、ドクター」


闇のなか二人の声がこだまする。

残像のように影の中の影がゆらめき、背後でエレベーターが閉じる音がした。

このフロアには、いま僕と彼だけ・・ではない。

この息遣いは、なんだ?


「おかえり、ミヤタ」

皮肉をたっぷり入れた語感が、太く響いた。

「ただいま、ドクター」

同じニュアンスを込めてそう返した。


「遅かったじゃないか。」

「これでも飛ばしてきたんですよ」

「そうじゃない。三年と八日。遅かったよ」

「呼ばないからでしょう。帰るに帰れない」


すん、と彼が鼻を鳴らす空気音がした。

「こっちに来なよ。ソファの位置は変わっていない」

「いえ、まだ目が慣れていませんので」

「視覚に頼っていては見えないものがあるだろう。

食物は闇の中でこそ誤解なく味わえる。そうフーコーさんも言っている」

「そんなことフーコーは言ってません。自分は真人間なので食事は明るい清潔なテーブルで摂りたいのです。

こんな小動物が無数に居る場所ではごめんですね」

「その小動物はなにかな?」

「そうですね・・・」


モルモットではない、もう少し大きい・・猫?にしては静かすぎるか・・・


「うさぎ」

「ご名答」


彼が指を強く弾く音がした。

パァン!という破裂音にガラスが呼応し、一瞬で無色透明のものに切り替わる。

刹那のホワイトアウトが明け、僕は

「うお」

と漏らしてしまう。


半径二十メートルほどの円形のフロア一面にうさぎ、うさぎ、うさぎ、数百羽のうさぎ。

べっとりと黒いはずの床が、白と茶のまだらの絨毯になっていた。

そして円心に据えられた壇上のテーブルの奥には、白衣の大男が一人。

ソファの肘掛に右腕を乗せて頬杖を付き、色眼鏡を不敵に光らせる。

湾曲したガラスの落とす太陽のプリズムを従えて、天才は笑った。


「くはっ、あっはっはっはっは、驚いた?」

「ええ、まあ・・」

「元気そうだな」

「眼鏡合ってないんじゃありませんか。今朝はほとんど寝てないし、

胃はからっぽなのに空腹は感じないし、」

「寝てないし腹が空いている。しかし動けている。それを元気と言わずしてなんというんだ?」

「元気じゃないと僕はいいます」

「よしよし、元気そうだ」

「やめてくださいよ。踏み殺していたかもしれない」


二匹ほどひくひくと鼻を動かして、僕のブーツの先を嗅いでいる。


「君が暗闇で体重を乗せるわけがないだろう。ぐにゃりとした感触を楽しんで欲しかったんだ」

趣味が悪い・・

「なんで臭わないんですか?こいつら」

「ん、飯食う時に獣臭いのやだろ」

「そういうことではなくて、この

「脂肪酸の鎖を外してある。ファブリーズと同じだよ」


この数を?ここまで完全に?糞尿の臭いは?

