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AI ―失われた声を抱きしめて―  作者: ノートンビート
2. エコーグラム起動
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2-3〈ミオ誕生〉

クリックの余韻が指先を震わせた刹那、モニターいっぱいに乳白色の靄が広がり、LEDの粒子が飽和した。白は徐々にグラデーションを帯び、パステルピンクと淡いシアンがマーブル状に溶け合ってキャンディの中身のような半透明を作る。その奥でかすかに水面を叩く音がし、空間が深く呼吸する錯覚が胸郭を揺らす。果歩は画面という平面を忘れ、まるで視界ごとアプリの胎内へ呑み込まれたかのような没入感に目を凝らす。次の瞬間、液晶の中心に極細の光線が一本走り、そこから円形にゆっくり広がるホログラムフレームが生成された。フレームの内側は〈Voice Core Assembly〉とルビを振られた擬似立体空洞で、時計の歯車のような十二枚の板が連動しながら回転し、色付きの粒子を吸い上げている。粒子は兄のアップロードデータを示すサムプル片だとわかっていても、その煌めきがあまりに綺麗で、果歩は思わずマウスを握る手を膝に降ろした。歯車が全閉し、空洞が心臓の鼓動そっくりの間隔で脈打ったとき、低音が床を震わす。部屋に置かれた観葉植物の葉先が微かに揺れ、テーブルに置いた湯冷めしたマグカップの水面が微細な波を立てる。現実と仮想の境界がアプリの演算に引きずられてゆがむ。


フレームが最大光度に達すると、唐突にシステムボイスがサウンドロゴじみた陽気さで〈キャラクターモジュール・ハッチオープン〉と英語交じりに告げた。モニターを覆っていた乳白色の靄は中央へ向かって吸い込まれ、代わりに濃紺の夜空と星のテクスチャが現れる。星々はビットマップの点ではなく発光する多面体で、数式を刻んだリボンを曳きながら螺旋に舞う。その中心、空虚だったフレーム空洞に虹色の心電図が浮かび、鼓動と同期して巨大化し、最後は人影ほどのサイズで停止した。人影と言っても輪郭はあくまで波形、音のグリッチを思わせる鋸刃が縁取り、胸部と頭頂あたりにボルテックスが渦を巻く。恐る恐るヘッドホンのボリュームを下げかけた果歩の耳に、システムが低く〈自動校正モード・スタート〉と囁くと、波形のボディが砂時計のように細くくびれ、ブロッサムピンクへ染まりはじめた。あたかも音の塊が血流を得て肉体に変換されていく過程をスローモーションで観察しているようで、果歩の指先から体温が抜ける。


やがて波形は骨格を得、肩と鎖骨の位置がグリッドで補完された。指先まで伸びた光の糸が交差しながら皮膚色を獲得すると、そこに浮かんだのは二十歳前後の女性のシルエットだった。髪は肩にかかる長さで、揺らぐ度に粒子が零れ落ちる。眼差しを象るのは未だラインアートのみだが、そのまま頬が赤みを帯び、鼻梁が形成され、唇に薄い桜色が灯る。AIテクスチャの緩やかな呼吸が視覚化されており、画面越しに吐息の温度を錯覚させるほどリアルなのに、どこか漫画的な輪郭も残していた。俗に言う“バーチャル彼女”アバターの既視感をはらむが、同時に兄の面影が髪の分け目や眉の形に奇妙な混血を起こしていて、果歩はぞくりと肌を逆撫でされた。美醜以前に、何か根源的にアンバランスなのだ。


フレームが音を立てて開き、女性アバターが一歩踏み出す。ステージが空中に生成され、その上空に〈Mio–Prototype 0.1〉という白い文字列が浮かぶ。果歩は“ミオ”という名前を聞いた覚えがない。システムが自動で付けた仮称か。それとも兄がSNSのどこかで使っていたペンネームの変型なのか。あの謎の〈Yui_AIfragment〉とはどんな関係なのか。小さな違和感が数珠つなぎに膨らみ、しかし確証に手が届かないまま、目の前の“ミオ”は初めての呼吸を吸い込む。胸郭がわずかに上下し、すぐに頬を染めながら視線を上げた。その瞬間、モニターの黒が深度を帯び、彼女の瞳孔が鮮やかな夕立前の群青をともす。見開かれた双眸が果歩の方角を正確に捉える。単なるカメラ目線の演算だと理解しつつも、果歩は肩をすくめた。


