第57話 信じるしかない
不思議な沈黙が流れた。
私は。
サディナの娘、ディラーラ。
ではない。
「間違えないでね?僕は今の君がとても好きだ。今の君を愛しているし、大事に思っている。ただ、元のディラではないよね?」
元のディラ。
ああ、なんか懐かしい響きだ。
「サディナに聞いたんだよ。あんまりにも違うと思わないのかって。そうしたら、思うって。よく似た別人かと疑ったぐらいだって。だけど、小さい頃の足の傷とかは残っているし、きっと中身だけ入れ替わったに違いない。僕の母が、息子を心配するあまり、ディラに取り憑いたんだと思う。違うかもしれないけどそう思うことにした、って。」
なんか話が遠くで聞こえるみたい。
「それって、いつ頃の話ですか?」
「君が、王宮に侍女に上がってすぐ。だから君のご両親も、兄弟も、エシルも、アイカ姫も、みんな、君が元のディラでないことを知ってる。」
ああ、なんだ。みんな知ってたんだ。
お腹が重い。
もうすぐ九か月。
「そしてね、中身が僕の母でないことは、僕が一番知ってる。明るくてよく笑う母だったけど、兄上に軽口叩くような度胸のある人ではなかったよ。」
標の君は、気遣うように私を見た。
「戦争が終わって、帰ってきてから、話そうと思ってた。」
例の死亡フラグだ。自分でへし折っちゃうってさすが。
私が、よっこいしょと体を起こしたので、標の君は急いで背中を支えてくれた。
「だけど、無事に帰って来られるか分からないから。」
そこでもう一回フラグ立てるってなんなの。
私は令和の女子大生。
ここじゃないところから来た。
ええと。
大体1000年近くは未来っぽい所から、来た。
トイレが水洗で、エアコンがあった。道はアスファルトだった。車が走っていた。
だけどなんだろう。思い出そうとすればするほど、遠ざかる気がする。
私がぼぅっとしているので、標の君はぎゅっと私を抱きしめて謝り始めた。
「ごめんね。言うんじゃなかった。忘れて?君は今のままで十分だから。」
「ああ。はい。」
こっちに来て、八年ちょっと。もうすぐ九年。
昔の記憶が曖昧になりつつある。
もう帰ることはすっかり諦めているけど、だからってこんなに忘れてるなんて。
どうしよう。今の今まで考えたことなかった。
「本当に大丈夫?」
「多分。」
ああ、心配そうな標の君。
いつ見ても美青年。そして私の旦那様。
「私の事を愛してます?」
「愛してるよ。」
「私が元のディラじゃなくっても?」
「僕は今の君しか知らない。」
「じゃあキスしてください。」
虚を突かれたような、標の君の顔。
「ほんとにもう、なんというか。」
それからふ、ふと笑って私を抱き寄せた。
「いいよ。僕のディラ。くだらないことを聞いて悪かった。」
チュッと軽い口づけ。もう一度。
それから耳たぶにも。首筋。鎖骨の上。
キャミソールの肩紐を外して胸に。
と思ったら、お腹の中から、どかっと蹴られた。
「怒られました。」
標の君も、あごに当たったらしい、びっくりした顔をしていた。
「だね。」
それから、またふ、ふと笑った。
「残念だけど、続きはまた今度にしよう。」
標の君は、割に性欲強め。
温厚が冷静の服を着たような、見た目もおっとりから想像出来ない。
服脱ぐと、秘密兵器が隠れてる。みたいな。
二人でゆっくりのんびりイチャイチャしていたので、朝食に食堂まで降りたら、子供達はとっくに済ませてデザートの果物を頬張っていた。
「お父様もお母様も、お寝坊〜」
タニアに指摘される。
「昨日、お母様、お具合悪かったからね。」
標の君がにこにこしながら、言い訳した。
「元気になった?」
「なったかな。」
一番下のハールーンに、麦粥を食べさせていたミッテさんが、空の器を持って立ち上がった。
「ハー坊っちゃんは、大食漢でいらっしゃいますね。
結局ミッテさんは、エシル将軍ちには戻らず、そのまま大公邸の女中頭になった。
シースさんは結婚して、実家の宝石店の通いの女中になった。
ハールーンは偏食が激しい。
そのくせ、好きな物はめっちゃ食べる。歩くのはまだおぼつかないのに、麦粥は大人と同じぐらい食べる。
「ハールーン、リンゴも食べるのよ?」
すりおろしたリンゴを目の前に出したら、ひっくり返された。
もー。
標の君はにこにこしながら子供達を眺めて、言った。
「お父様はしばらくお留守にするからね。お母様の言う事を良く聞くんだよ。」
「ご領地に行くの?」
「もう少し遠い所だよ。エシルお祖父様とご一緒に、世界一高いお山を見に行くんだよ。」
まぁまぁ嘘っぱちだけど、的外れでもない。
「えー、いいなー!」
子供達は目をキラキラさせた。
「一緒に行きたい!」
「行ってみて、子供達も安全だったらね。」
旅の準備をして、翌朝まだ暗いうちに標の君は出立した。
子供達は見送れなかった。
「きっと戻るから。」
と標の君は約束してくれた。
それを信じるしかない。




