第38話 名義変更は大変
帰りの馬車で、緊張が解けて、思わずポロポロ泣いてしまった。
泣いている間中、標の君がぎゅっと抱きしめてくれていた。
「大丈夫だったでしょ?」
耳元で囁かれて、きゅんとなる。
「だ、だって、そ、側室とか絶対嫌だったんですもの。」
「不安にさせてごめんね。」
優しい声。間近で見ても、美少年。絶対離したくない。自分がこんなに独占欲が強いとは思わなかった。
「連れて行ってくださってありがとうございます。」
やっと涙が止まったので、標の君の膝の上から降りる。
今さらながら、ちょっと照れる。
「大したことじゃないよ。それより、ディラこそ忙しいのではないの?剣と乗馬を習い始めたと聞いたよ。やっぱりこの前の事件でびっくりさせたんだね。」
「やれることは全部やっておこうと思っただけです。」
「無理はだめだよ。」
標の君はそう言うが、無理でもなんでも、やれるだけのことはしたい。
あと三か月で結婚。
ドレスの仮縫いも進んでいるし、婚礼用の家具だの、新居に連れて行くメイドや女中の選定だの、準備は着々と進んでいる。
大丈夫。標の君は、私がきっと幸せにしてみせる。
これでもう、政略結婚を押し切られることもない。
まあ、エレーン姫には気の毒だけど、なんかちょっと、標の君の財産狙いっぽい感じがしていただけに、ここは我慢していただく。
「殿下もお忙しいのでしょう?」
聞いてみる。標の君はにこにこしている。
「少しはね。でもみんなが頑張ってくれているから、僕の仕事はそんなに多くないんだ。ただ、名前が変わるからね。ちょっと面倒。」
名前、が、変わる?
「え、標の君ではダメなのですか?」
思わず聞いたら、標の君は一瞬目を丸くした後、ふ、ふ、と笑い始めた。
「やっぱり面白いな、君は。標の君というのは王子に付けられる敬称で、本名とは別の、仇名みたいなものだよ。結婚して独立したら、大公の称号をもらって、代々大公家が使う名前になる。今、大臣たちが相談しているけど、多分セリム大公になるかな。」
ええええ。
びっくり。
「標の君じゃなくなるんですか?」
ついもう一回言ってしまった。
だって、私の好きな標の君が、標の君じゃなくなっちゃうなんて。
標の君は、動揺する私を見て、笑いを引っ込めた。
「この名前が好きなんだね。ありがとう。僕も好きだよ。詩的な感じがするよね。」
「本当のお名前は何というんですか?」
「ファリス。」
ああ、聞いたことがある。王妃様がそう呼んでいたんだっけ。
確かによく考えたら、他の人たちがみんなカタカナ名前なのに、標の君と大地の君だけ、他と全然違う名づけがされていた。
そういうことかと、今さらながら納得する。
いわゆる、宮号みたいな。
でも今更ファリス王子と呼びにくい。全然違う人のようだ。
ためらっていると
「好きなように呼んでいいんだよ。標の君がよければ、そう呼んでいいよ。」
「本当に?結婚した後も、そう呼んでいいんですか?」
「いいよ。ふふ。」
笑顔がきらきらしている。
まあ、さっきもエレーン姫との会話の中に見えたけど、この人は意外にきつい面もある。
超賢い人なので、たぶん私が知らないところで色々やっているんだろうな。
でもそんなこと、こっちは百も承知だ。
私はただ、標の君が元気で生きていてくれればそれでいい。
夏が過ぎればケッコーン、とか思っていた私の所に、標の君からの使者がやってきたのは、それからたったの数日後だった。
「結婚式を二か月早めます。三日後、国王陛下への挨拶となりますので、ご準備をお願いします。」
は?
あまりの事に聞き違いかと放心していると、一緒に使者を出迎えたお祖母様が問いただした。
「急な予定変更の理由は?お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「陛下が体調を崩されていらっしゃいます。」
言葉少ない使者の説明に、アイカおばあ様はうなずいた。
「承知しました。」
「当日朝、お迎えに参りますので一級礼装でお待ちください。」
使者が帰った後も、放心している私に、アイカおばあ様が説明した。
国王陛下がもし万一お亡くなりになったら、王族は全員喪に服すため、少なくとも二年は結婚できなくなる。
今やっている準備を二年先送りにするぐらいなら、二か月前倒しにした方が、皆の負担が少ない。
ああ。そうだった。
そう言えば、原作で標の君とエレーン姫との結婚は、とても早かった。ほとんどなし崩しに、と言ってもいいぐらい。
標の君の体調が悪くて、そう、国王崩御とそれに続く葬儀の儀式の際、とても一人では式が終わるまで座っていられないかもしれない状態だったので、急遽、エレーン姫が婚約者として標の君と同席したのだった。
そして本来なら、喪が明けるまで結婚式はしないはずなのだが、おそらく喪が明けるまで自分の命は保たないだろうと判断した標の君が、鷲羽国に寄るべのないエレーン姫のために、内々に結婚の手続きをしたのだった。
この夏は暑くなる。
元々弱っていた国王陛下は、夏を乗り越えられなかった。
そう言えば、会ったことがなかった。
三日後に、初めて会う。どんな人だろう。




