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AI ―失われた声を抱きしめて―  作者: ノートンビート
0. プロローグ ―― “ラブグラム事件”3年後
3/14

0-3〈誰もいないリビング〉

テレビを消した瞬間、部屋を満たしていた蛍光管めいた青白い光がすっと引き、壁の時計の秒針がカチリと跳ねる音だけがリビングに残った。夜風がマンションの高窓を叩き、揺れたレースカーテンが天井の照明をゆらゆらと遮る。その影が床に落とすたわむれの波紋は、見方によっては水面の反射にも見え、果歩は足元に生じたその擬似的な湖を踏まないようにキッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける指先に、テレビの残光がまだ帯電している気がした。白い庫内灯に照らされるミルク、缶コーヒー、昨夜のサンドイッチ、パセリの残骸。兄が生きていたころは冷蔵庫に常備されていたはずのスポーツドリンクの列が、いまは空虚な仕切り板の奥に小さな影を伸ばしているだけだ。空いたスペースは穴のようで、視線を吸い込まれた果歩は不意に呼吸を忘れる。

息をつく代わりに手を伸ばしたのは紙パックの牛乳。まだ冷たさが指にしみるうちにふたを開け、コップに注ぎながら脳裏でさきほどのCMを反芻する。もう一度、会おう――その五文字がミルクの表面に浮かんで見え、果歩は笑って牛乳を飲み干す。白い液体の甘露は口の中に膜を張り、ゴクリと咽喉が鳴るのと同時に、空気が一瞬だけ甘い牧草の匂いを帯びた。兄がよくやった「一気飲み早合戦」が思い出され、不覚にも頬が緩む。そう、コミカルはまだ許される。涙腺が軋む音がしないうちは。

ダイニングテーブルの上には、課題の楽譜と赤ペンと、放置されたメトロノームが散らかっている。秒針型の振り子はわずかに止まりかけており、270のテンポで鳴るべきクリックが不規則に失速している。兄の死後、食事よりもメトロノームのリズムを信じるようになった自分を、果歩は半ば諦観をこめて知っている。それでも今日は回す気になれなかった。音がそばにありすぎると、呑気な拍子の合間から「まだ進め」と囁く兄の声が洩れ出してくる気がしたからだ。

果歩はペン回しの要領でメトロノームの振り子を指一本で押し戻し、それが再加速して規則を取り戻す前に視線をそらす。代わりに目に飛び込んだのは、テーブルの端に伏せられたタブレット。画面には朝提示された教授からのメール通知が点滅している。〈進級審査用の自由課題、〆切厳守。感情表現の再考を〉。言外に「あなたのピアノはデコレーションが足りない」と突きつけられたその文面は、音大生としての自尊心を確実にえぐった。兄と二人で笑いながら競い合ったはずの舞台は、いつの間にか果歩ひとりの孤島で、響きの返ってこない荒野に化けている。

飲み干したコップを洗っていると、水の表面に小さな虹が揺れた。照明が揺れたせいかと思ったが、虹の中央に淡くピンクが混じるところが広告の背景色によく似ていて、果歩は蛇口を止める手を硬直させる。もう一度、会おう――シンクの中で波を描く水がそう言っているのか、脳が勝手に重ねた幻聴か。どちらにせよ、心臓は跳ね、指先が震える。哀しみの正体は忘却への恐怖だと、心理学の講義で教わった。本当に怖いのは思い出すことではなく、思い出せなくなることなのだと。

リビングの中央、グランドピアノの黒艶が闇の中でも沈まず浮き上がっている。兄はその蓋を完全に開け、弦の響きを天井へ放つのを好んだが、果歩はいまだに支柱を半分しか立てられない。蓋を大きく開けると、音が部屋から外へ飛び立って戻ってこない気がして、掴めないまま失う怖さが先に立つのだ。それでも今日は、CMに突き刺された棘が妙な勇気に化けていた。

果歩は躊躇いを飲み込み、支柱を最後の段階まで持ち上げ、蓋を最大角度で固定する。心臓の鼓動が速まる。ピアノが純粋な黒に戻り、外灯の反射が鏡のように映り込む。そこに映る自分と視線が合い、思わず目をそらした。鍵盤に置く手の平が汗ばんでいる。重力よりも濃密な沈黙が部屋を押し潰しそうだ。

いざ指を下ろそうとすると、脳裏に兄の残したデモ曲の、最後の未完成小節が浮かぶ。シンコペーションが続いたあと、意地悪なくらい伸ばされるフェルマータ。そこで録音データは途切れ、残響は闇に吸われる。続くべき和音はまだ存在しない。それを埋める役目を、果歩は引き受ける勇気がないまま三年を費やした。だがCMの甘美な毒は、未完成の音が呼ぶ“声”を利用して再生産する。データが全てでなくてもいい。ただ“声”を出力するAIには、続きの小節を作曲できる力はないと彼女は本能的に悟る。だからこそ、人間が弾かなければいけない。