そういうことを聞いていくと、小難しい単語で長々と説明されるので、


「ああ、そうですか」やめた。

「まあ、座れよ」

「落とし穴とか無いでしょうね?」

「馬鹿にしてるのか?そんな古典的なことしないよ」


その古典的なことを彼にいくつも仕掛けられた過去がある。最初の一度だけ落ちた。

何メートルもの深さの水あめの中で、さすがに死ぬかと思ったが、

底まで落ちきると粘体を抜け空洞に出る造りになっていて助かった。


うさぎたちを踏まないように、そして重心をかけないように摺り足で僕は中央まで進んだ。

壇に上り彼と向かい合わせのソファに腰をかけると、自然とため息が出た。


「どうした?顔色悪いぞ」

「言ったじゃないですか、体調はよくありませんよ」

「ああ、違った。これレンズの色だ」


大木凡人のようなフレームを上げてにやつく顔は相変わらずの年齢不詳だ。

数年前と寸分たがわぬくだらない空気感を出す男に、僕は懐かしさと憔悴感を覚える。


「買って来たんですが」

僕はテーブルの上に皇琲亭の紙袋を置いた。

「そうだったな。ありがとう。じゃあもう帰っていいよ」


憔悴感だけが残る。


「では帰ります」

僕は全力で立ちあがった。


「待て待て待て、悪かったよ。世間話の一つもしようじゃないか」

そう言われ、脱力して再びソファに沈み込む。

「めんどくさいんですよもう。そういうお約束に乗ること自体が」

「あれ?もしかして体調悪いの?」

そう言ってるだろと、言う気も起きない。

「ええ、かなり。世間話はいいんで、本題に入ってもらえますか?」

「まあそんなに急くなよ。私に珈琲を淹れるまでが、君のおつかいだろ」


もう一度ため息を吐き、僕は壇上の一画に据えられた小さなバースペースに立った。

黄金の鐘を模したエレクトラのエスプレッソマシーンは、春の陽のせいか記憶よりも美しい。

空を見上げると太陽はいくつかの光源に分かれていた。

巨大な瓶の内部のようなこの広間は、乱屈折を繰り返し快適な光量を保つよう設計がなされている。


「エスプレッソじゃなくていいんですよね」

「うん、エスプレッソは私も上手に抽出できるようになった。

しかしなぜか珈琲は君が淹れたほうが美味い」

「光栄です」

と一応返す。


ドリップ用のポットに水を張り、火に掛ける。

「なんの仕事をしていたんだっけ?」

彼は新聞をかさかさと捲りながら、声だけこちらに放った。

「知ってるでしょう」

と僕も作業をしながら返す。

「ああ、なんとなくは知ってるが、どうだったのかなと思ってね」

「これ、ちゃんとグラインダー手入れしてますか?」

「ん、あまり」

「コンノさんも居るんだからしてもらえばいいじゃないですか」

「んん、私は自分のことくらいは自分でできるよ」

「子供みたいなこと言わないでください」

「彼女は家政婦じゃないんだ」

「だけど助手でもないでしょう」

「ああ、患者みたいなものだよ」

「患者?」


意外だ。ブラシで豆カスを払いながら僕は彼の後頭部に問いかける。

もう五十近いと思うが、白髪もなく密度の濃い短髪だ。


「医者でもないのに?」

「んー、免許なら二時間後に取れる。それにコンノではない。アクセントはコンノだ」

「コンノ?」

「名字の今野ではない。聞いていないか?」

「ええ、」

「ネイビーの紺に乃木坂の乃、」

同じ姿勢のまま、右手を軽く上げて乃と空中に指で描く。


「彼女の名前だ。上はハセクラ、長谷倉紺乃。」


なるほど。

「紺乃さんはなんの病気なんですか?」

「美しすぎる」

「ああ、確かに。あれは美の病気ですね。美病だ」

「だろ、ビビョーだろ」

「で、なんでビビョーの紺乃さんが胸出して外出てたんですか?」

「君を迎えさせたのは、なにかさせたかったからだ。ほら、私は私についてはなにもさせたくないから」


じゃあいまのこの状況はなんだよ。

なんでこんなに固まってんだここ?ほんとはエスプレッソなんて淹れてねえなこの人。


「裸だったのは、正しいことだからだ。自身が持っているもので優れているものを、

服や羞恥心で隠すことは私の庭では在るべきではない」

「僕、隠されましたけど。」

「それは君がエロい目で見たからだろう」

「そうでもないはずですが、」たぶん。

ふう、ようやく取れた。

「ドクター、マンデリンでいいですか?」

「ほかにあるのか?」

「ブレンドと、モカがあります」

「マンデリン」

「取ってください」

「命令しているのか?」

「いいえ、祈ってるんですよ、ギネスピーターパン」

「よろしい」

神気取りはテーブル上の袋を探り、小分けにされた袋を一つ、振り向かず腕だけで僕に渡した。


「そういえば、なんでここにうさぎ詰め込んだんですか?」

「ん、今回の主役は彼らだからさ」

「はあ、」また意味深な言い方を。

「うさぎの研究からはじまった」

うさぎの研究?うさぎ・・

「ちょっと前に、どこかでそういう話ありましたよね?光るうさぎを造ったとかいう、」

「ああ、あれだろ、クラゲの遺伝子で発光する、」

「それです」

「あれはべつにうさぎの研究じゃない。マウスでも豚でもなんでもいい。

まあ、光るバニーはうちにもいるがね」

「いるんですか?」

「さっき見ただろ?」

「・・なるほど」


中細に設定し、焙煎されたばかりの豆を挽く。

音の反響は思ったより小さい。彼らの体毛のおかげだろう。

豆を炒る際に発される大気に溜まる濃厚さとはまた違う、飛べそうな粒子の匂いが溢れ出す。


「ウサギザンを知っているか?」

「え、なんです?ウサギサン?」

豆を砕く音で聞き取り辛い。

「うさぎ算。算数の算だ」

「うさぎ算・・・」

僕は彼らを眺めながら巡らせる。

十数秒で機器は止まり、豆は砂になって再び紙袋に収まった。

「つるかめ算やねずみ算のようなものでしょうか?あれ、カップどこですか?」

「ちがうな。響きは少々似ているが、それらとは根本から別物だ。

コーヒーカップとコーナーキックくらい違うな。そしてカップは今シンク下の棚にある。」

はいはい、マンデリンとマンダリンくらい違うと。あ、あった。

「聞いたことありませんね。そしてカップはありました」

「聞いたことなくて当然だよ。私の造語だからね」

「ドクター、そのもったいぶった会話方式やめてくれません?」

「なぜだ?」

「イラつくからです」

「きみのことが好きなんじゃないか。できるだけ長く会話を楽しみたい。師匠の愛がわからないのか?」

「不出来な弟子で申し訳ありませんね」

「不出来なほどかわいいのもまた事実だ」

「以前より気持ち悪さが増しています」

「嬉しいのさ。君にまた会える口実があり、実際こうして会えたことがね」

「僕は自分でも驚嘆するほどに嬉しくありませんが」


ペーパーフィルターを開き形を整えながら、僕は会いたい人を思い出した。

「米原さん、辞めたんですか?」

「いや、いるよ。いま夜番だな」

「ならよかった」

いつものように門の事務室で黒飴か栗飴を舐めながら、

AMラジオを聞いている、彼独特のふるりとした身体の揺れが浮かんだ。


「六時ごろには来るだろう。電話したらいい」

「ええ。いまあそこは常時一人で?」

「人がいないんだ。別にいいんだけどね。

どうせ紺乃に頼まれてお使いに行くくらいしか仕事ないし。

なくなったらなったで買い物が不便だから、残してるだけだ」

「でもヒダカさん、なかなかいいですね」

「ああ、そうだろ。所帯持ってなければな、さらにいいんだよな」

「それはしょうがないですよ」


火を止めて、ポットをコンロから降ろし濡れたラグの上に数瞬置く。

底がシュッと音を立てる。

「君の三年間についての返答がまだだよ」

「うーん、話すことは、とくに、ないんですけどね」


透明な壁の奥にパノラマで広がる田園や山林、その緑に包まれた中心街、

生活を支える鉄橋、この塔を囲う堀から繋がる河、市で一番高いビルディング。

それらが一つ残らず撥ねる光を視野に入れて、同時に今朝の光景の断片を脳内で錯綜させる。

最後にあの場所で見た空が晴れ渡っていたことについて、らしくない感傷を抱く。


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