第56話 あともう一つ
怪訝な顔の私に、標の君は説明した。
「砂嶺国としては、今回兵を出さないことで、鷲羽国に責められるのを避けたい。ついでに賠償金の年賦払いもなしにしたい。そこで考えたのが、王族の姫の誘拐だ。後宮は守りが固くて難しい。でも警戒心の薄い大公妃なら、なんとかなる。」
こわっ。え。前から狙われていた?
「と、今日捕まえたヤツが吐いた。」
パッとしか見なかったけど、十人近くいたと思う。
元々馬車の護衛についていた衛士は、ひどい怪我をしたらしい。
でも死ななくてよかった。
エシル将軍は、砂嶺国側の半分ほどを殺し、二人は生け捕り、一人はわざと逃がした。
標の君が、あくびを嚙み殺した。
疲れているのだ。
もう深夜なのを、すっかり忘れていた。
「お休みくださいな。続きは明日伺います。」
「うん。・・そうだね。」
平服のままだった標の君は、私が出してきた夜着に着替えて、ベッドにもぐりこんだ。
私も、反対側からもぐりこむ。
あ、なんか久しぶり。
「君に謝らないといけないことが、たくさんあるんだ。」
「まあ、怖い。どんなことですか?」
「ずっと放っておいて、悪かった。」
「寂しかったですわ。でも、謝って頂いたから、許します。」
「それに、これからしばらく、僕は王都を離れる。」
「前に話しておられた『策』の事ですわね。分かってます。無事にお戻りになるのをお祈りしております。」
「あともう一つ・・」
標の君の声が途切れた。
ん?と思って見ると、寝落ち。
もー。そんなんされると、気になって寝られないでしょ。
そうでなくても、さっきまで私ぐーぐー寝てたので、眠りは足りている。
仕方ないので、久しぶりに標の君の顔をまじまじと眺めることにした。
やっぱり美青年だなぁ。
少し癖のある黒髪。出会った頃は肩につかないぐらいの長さだったけど、今は伸ばして後ろで束ねている。首の保護のためだそうだ。
タニアと一緒で、束ねているといい感じにくるくる巻いて、段々たくさんの縦ロールが出来てくる。おもしろい。
ほどくと、背中の中ほどまである。
今は若干汗臭い。
でも飾っておきたいような美青年。睫毛長い。何年見ても、見飽きない。
誰にもあげない。愛してる。大好き。
にまにましているうちに、また少し眠ったみたい。
鳥の声が聞こえて目を開けると、標の君が片肘をついてこちらを見ていた。
「おはようございます。」
朝一の変な顔を見られるの、ちょっと恥ずかしい。
「何か気になりますか?よだれがついてます?」
「ううん。相変わらず美人だなぁって思ってたよ。」
ええー。もうやだぁ。照れる。
「御世辞はいいですよ。」
「本当だよ。美人だし、笑顔も可愛いし、僕には過ぎた奥さんだと思ってる。君がいてくれて本当に良かった。君がいなかったら、多分僕は、今でも兄上と仲違いしたままだっただろう。」
うんうん。それは本当にそう。
でもどうして今、それを言うの。ちょっと怖い。
「君が一緒に来てくれたおかげで、王宮に戻る勇気も出たしね。」
うん。
私も頑張ったよ。
「褒めて頂いて、光栄なことですわ。」
うなずいておく。
「だからね。不思議だったんだ。どうしてこの子には、婚約者がいなかったんだろうって。」
はい?
そこ?
記憶を手繰る。
ぼんやりディラーラ。そうだった。嫁に行かせてもすぐ帰ってきそうだから、無理に行かせるのもな、みたいな話を、エシル将軍がしていた。
「貴族とか、大店の商家の娘は、十五歳ぐらいで大抵婚約者が決まっているでしょ。君は綺麗だし、明るいし、物怖じしないし、まあちょっと変わってるけど、婚約の妨げになるほどとは思えない。だから、君に婚約者がいないと聞いて驚いたし、君が侍女に上がった時、セレイに調べてもらったんだよ。」
ああ。ゆうべ言いかけていた、「あともう一つ」の続きなんだ。
「どうでした?」
聞いてみる。
標の君は、ゆっくりまばたきをしてから、続けた。
「縁談はね、いっぱいあったんだって。ただ、肝心のディラが、ダメダメだったって。おっそろしく引っ込み思案で、無口。知らない男性が目の前に座ったら、もうそれだけで泣き出しちゃって、どうしようもない。近づくと逃げる。家族同席でもダメ。二、三度会えば慣れるかと思えば、それもダメ。年下もダメ。お出かけも大嫌い。サディナも、困り果てていたみたいだよ。」
うおぅ。
そうでしたか。
え?
標の君は、肘が疲れてきたのか、身を起こした。
「だけど、僕と君が初めて会った時、君は何て言ったか覚えてる?僕の頬をこう、つまんで、『笑顔が大事』って言ったんだよ。」
ああ、そんなことも言いました。
「ね?不思議だよね。僕と会う前と後とで、ディラという娘の印象が違い過ぎる。それでね、サディナに聞いたんだよ。どう思うかって。」
どう、思う?
標の君は、柔らかい灰緑の瞳をこちらに向けた。そしてややあって、一言。
「君は、誰なの?」




