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消えてゆく

作者:
掲載日:2026/01/04

最初に起こったのは、朝に起きたときだった。

違和感。

いつも通りの部屋なのに、何か変だった。薄い。どこか薄い。


コーヒーを淹れたとき、トーストを焼いたとき、

香りがない。届かない。

鼻が詰まっているとか、そういうわけではない。

鼻に情報が届いていない。

そう、匂いがない。


医者は首を傾げた。

まったく健康体であるためだ。


そのまま数日を過ごして、またおかしなことが起こった。

静かになった。


雪が降っても音がない。

車、人、踏切。

すべてが音のないテレビを見ているかのようで、何も聞こえない。

耳を澄ましても、何も変わらない。


やがて、寒さがなくなった。

手袋を外しても、雪に手を突っ込んでも、何も感じない。

何も、感じることができない。


そこまで来て、医者は

「進行性の疾患」

だと語った。


五感、記憶、感情

自分を、自我を構成する、作られるものが、

ひとつずつ失われていく。消えていく病。


症例は少なく、原因も対策も治療法もない。

自分から消えていく。不可逆だ。戻ることはない。


だが、不思議と恐怖はなかった。

その感情すら消えてしまったかのように。


記憶もなくなっていく。

もともとから耳が聞こえない人生を送っているような気がしたし、

コーヒーの匂いも忘れた。


それでも、視覚だけは最後まで残った。

雪で覆われた街。

凍った川。

灰色で塗られた空。


冬の世界は鮮明だった。美しかった。

まるで、消えていくのは自分だけで、

世界は何ひとつ失っていないと

言われているようだった。


時間の感覚もなくなった。

昨日、今日、明日も曖昧になって、

名前も、過去も、消えていく。


「もっと君は、おしゃべりだった」


誰かに言われた気がする。

けれど、誰に言われたのか、もう覚えていない。


最後に残ったのは、

「消えていく」という理解と感情だけだった。


他には何もない。

思い出せない。知らない。

でも、怖くない。


ただ、

僕が、

私が、

自分が、

消えていくことだけは分かる。


雪が止んだ日、彼は何も反応しなくなった。

呼びかけにも、触れられても、何の応答もしない。


それは人の形である何かで、

もう彼はそこにいなかった。


抜け殻だった。


それを見下ろした誰かが、こう言った。


「いいなあ」


それは、誰にも聞こえない声だった。

切望か、祈りか、諦念か。

おぼつかない声で。


感じず、覚えず、気にもせずに。

見たくないもの、忘れたいもの、聞きたくないもの。

すべては彼に届かない。


ただ在るだけの存在。


それは、誰かに、ある感情を届けた。

それが何かは、まだ分からない。


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― 新着の感想 ―
題材はよかったけど、もう少しだけでも練り込んでほしかったかな。 語り手が『僕』あるいは『私』だと思ってたのに、次の行でいきなり『彼』になるのは何か意図があむたのでしょうか?
ここで何を怖く感じるかは、本当に人それぞれかとは思うのです。が、私は 主人公が怖がっていない ことが一番怖かったですね。 本来大切であるはずのものが失われていくのが怖くないと言うのが、なんだか……すで…
 なるほど怖い。  ですがそれ以上に虚しい。  怖ささえ忘れてしまう喪失の怖さ。  多分高齢者の認知の衰えがこれに近いのかも知れません……。  怖さよりも虚しさ、そんなホラーもあるのですね。
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