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ドクターギネスの兎の研究  作者: 川嶋ケイ
3/7

太陽が昇っている間の出来事1(文明の臨界点を守ってくれ)


巣に戻ってパーカーからシャツとジャケットに着替え、

ベルトを外してサスペンダーに替える。

携帯電話は今日まで使っていたものを便器に落とし、タンスの奥から昔使っていた二台を出した。

向かう車中で充電すればいいだろう。

少し迷ったが、車の荷台に入るだけ家財道具をぶち込んだ。

ポストを覗くとそこにも黒紙があり十万円が入っていたので、

その金はそのまま大家さんのポストに入れた。封筒はまた儀式のように無数の紙片に変えた。



高速道に乗るころにはすっかり日は上っていた。

日の長さで春を感じるのは切なくも思う。

癖が抜けていないのだろうか。それともこれは当然のことか。

幹線道路は美しい山々を貫いて、職場を出て四時間後には僕をX県まで運んでくれた。

国道千八十二号線に乗りかえ、一路、Y市街を目指す。



街が発達し、高いビルが臨めるようになると、

看板やのぼりにギネス・ピーターパンの名前がしばしば目についてきた。

そうか、Y市名物か。

『焼きたて!ギネスピーターパン』と書かれてある木造の店では、

当然彼に無理矢理ちなんだパンが売られているのだろう。

ああ、食欲が失せる。そういえば今日はまだ野菜ジュースしか飲んでいないが、

腹は減らない。減る気力もない。そんな感じだ。


桜並木に囲まれた、青緑の水路沿いの道に出るとようやく見えた。

漆黒の塔、ギネスの瓶が嫌でも視界に食い込む存在感で立ちあがっている。

木々の緑から突き出た、青空に刺さる黒曜の灯台。

一級河川の河口のような幅の堀に守られた要塞だ。

約三年ぶりに見たそれは、予想通り僕をげんなりさせた。

今朝の職場の風景がすでに恋しい。

睡眠不足のうえに五時間近い運転の疲れもあり、

早いところ到着して休みたい。

いや・・・着いたら休めないかもしれない。

ああそうだ、なぜ着けばゆっくりできると思っていたんだ。

僕のための椅子があるかどうかも怪しい。

少し停車し仮眠をしよう。そう思い、アクセルを踏む力をゆるめた。


ちょうど染井吉野の開花時期。満開の少し後だろう。

春風にむしられた花びらが、空中と水面を飾る。

近くに大学があることと、四季を彩る数種の並木の美しさから、

このあたりは街はずれの丘にしては人通りがある。


適当な路肩に車両を寄せる。サイドブレーキを引きあげ、シートを倒して僕は横になった。

細い空にも枝と花が走る。ラジオをクラシックのチャンネルに合わせると、

急激に睡魔が襲ってくると同時に、悪魔が襲ってきた。


‐―ミヤタ、早く来い、私は珈琲が飲みたいのだ。君が私のために淹れてくれるマンデリンだ。

早く私のために豆を挽いてくれ。ミヤタ、そこまで来て休むな。

あと数キロ分アクセルを踏めば私の庭だろう。

君好みの固さのベッド、醸造酒、美女も用意している。さっさと・・―-


一瞬意味が入って来ず、夢か幻聴かと疑ったがそうではない。

ラジオが耽美な音楽を背景にそう言っている。

そしてあの男はこのくらいは風呂上りに爪を切るのと同じ感覚で仕掛けてくる。

ああ、この曲のタイトルを思い出した。モーツァルトの『俺の尻を舐めろ』だ。

ふざけやがって。僕はすぐさまチューナーをひねった。チャンネルは変わったが、

‐―無駄だ、ミヤタ‐―

彼は周波数を意に介さず、AMだろうがFMだろうが滑らかに語りかけてくる。

まったくどういう仕組みなのだ。

諦めてラジオを切り音源に変えたが、

‐―無駄だってば、ミヤタくん‐―

まだ続く。気持ちが悪い。もうちょっと文明の臨界点を守れ。


僕はスピーカー自体を切った。これでまだ聞こえてきたらどうしようかと思ったが、

限界はあるらしく安心した。

そのまま睡眠に入ってもよかったのだが、

確かにここまで来たら一杯飲んでから眠りたい。

美女はいないだろうが、酒はないわけがない。

そしてきっと、おそらく、すぐに飲ませてくれるだろう。

そう都合よく憶測して、サイドブレーキを解除した。


堀沿いを今度はUターンして進む。すっかり珈琲を買うのを忘れていた。一応そういう名目だった。

喫茶店『皇琲亭』の薄汚れた木の看板を見たら、帰ってきてよかったかもしれないと思えた。

店舗が入っているマンションの駐車場に停めて降りると、珈琲豆を炒っている芳香が鼻をついた。

