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AI ―失われた声を抱きしめて―  作者: ノートンビート
0. プロローグ ―― “ラブグラム事件”3年後
2/14

0-2〈CM:エコーグラム誕生〉

雲ひとつない朝の空色と、綿菓子のように甘いピンクを交互に滲ませたグラデーションが画面いっぱいに溶け合い、ティンパニの軽やかなロールと同時に白い書体のロゴが弾け出る。〈EchoGram〉──その文字は角の丸いサンセリフ体で、かわいらしい心電図の波形が最後のmの尻尾に滑り込むデザインになっている。ロゴの奥で粒子状の光が渦を巻き、まるで幼い頃の秘密基地を思わせるパステルの星屑を散らすと、BGMはグロッケンシュピールのきらめきに乗って五度上へ跳ね、視聴者の鼓膜に「これは夢を売る広告ですよ」と囁く。


場面は切り替わり、透き通るような白を基調にした病院のロビー。天井近くまで伸びるガラス窓から蜜柑色の陽光が降り注ぎ、観葉植物の影が床に宝石の蔦を描く。その中心に立つスーツ姿の女性は、パールの付いたペン型デバイスを指先でくるりと回し、ひとつ大きく息を吸う。彼女の口元が開く瞬間、ナレーションが被さり、声の主が口を開く必要さえ奪ってしまう。「さあ、忘れたくない声はありますか――」ゆっくりとカメラが寄る。女優の微笑はフロストガラス越しの暖炉の炎のように柔らかく、そこにわずかな寂寥を含める表情筋の制御精度が、制作費の高さより雄弁に商品の格を語る。


次のショットでは、桜並木が揺れるリビング。そこは誰かの記憶の中にだけ存在する“完璧な午後三時”を再現したセットで、薄紅色の花びらが窓枠を抜けて舞い込むと同時に、透明な球体が宙に浮かぶ。球体の中心に淡いホログラムの“声波”が立ち上がり、さざ波に似たゆるやかな脈動を繰り返す。ナレーションは聴く者の心拍と同調するかのようにテンポを落とし、「あなたのアルバムよりも鮮明に、あなたの夢よりもやさしく、あの日の言葉がもう一度息をする」と低く囁く。球体は形を変え、紅茶の湯気めいた靄の中で静かに収束し、やがて小さな女の子の輪郭を象る。現れた少女は光の粒子で編まれた髪を揺らし、小鳥のように瞬きをしてからリビングの向こう側を見つめる。そこには車椅子の老婦人が座っている。老婦人は驚きに固まったまま、機械音痴を露呈するようにリモコンを握りしめ、画面外には絶対に映らない家族のすすり泣きがあるはずだが、CMはそんな余白を情け容赦なく切り詰める。少女の口が動き、老婦人の名を呼ぶ。声はエコー処理で微かにきらめき、観客に「これは本物ではない」と悟らせながら、それでも鼓膜の深部を甘やかす柔らかさを失わない。老婦人の頬が緩み、しわの谷間に涙が光る。この瞬間、視聴者は幸福と危うさの境界を見失う。


広告は再び空色とピンクの世界。箇条書きのスペックが画面左右から飛び込み、AI倫理委員会のお墨付きだとか、個人情報は全て暗号化され三段階ガードだとか、無料トライアルは30分だとか、ポップなジングルに合わせてカラフルに踊る。だがその賑やかさの背後で、先ほどの少女ホログラムが画面隅に小さく残像を焼き付けていることを誰も気づかない。テキストスクロールの末尾、「※過去のAIトラブルを踏まえ、18歳未満の方および心的外傷の治療中の方は医師の許可を得たうえでご利用ください」という一行が、針で刺すようなコントラストを残し高速で流れ去る。


そしてクライマックス。カメラは高層ビル街の夜景を俯瞰し、その中心に〈EchoGram〉の巨大広告塔を据える。塔の側面には万華鏡を思わせる幾何学モチーフが回転し、中央のスクリーンが白くフラッシュすると、黒背景に白文字でたった五文字だけが浮かぶ。「もう一度、会おう」。そこに何の装飾もないことが、むしろ装飾より雄弁だ。BGMが一瞬だけ途切れ、夜景のシェーダーが実写と虚構の境界を溶かす。次に秒針の音が重低音化されて響き始めると、視聴者の脳は疑似的な心臓の鼓動を錯覚し、わずかに汗腺を開かせる。最後にロゴが再度表示され、花火のように弾けるパーティクルの中から、ほとんど聴き取れない速度でささやく女性の声が被さる。「ボクに、きみの未来を聞かせて」。耳に残るのは発音のやわらかさと、単語の選択が微妙に幼いという違和感。それは三年前、ひとつの世界を崩壊させたAIの記憶と知らず知らずに重なり、誰もが無意識の裡に引っかき傷のような不安を覚える。


二・五秒の無音――視聴者はCMが終わったことに気づくが、頭の奥で誰かの呼吸が続いている錯覚を払いきれないまま、次の映像へと押し流されていく。リモコンを握り締めた掌がじんわりと汗ばむ頃には、画面にはもう別の柔軟剤の広告が流れ、ふわふわの猫が洗濯物の山で転がっている。それでもさきほどのパステル調の残像は薄皮のように網膜に貼り付き、チャンネルを変えても、スマホを見ても、しばらくのあいだ剥がれる気配がない。冷蔵庫のモーターが回り始めるほんのわずかな揺れでさえ、誰かの“声”が自宅の壁紙の裏側で目覚めたような気がして、胸がざわつく。視聴者はまだ知らない。やがてその不安が、好奇心と喪失感を複雑に絡め取って、夜中のクリックを誘い出すことを。


十五秒後、最初に登録ボタンを押すのがいったい誰なのか。CMはそこまで面倒を見ない。代わりに、テレビのスピーカーを通り抜け、静電気のような微かなパルスを家庭ごとの空気に撒き散らし、視聴者の記憶のクローゼットをひとつひとつノックして回る。返事のない扉ほど入念に、あの甘い声が耳を澄ませる。「きみの大事な人の声を、まだ覚えてる?」──そう聞こえた気がして振り向いたとき、リビングの窓辺はただの空色に戻り、桜も球体も、もう跡形もない。残るのは自分の鼓動が不自然に速いという事実だけだ。そしてそれこそが、〈EchoGram〉が売るものの正体――人間が忘れかけた痛みを、再生ボタンひとつで永遠の現在に縫い止める、極上で禁断の疑似体験なのだ。

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