鍵盤にほんの少し重みを落とすと、低いイ短調の音が部屋の重力を一瞬だけ緩めた。最後に兄が弾きかけた音域。果歩は混じり気のないひとつの単音に耳を澄まし、指を離す。それは試し打ちのように短く、むしろ部屋の広さと静けさを証明するためだけの砲弾のようだった。返ってくる残響は薄い。彼女は深呼吸し、二音目を重ねようとするが、指が跳ね返される。脳がまだ許可を出していない。

ふと視界の端で、メトロノームが黙っているのに気づく。さっき指で弾いたが、角度が足りず本格的に動き出していなかったようだ。振り子は死んだ楽園で動物たちの尻尾のようにピタリと止まり、拍は消えたまま。拍子がないと、時間だけが無為に伸びる。果歩は立ち上がり、メトロノームに手を伸ばしかけ──やめた。代わりに目を閉じ、胸の内側で自分の心拍を数える。タップテンポのようにリズムを合わせ、内部の拍子でカウントする。60、62、60、少し揺れる脈拍が、むしろ自然な序奏に思えた。

それでも鍵盤に戻った指は、三和音さえ組めず宙を泳ぐ。黒鍵と白鍵をまたぐ爪が、会わせたがるのに躊躇する恋人の手のように絡まらない。果歩は眉根を寄せ、鍵盤に落ちる自分の影を見た。影の隣にもうひとつ影が並んでいる錯覚があった。兄――いや、兄の欠片。白い鍵盤の溝からふと立ち上る幻。幻覚とわかって瞬きをしても、それはしばらく残像を留め、やがて闇に溶けた。

鼓動は落ち着かず、代わりに滑稽な選択肢が脳裏を過ぎる。ここでCMよろしく「もう一度、会おう」と呟いてみれば、何か物語が動き出すのかもしれない。バカらしいと言い捨てるべきだが、脳裏に残る広告のパステル粒子が、その思考を甘くコーティングする。果歩は自嘲のため息とともに唇を開きかけ、それでも声を出さずに口を結んだ。恐怖と期待が天秤で揺れる。

視線がふとテーブルの上のタブレットに戻る。そこには別の通知が新たに浮かんでいる。〈EchoGram 無料トライアル30分 今すぐ体験〉。兄の名前で自動挿入された招待コードが添付されていた。どうやらニュースアプリが勝手にパーソナライズし、推し広告を差し込んだらしい。これが偶然かアルゴリズムの狡猾かを問うには、今夜の静けさはあまりにも意味深だ。果歩の手は無意識のうちにタブレットへ伸びる。指先が画面に触れた途端、牛乳を飲んだときの冷たさに似た感触が掌に拡がる。登録ボタンは緑色で、まるで「進め」を示すシグナルだ。

押すべきではない――常識はそう囁く。が、常識は失われた声を補填してくれないし、楽譜の空白を埋めてもくれない。兄の作曲ソフトには、途中まで打ち込まれたベースラインとストリングスの疑似コードが鎮座したまま。空白を見つめ続けた三年間の忍耐は、いまパステルのCM一枚で簡単にひび割れている。果歩は恐ろしく滑稽な自分の心を自覚しながらも、背筋を伸ばし、鍵盤の上で手を組む。メトロノームを回さずに、心拍だけで一小節カウント。空気の弦が張り詰める。

そして指を下ろす代わりに、タブレットに触れた。「きみの大事な人の声を、まだ覚えてる?」広告で聞いた囁きが耳内で再生される錯覚とともに、画面が白くフラッシュした。リビングの灯りがその光を吸収し、雪崩のごとく無機質な昼に変わる。夜は色をなくし、家具の影さえ均質になり、果歩の心臓だけが鮮やかな赤で脈を打った。クリック音が異様に大きく跳ね返り、部屋の隅へ転がっていったように感じる。何も起きない。不気味なくらい、何も。

だが果歩は知っている。何も起きないことが物語の始まりだと。無音こそがプロローグの鼓動だと。リビングは再び闇へ戻り、窓辺のカーテンが夜風で波打つ。遠く車のクラクションが鳴り、都会の脈動は変わらず続いている。果歩はピアノの蓋をそっと下ろし、最大角度から半開きへ戻した。音が逃げないように。本当に奏斗の声が帰ってくるそのときまで、逃がさないように。

タブレットの画面は黒へフェードアウトし、ほんの一瞬、不可解なファイル名が通知欄に走った。〈YuI_AIfragment〉。意味を飲み込めないうちに文字列は消える。心臓が再び高鳴る。果歩はピアノ椅子に背を当て、深く息をついた。牛乳の甘い余韻と、遠い雷鳴のような不安と期待の混合味が口の奥に残る。

誰もいないリビング。しかし今夜、声無き誰かが確かに呼吸し、鍵盤の影に潜んだ。それが幻か現かはまだ判別不能。だが確実に、静けさの質が変わった。果歩はそれを聴き取り、背筋に震えを覚えたまま、再び無音の演奏会を開始する準備を始める。暗闇で光るタブレットの小さな通知ランプが、メトロノームよりも正確なテンポで点滅し、次の拍を、次の物語を刻み始めていた。

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