23 わたしが彼女を愛する理由
祐樹様のことで頭がいっぱいになっていて、サマーパーティーから5日経つまで忘れかけていた。
梨菜が言っていたこと。
――人を裏切ること、してるんだって。
――ヤバい人と繋がってるらしいの。
――いわゆる、ゴーストライター、とか。人の研究結果とかレポートとかを盗む、とか。
――『貴女のお姉さんの論文とか、レポートとか、すごく素晴らしいわよね。あたしも似たようなのやってたんだけど、いっそのこと使っちゃおうかしら?』
嘘であってほしい。
しかし、桜子さんは、仮にも王立大学物理学科の卒業生だ。今何をしているかは知らないけど、彼女の知性はきっと健在。ゴーストライターだってしようと思えば出来るくらいの脳味噌は持っているし、突然狼を思わせる巧妙な考えをしたりもする。
でも。
わたしと久しぶりに会って、本当に楽しそうに朗らかに笑っていた桜子さんが、そんなことをしているかもしれないなんて。
嘘だ。
わたしの論文を盗もうと考えたりしてるなんて、嘘だ。
そんなの、認めない。信じない。
わたしは桜子さんが好きだった。
周りの人よりふたまわりほど若かったせいもあり、引っ込み思案でいつも目立たないようにしていたわたしと違って、彼女の周りにはたくさんの人がいた。明るくて、明朗で、誰にでも分け隔てなく接する桜子さんは、みんなに人気があって、みんなから愛されていた。
だから、何でわたしみたいな人に関わってくるのか。ぼっちだったわたしからすると、彼女の行動は不可解であまりにも謎だった。わたしみたいに暗い感じの子供と話して、人気者の彼女に何のメリットがあるのか、と。
そういえば、当時12、3歳だったわたしは、この超絶な頭脳のせいで人間らしい考えをすることを忘れていた。ただ新しい知識を、言葉を、物事を知ることが楽しくて楽しくて、わたしからすれば馬鹿としか言いようのない周りの子供たちからは浮いていた。周りの子供たちは、どこか別次元のわたしにわざわざ話しかけるような真似はしなかったし、わたしも新しい何かを教えてくれるわけでもない子供たちに話しかけようとは思わなかった。
人との関わり合いは最小限。知識との関わりは最大限。わたしは、人と話すことの楽しさを忘れていた。
当時を思い出してみれば、大きく口を開けてお腹が痛くなるまで笑ったことなんて、片手の指で足りるくらいしかなかった。
…どれだけ寂しい子供時代なんだか。
とにかく、わたしは桜子さんのことが不思議でしょうがなかった。だから、初めに話しかけられた時の返事は、めちゃくちゃ素っ気なかったはずだ。勿論、これ以後話しかけてくるなんて愚かな真似(笑)をしてくるなんて思わなかった。
しかし!
しかし彼女はそんなことなどすっかり忘れたのか、次の日にはまた同じように、屈託のない笑顔で可愛げのない子供に話しかけてきた。
こうなると、混乱する。
わたしはますます素っ気なくしたのだが、あとから考えてみるとそれはものすごく逆効果だった。結局その当時は一週間ちょっとでわたしが折れて、話しかけられればきちんと話す、ということを約束させられた。
そんなこんなで、わたしは桜子さんと会えば話をするような仲にはなっていった。さらに、彼女の周りにいる人たちとも話すようになった。学人さんもその一人である。
その中で、わたしは人と話すことの楽しさを思い出した。
何の新しい知識を得ることもできない、新しい言葉を知ることもできない。けれどもすごく下らないことをぺちゃくちゃしゃべって、ただ面白くてケラケラ笑う。わたしは人間らしさを思い出した。
人と話すことは、友情や、愛情を教えてくれた。決して必要のない無駄な行為ではなくて、人間性を造るための大切なことなんだとようやく気づいた。
そして、わたしはようやく桜子さんが初めに話しかけてきた理由を悟った。
彼女はただ、優秀なくせにぼっちでいたわたしに興味を持って、何か面白い話をしたいと思っただけなのだ。きっと、話しかけてみたら、わたしは思った以上に厚い殻に閉じこもっていたわけで、余計に面白くなったのだろう。もしかしたら、社交性のないわたしを心配してくれたのかもしれない。
わたしは、人と話すことの楽しさを思い出させてくれた桜子さんを好きになった。
その頃、わたしは古文学科でやたら難しい漢字の書を読み漁っていた。
だけど、桜子さんたちと話すうちに、わたしは〝愛〟なる未知の世界の言葉を知る。
いくら、少し心が開いたからといって、わたしの新たな知識を求める欲求が消え去ってるわけもなく、わたしは〝愛〟というものについて知りたくなった。当然の流れだ。
ただ、わたしはその方法を知らなかった。わたしは長らく人と関わることを忘れ、知識と時を共にしてきた。