硝子張りのドアの向こうにマスターがこちらに向かってくるのが見える。

ドアベルを豪快に鳴らし、外に出て来てくれた。

ガランカランッ


「おう、ひさびさだな」


くしゃりと笑う顔は僕を少なからず安心させた。

「お変わりないようで」

「バカ言え、すっかり禿げちまったよ」

彼はスキンヘッドの頭をぺしっと叩いた。

ネルシャツにチノパンという出で立ち。エプロンやサロンなどは身に付けないのが彼のスタイルだ。

「似合ってますよ、セクシーです」

「うるせえよ、おまえしかそんなこと言わねえぞ」

「あははは、同情します」

「しっかし、覚えのあるワゴンだったから誰かと思えば・・・変わらんなイッセイ」

「いえ、だいぶ老けましたよ」

「変わらねえよ、まだまだ小僧だ。呼び出しか?」

「はい」

「今度はなにやろうってのかね?大将は」

「さあ、ろくでもないことでしょうねえ、」どうせ。

「まあいいや、入れ入れ、いまちょうど焙煎いてる。いいとこわけてやるからよ」

「ありがとうございます」

店内に入るとさらに香りは増し、鼻腔や気管を刺激した。

僕は久々の上等な珈琲香に瞬きをしながら、カウンターの椅子に座った。

マスターはカウンターの内側に入り、焙煎機の調整をしつつ、

巨大な麻袋を開けて生豆を手の平に乗せなにやら確認をしている。

次に炒るのだろう。グァテマラか、いいね。

「変わりませんね、」店の中も。

「んん、変えてほしいなら金くれ」

「僕は、この汚さが好きなんで」

「そういう奴がいるから、変えられねえんだなあ。まあ俺もだが」


柱時計がもう力尽きているくらいで、すべて記憶のままだ。

革張りの剥げた椅子も、元来は厳かに見えたであろうカウンターの一枚板も、

テーブルの盤面に埋め込まれたゴシップ記事も、プラスチックのマガジンラックも、

そこに並べられたマガジンも、いつも何本か差さっているスチールの傘立ても、

時計とともに止まっている。


「景気はどうですか?客来ます?」

「んん、それも変わらねえなあ」

カウンターの中でしゃがみこみ、なにかを探しながらマスターは陽気に言う。

「もの好きがちらほらな。ほれ、うちは豆の卸しがメインだからよ。どうでもいいんだよな、店は」

「なによりです」

「若いねーちゃんが来ないことだけが悩みの種だ」

「ははは、来るわけないじゃないすか」

「ったく、見る目ねえぜ。ナントカカントカよりよっぽどうちのほうが美味いってのによ」

「ナントカカントカじゃわかりませんよ」

「あんなんの名前なんか覚えたってしょうがねえだろ」

マスターは湯をカップに張って温め、珈琲の準備をしてくれている。

いつもそうだった。豆を買いに来るとなにも言わずに一杯出してくれるのだ。ありがたい。

ん? 大丈夫か? 僕だけがここで珈琲を飲むことを、あの男が許すとは思

「なんか流すか?」

「いえ、いらないです」えない。

「んじゃラジオでいいか、一応、営業中だからよ」

「いや、ラジオはやめときましょう、」ラジオだけはやめましょう。

「そうか、じゃあ適当に回すぜ」

そう言って彼はイーグルスの名盤を取った。まあ、レコードはアナログだし、あり得ないだろう。

瞬間、

「ジリリリリリリリ、」

と、店内のドア脇に据えられた、時代遅れの公衆電話が鳴る。

『ジリ』の時点で、僕はなにが起きたか理解している。


「お、なんだ?」

「いいんだマスター、どうせ僕を呼んでる」

「ああ、大将か」

「たぶんそう」

立ちあがり、手垢の形に桃色が擦れた受話器を取る。

「はい、ミヤタです」

「あれぇ?え?皇琲亭さんじゃ、ありませんか?」

か細い妙齢の女性の声がして僕は一瞬怯む。

が、いや、あいつはこれくらいは、やってくる。

「ええ、皇琲亭に備えられている公衆電話でもあり、ミヤタカズナリでもあります」

「あ、店員のお兄さんなのね」

「はい、そのようなものです」

「あ、じゃあミヤタさん、一刻も早く来てもらえるかな?もうあたし食事済ませちゃったから、」

ふー、まったく・・

「アイアイ、ドクター」

「いい子ねぇ」

「パウンドケーキも買って行きましょうか?」

「いいわね、マスターのケーキ意外と美味しいものねえ」

「ドライフルーツと胡桃はどちらで?」

「んー、ドライフルーツかな」

「了解です。あ、あとドクター、」

「なぁに?」

「声質は完璧ですが、イントネーションが大変気色悪いです」

「知ってるぅ、うふ」

死ね。


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