二話
俊彰が珈琲を飲み終えたのを確認し、天音は天井近くに飾られている鳩時計を見た。
二人は、いい時間だねと頷きあい、席を立つ。各々、お金を払い、店を出た。
歩道に立てば、すかさず寒風が吹き抜けていく。
コートの首元を押さえた天音の横で、肩をすぼめた俊彰が「さむっ」と呟いた。
前ボタンをとめない姿にぎょっとした天音が、すかさず「ボタンは?」と訊ねれば、俊彰は「近いから」と一言で片づけ、片手で鼻頭を軽くこすった。
並んで歩き始めた二人は、喫茶店から引き続き、互いの近況や共通の友達の話題に花咲かせながら進んでいく。
真夜中に雪が深々と降りつもり、路肩に積み上げられた雪山も、今日は格別、綿毛のごとく真っ白い。対照的に無数の車が走る道路は無残にも黒くなり、太陽にあてられた歩道は小粒な氷の粒ががたがたと堆積していた。踏むごとに氷がざくざくと擦れ鳴る。
横道にそれると積もった雪により歩幅が狭められ、一本道になった。
先に天音が歩き、後ろから俊彰が追う。前後で歩くと、互いの声が聞こえなくなるため、自然と二人は黙して歩くことになる。
角を曲がり、稲本という表札がかかる三軒目の一戸建て前で二人は立ち止まった。
横に並び、視線を合わせる。天音は目を伏せ、俊彰は前を向く。一歩前に出た俊彰がベルを鳴らした。
ガチャリと扉が開かれる。
顔を出した壮年の女性が、二人を見るなり破顔した。
「天音ちゃんに、俊くん。久しぶりねえ」
「お久しぶりです、亮のお母さん」
俊彰がぺこりと頭を下げ、後ろに控える天音も習った。
家から顔を出した女性は、二人のもう一人の幼馴染、稲本亮の母である。
「ご無沙汰してます」
小声で天音が挨拶すると、からからと亮の母は笑った。
「久しぶりだの、ご無沙汰してますだなんて、照れくさいわあ。もう、なんて立派になっちゃって。ビニールプールで、亮と三人で遊んでいた子たちが、ああいやだわ、それって私が年取ったってことじゃない」
頬に手を当てた亮の母は、照れながら、思いっきり俊彰の二の腕をぶったたいた。「いてっ」と俊彰が大げさに悲鳴をあげる。亮の母が「あら、ごめんなさい」と悪びれず謝れば、俊彰はすねるように口をすぼめた。目を細めた亮の母は、大きく扉を開き、「さあ、入って」と二人を招き入れた。
玄関に入ると、天音は靴を脱ぐ前に、ベージュのショルダーバックからリボンで十字に結んだ箱を出して、亮の母に遠慮がちに差し出した。
「今年の、チョコレートです」
俊彰へ向けた明るい笑顔とはうって変わり、亮の母は柔和な微笑を浮かべて、言った。
「ありがとう。亮もきっと喜ぶわ」
チョコレートが入った箱を受け取った亮の母は、「さあ、寒かったでしょ。入って」と促して、靴を脱いだ二人に「亮の部屋で待っててね、今、紅茶淹れてくるから」と言い、奥にある台所へと向かう。天音と俊彰は、声を揃えて「お邪魔します」と告げ、幼稚園、小学生と何度も遊びに来て、勝手知ったる階段を上り、二階廊下一番奥にある扉へと向かった。
扉前で一呼吸置き、ノブに手をかけた天音が扉を開けた。
ふわっと風が抜けてゆく。
歳月が天音の身から剥がされる。
時間が巻き戻されるような感覚を覚え、まるで小学生まで背丈が縮むかのような錯覚に包まれた。
床板むき出しの布団のないベッド。
小学六年生の教科書を上棚に並べたままの学習机。
八年前の少年漫画雑誌がそのまま並べられた本棚。
小学生が好むおもちゃを詰めた隅のおもちゃ箱。
現世から切り離されたかのように時間が凍り付いた室内には、喪った重みが滞留している。
悲哀がじんと染みてきて、目じりがじんとしびれても、天音は前に踏み出した。
その横を、俊彰がすり抜ける。
ずっと子どもの背丈に合わせたまま変わらない学習机。日本地図と世界地図が挟まれたデスクマットが敷かれた天板に、いくつもの写真立てが飾られている。入学式、遠足、運動会、七五三などの各種行事の写真が並ぶ。
机の前に立った俊彰は、中央に飾られた一回り大きな写真をちょんと小突いた。
「今年もきたよ、亮」
永遠に変わらない闊達な笑顔の亮に、すっかり大人になった俊彰が語り掛ける。
登場人物
・安藤天音
・新井俊彰
・稲本亮