わたしは、それまで下らない、低俗だと思っていた、恋愛小説家〝優里亜=インヴィアタ〟の小説を読むことにした。
それは、新鮮で、清純なものだった。
誰かを心配する想い。誰かを守りたいという想い。ずっと一緒に居たいという想い。その人のことしか考えられなくなるくらいに想うこと。
――ああ、と。
それに気づいたとき、わたしは心の何かが溶けていくような気がした。
――わたしが桜子さんに抱いているものじゃないか、と。
わたしは愛を知った。
全ては、桜子さんのおかげで。
だから、わたしは彼女がそんな人でないと信じたい。
今日はいつもと比べて幾分涼しかった。
窓の外では、細かい霧雨がしとしとと降り続いている。暗い雨空と、わたしの行きようのない思いが交錯していた。雨粒が流れていく窓も、雫を受けて微かにたわむ葉も、水を吸って生き生きとした雑草も、薄暗い昼間の外の様子は冷たかった。電気を付けているのに、その明るささえも寒々しく、空虚な感じがする。
手元には、読みかけの本があった。
西川麻里『アンバランス』。
わたしが風邪を引いてぶっ倒れていたとき、祐樹様が持ってきてくれた本だ。
時間が無くて読めていなくて、しかもサマーパーティーの後は何となく遠まわしにしてしまっていた。けれど、桜子さんのことを考えていたとき、何だか今のわたしのようなタイトルにふっと惹きつけられ、読み始めてしまった。
毎日のように現実世界のような夢を見る主人公。世界が、だんだんだんだんおぞましく変わっていく。現実も、緩やかに変わっていく。現実と夢の境が分からなくなって壊れてしまう彼の、哀しい物語。
何でこんなに暗い本を持ってきたんだよ、と最初は祐樹様を恨みながら読んでいた。でも、三分の二ほどを読み終わっている今、何かが違う気がする。
彼はもう一つの夢を見始めるのだ。
それは、今までの悪夢とは違って、中身のない楽しい世界。簡単に魔法が使えるし、友達もたくさんいる。
これはバッドエンドじゃないのかも。
わたしのいるこの世界で、わたしは桜子さんのためになる何かを見つけられるだろうか。
何かが変わる、新しい夢を見られるだろうか…?
あんまりいい気分じゃなくて、わたしは読みかけの『アンバランス』を置いて部屋を出た。
お菓子を持ってきてくれていた汐音と扉を開けたところで遭遇したけど、ものすごく美味しそうなチーズケーキを見ても反応せずに部屋を出ていくわたしに、彼女なりに何か思うところがあったらしい。そのまま通してくれた。
何も考えずに廊下を歩き、階段を下り、一階にある第七会議室――他の学者さんたち曰く『憩いの間』――に行った。皆が思い思いに集まって談笑したりする、いわゆるリビングのようなものだ。会議室だけど。
わたしが扉を開けると、何人かの学者さんたちがソファーに座ったりベッドに寝転がったりと、ゆったり過ごしていた。お洒落なテーブルにソファー、ベッド、本棚、ラジオ等、会議室の面影はすでに残っていない。歴代の学者たちが改造してきた結果だ。
「こんにちは」
とわたしが声を掛けると、近くのソファーにいたリトポールさんがこちらを向いた。
「あ、シャネリアさん。珍しいな、憩いの間に来るなんて」
「何となく、誰かと話したくなったもので」
小さく会釈して、リトポールさんの向かいのソファーに座らせてもらった。
「何か、俺に話したいことでもあったか?」
悪戯っぽく訊かれて、わたしは首を横に振った。
「あの、桜子=アルフェリータって知っていますか?」
「?」
いきなり出てきた名前に、リトポールさんが困惑した表情をする。そうだよね、いきなり言われたら戸惑うよね。てか、知らないよね。
そう思っていると、首を傾げながらリトポールさんが言った。
「うーん…聞いたことあるような気がするんだけど…。誰だっけな? …シャネリアさん、知ってるの?」
わたしは曖昧に頷く。知っていると思っていたけど、知らないことの方が多かったみたいなんです。
「あ、やっぱり知りませんよね。失礼しました」
ペコリと頭を下げると、なぜか複雑な顔をされた。なぜ。
そのとき、ベッドの方から声が飛んできた。
「桜子=アルフェリータなら知っていますよ」
アンゲアさんだった。
ベッドからゆっくり体を起こして、遠くからわたしを見てくる。
「確か、一年前から王立大学で、物理学科の臨時講師をしていると聞いたことがあります。何でも、とても美人なんだとか」
「え」
思わず間抜けな声が漏れた。
何で言ってくれなかったんだろう。
わたしと再会した時には講師をやっていたはずなのに。
何で隠していたんだろう。
何で……?
超久しぶりのアンゲアさん。
物理学者さんの一人です。




