26 カスカードと星空を重ねて〈梨菜side〉
あたしのお姉ちゃんは、人形のような人だった。
綺麗だった。可愛くて、美少女だった。でも、人間じゃなかった。
お姉ちゃんは、感情をあまり出さなかった。皆が大爆笑しているときでも、控えめに笑みを浮かべるだけ。でもあたしは、その微笑みが偽物であることを見抜いている。
自分の意見を通すのは、当然のごとく勉強に関してだけ。頭は良かった。すごく良かった。どんどん飛び級して、お兄ちゃんの学年もひょいひょいっと飛び越えた。
あたしが覚えているお姉ちゃんの表情は、嘲笑だけだ。
子供っぽかったり、馬鹿だったり、軽薄だったり。そういう人たちに対して、表面上では無関心を貫いているけれど、裏で馬鹿にして笑っているのだ。
あんまり怒ったりすることもなかったし、泣いているところを見たことなんて勿論なかった。
あたしはお姉ちゃんが苦手だった。あたしはよく笑い、よく泣き、よく怒る子供だったから、人形みたいに立っているだけのお姉ちゃんのことは不気味で、どこか怖かった。
お姉ちゃんが変わり出したのは、王立大学に通い始めてからだった。
夏期休暇に我が伯爵邸に戻ってきたとき、あたしたちは家族そろって驚きを露わにした。
大学がいかに素晴らしいところか。素晴らしい人がいるところか。それらについて、滔々と語ったのだ。
笑顔で。
笑いながら。
何があったのだろう、とお姉ちゃんを除く家族で額をくっつけ合って話し合ったこともある。
原因は、結局わからずじまいだった。
だけど、それをあたしたちが残念がったことはない。
流華が人間らしくなった、それだけで十分だった。
お姉ちゃんが人間らしくなって、まだ時間は経っていない。お姉ちゃんは、まだ苦しみを知らなかったのだろう。
だから、今。今、人生で初めて、耐え難いほどの苦しみに壊れそうになっているのだ。
お姉ちゃんが泣いているのを、初めて見た。
白くて滑らかな頬を、宝石のような涙が、絶え間無く流れていく。
お姉ちゃんは決して、辛そうに顔を歪めたり、唇を噛み締めたりしていなかった。
夢のように。
カスカードの星空を眺めて泣いているお姉ちゃんは、どうしようもなく儚くて。触れれば一瞬でばらばらになってしまいそうなほどか弱くて。
夕食の席で男性の話が出たとき、ちょっと辛そうに見えた。だから、話を聞いて、慰めようと思った。一緒にお茶でも飲んで、美味しいお菓子でも食べたら、きっと元気になってくれると思った。
でも、今こんなお姉ちゃんを見て、そんな浅はかなこと、できるわけない。
とりあえず、お姉ちゃんが笑ってくれそうなことをしようと思った。
明かりの無い中、引き出しを探ってクッキーを探し出す。見つけたクッキーは、あたしが持ってきたフィナンシェと一緒にテーブルに置いた。
続いて、ひっくり返されたままのティーカップを手にとり、紅茶を淹れる。お姉ちゃんが好きな、蜂蜜もたっぷり入れた。
お姉ちゃん。
「ねぇ」
あたしの声に、お姉ちゃんは少しだけ身じろぎした。
「ガールズトークしない?」
楽観的に。何にも気づいていない、12歳の妹のように。
お姉ちゃんは動かなかった。
あたしはそっとお姉ちゃんに近寄った。そのまま腕を伸ばして、そっと抱きしめる。
そうすると、お姉ちゃんは驚くほど細くて、こんなあたしが少し力を入れただけで折れてしまいそうなほど小さかった。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんは震えていた。
「そんな顔しないでよ。お姉ちゃんらしくないじゃない」
「……」
「そんな顔されるとさ…あたしだって苦しいんだよ。何があったの? ううん、答えなくていいよ。辛かったんだよね? 苦しかったんだよね? だったらさ、あたしたちを頼ってよ」
「…り…な…」
お姉ちゃんは、凛としていて、強くて、あたしの憧れだった。こんなに弱い人じゃ、ないのに。