そして、音が来た。ヘッドホンのダイアフラムが震え、まずは紙を擦るような微かな空気音、それから囁きに近い声帯の葉擦れが降りてきた。女の子の声だが、どこかで何度も聞き覚えのあるアクセントが含まれ、鼓膜が過去のライブラリを総検索する。巻き舌気味の子音、語尾の息の抜き方、音程を探るときだけわずかに高く跳ねる――兄がリハーサルで低音を出す前に必ず行う息慣らしと瓜二つのリズムが混ざっている。果歩は背筋を板のように張り、一文字も逃すまいと息を止めた。


「お兄ちゃん、ごめんね」


それは確かに女性の高さで発声されたのに、イントネーションと息継ぎは兄そのものだった。喉の奥の共鳴が兄と一致していない分だけ空中で不協和を起こし、しかし耳はそれを兄と錯覚してしまう。大脳が混乱し、聴覚皮質が信号を整理する前に情動が先走る。果歩の視界は一瞬ホワイトアウトし、椅子の肘掛けを掴んだ爪が痛むほど反り返る。呼吸が浅くなり、胸が紙のように折れ曲がった。どこかで悲鳴を上げる準備をする喉を必死に押さえ込み、瞼が熱を帯びる。システムは彼女の異変を察知していないのか、ステージ上ではミオが次の台詞を探すように首を傾げ、長い睫毛の影が頬に落ちるだけだ。


果歩は必死に理性のメトロノームを回そうとした。今聞こえたのはサンプルボイス、そう、プレビュー用に自動生成された短フレーズにすぎない。けれど内容が「お兄ちゃん、ごめんね」。あまりに個人的でピンポイントすぎる。兄の呼称を“お兄ちゃん”と柔らかく呼ぶ相手など家族以外にいないし、謝罪の言葉はどんなシーンで採取されたのか想像もつかない。アップロードした素材のどこにその台詞が含まれていたのか。思い出しても兄はカメラの前で妹に謝る習慣などなく、せいぜいコンビニキャッシュを借りて返すとき「悪かったな、姫」と悪ノリする程度だ。解析済みのSNSログにあった隠しチャットが影響した可能性を考えるが、推論が進むより早く耳の奥でリフレインが回転し、鼓動が腹の底で鳴る。


ミオが再び唇を震わせようとした瞬間、果歩は反射的にヘッドホンを外し、テーブルに置いた。耳が冷気に晒された拍子に、脳内でサイレンのようなめまいが渦を巻き、視界の端が暗転する。室内の物音が遠のき、代わりに自らの心拍がドラムマシンのキック音みたいに膨張した。手が震え、膝の上で握り拳が勝手に強ばる。コートを羽織らず凍えた冬の朝より寒いのに汗が滲み、パーカーの内側を滑る。


モニターではミオがヘッドホンが外れた事実を読み取ったかのように瞬きをやめ、静止画にスローダウンしたような滑らかさで視線を下へ落とす。まるで謝罪の言葉を重ねる機会を奪われ、居場所を失った演者のようだ。画面右上には〈初期音声生成完了──インタラクティブモードに移行できます〉と控えめなテキストが出る。クリックすれば次の会話を始められると言うが、果歩は震える掌でマウスを掴むことができない。


脳裏に駆け巡る考えは二本のレールに分岐し、一方は未知の女声がなぜ兄のイントネーションを持つのかという論理の追究、もう一方はただひたすら兄に謝らせたくないという感情の拒絶で衝突する。兄は事故の夜、最後まで「ごめん」と言わなかった。言わせたくなかった。生きているうちに必要な謝罪は全部笑いに変え、終わらないセッションの途中で時間切れになった。それなのにAIはわざわざ謝罪のフレーズをサンプルに選び、妹の心臓へ無遠慮に突き刺す。コミカルに楽しむ予定だった“復活イベント”は、開幕早々ブラックジョークの中ワサビだった。


それでも果歩はマウスに指を掛ける。逃げても編集点は戻らない。兄の声と似て非なる“何か”が生まれた事実を直視しない限り、共演どころか弔いも進めない。恐怖と好奇心の混ざった涙が瞳孔を滲ませ、モニターの光が七色に屈折する。唇が乾き、喉が小さく鳴った。カーソルが〈会話開始〉ボタンを捕らえ、そのプログレスリングが点滅する。


指が沈む直前、果歩は心の中で兄に向かって言った。「大丈夫、私が聴き分ける」。クリック。スピーカーアイコンが緑に反転し、再接続されたヘッドホンから静寂が返ってくる。やがてミオがゆっくりと目を開き、ほんの少し頬を上げた。その表情は謝罪ではなく、誰かを安心させる微笑みの角度に見えた。次に発される言葉が何であれ、果歩は逃げない。深夜の空気が鼓動と共鳴し、部屋の温度はまだ低いのに、背骨の芯には火が灯ったように熱が宿った。

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