泣かないでよ。
一人で苦しまないでよ。
そのとき、お姉ちゃんがバッとあたしに抱きついてきた。
あたしの肩に顔をうずめて、お姉ちゃんは静かに嗚咽した。
どれほど、辛いことがあったのだろう。
やっぱり、祐樹様がらみだろうか。
あたしは祐樹様が大好きだけど、お姉ちゃんを泣かせる奴なら大っ嫌いだ。
あたしは、背伸びして手を一生懸命伸ばして、お姉ちゃんの頭を撫でた。
お姉ちゃんはあのあと、泣き止んでからハッと気づいたように照れ笑いした。「ごめんね、みっともないところ見せちゃって。でも大丈夫だよ。もうスッキリした」と言って、さりげなくあたしを部屋から追い出した。大丈夫なわけないくせに。
どうせ強がっているのだ。こんなにちっちゃい妹に弱いところは見せられないとでも思ったのだろう。
何だかイライラしてきた。
心配してるのに、それをさらりと受け流すお姉ちゃんにイライラしてきた。
……絶対。
絶対、あたしがお姉ちゃんを〝本当に〟元気にしてやる。
朝。
ぴーきゅるる、と鳥が鳴いた。カスカードの固有種である、カスミリアムという鳥だ。オレンジの柔らかい羽毛に覆われていて、羽根は虹色。手のひらに乗るくらいで、すごく可愛いのだ。
あたしはむくりと起き上がると、昨晩考えていたことを実行するために、慌てて着替えて髪を整えた。目が半開きなのは許してほしい。この計画は、お姉ちゃんが起きてしまったらアウトなのだ。
抜き足差し足忍び足の駆け足バージョンで廊下を駆け抜ける。
「フォンテーヌの森に行かれるのですか?」
あたしの前で、初老の執事は困惑した表情を見せた。
「だからそう言ってるじゃない。お姉ちゃんとお出かけしたいの!」
む~、と怒った感じで唇を突き出してみる。勿論、この表情にこの執事が弱いのを知っているからだ。
「…ですが、さすがに支度にお時間がかかりますが…」
「構わないわ! でも早めに、できれば朝食後がいいわ」
今日は意外と落ちるのに時間がかかる。
あたしは、両手を胸の前で握りしめて、目をうるうるさせた。さすがに、お嬢様を泣かせるようなことはしないよね?
はぁ、と執事が溜息をついた。
「分かりました。では、今すぐ用意させます。ただし、少々遅くなってもあまりお怒りになられませんよう」
「やった! ありがとう!」
あたしは、満面の笑みになって執事にお礼を言った。
うしし、こいつめ、あたしの表情の八割が偽物だってことにまだ気づけていないな。
続いて、お姉ちゃんの部屋に突撃した。
「おはよう! お姉ちゃん! 今日はお出かけよ!」
うーん、とお姉ちゃんが寝返りを打って、それから跳ね起きた。
「梨菜!?」
まだ目が赤い。このままじゃ誰とも会えないぞ。
あたしがそう言うと、お姉ちゃんは「え!」と狼狽え、ベッドから転げるように落ちて――失礼、降りてくると、真っ先に洗面所へ向かった。その背中に向かって叫ぶ。
「今日は、あたしとふたりでデートだからね! 行き先はフォンテーヌの森! 可愛い恰好してきてね♪」
それだけ言って、そそくさと立ち去ろうとするあたしの耳に、お姉ちゃんの元気な声が響く。
「ちょっと! 朝っぱらから何? 行かないよ!」
全く、昨日泣いて泣いてめそめそしてたお姉ちゃんとは思えない。でも、そのことに少し安堵しながら、あたしは叫び返した。
「お出かけは決定事項! 準備はもうされてるから、お姉ちゃんがいかなかったら使用人さんの仕事が無駄になるよ!」
お姉ちゃんは、ぐうの音も出ないようで、それきり反論は返ってこなかった。
あたしは知っているのだ、お姉ちゃんの贅沢嫌い精神を。つまり、一度準備してもらったのなら、それをポイッと放り捨てる高慢チキなお嬢様の真似なんかできるはずもなく、行くしかなくなるというわけである。
朝から頑張って良かった!
あとは、フォンテーヌの森でお姉ちゃんの心に元気を充電することだけだ!
………って、それが大変なんじゃないか。




